10/25 こども説教 マタイ26:17-26
『まさか私のこと?』
+付録/故・久保田良、愛子、記念会
「自分を捨てて従え。そうすれば」(10/26)
26:17 さて、除酵祭の第一日に、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「過越の食事をなさるために、わたしたちはどこに用意をしたらよいでしょうか」。18
イエスは言われた、「市内にはいり、かねて話してある人の所に行って言いなさい、『先生が、わたしの時が近づいた、あなたの家で弟子たちと一緒に過越を守ろうと、言っておられます』」。19
弟子たちはイエスが命じられたとおりにして、過越の用意をした。20 夕方になって、イエスは十二弟子と一緒に食事の席につかれた。21 そして、一同が食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。22
弟子たちは非常に心配して、つぎつぎに「主よ、まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。 (マタイ26:17-22)
*「パンとパン種」;おうちで、よくパンとかピザなどを作ってくれる料理好きなお母さんの子供たちには分かりやすいんですけど、パンやピザは、ただ小麦粉をコネて伸ばしたり丸めたりしただけでは、パンやピザになりません。プ~っと膨らんで、やわらかくフカフカしたパンやピザになるのは膨れる種(パン種、酵母)が入っているからです。パン種がなければ、よくコネても混ぜても伸ばしても、やわらかくフカフカにはなりません。奴隷にされていたエジプトを逃げてくる最後の夜、パン種の入っていない「ペッタンコのパン」を食べました。毎年毎年、パン種の入っていないペッタンコのパンを食べて、あの最後の夜の出来事を思い出して味わいました。それが、「除酵祭」という祭りです。
まず、除酵祭(じょこうさい=パン種を取り除く祭り)と過越祭(すぎこしさい)の説明をしておきましょう。除酵祭は、過越祭の一部分です。奴隷にされていたエジプトの国から神さまが助け出してくださいました。モーセとアロンがエジプトの王様に「私たちをこの国の外へ出してください」と何度も何度も頼みました。王様はとても頑固で、しかも気分がコロコロ変わって「いいよ行かせる」「いいやダメ」「行かせる」「やっぱりダメ」と十回もダメダメダメと神の民イスラエルを縛り付けつづけようとしました。神さまはイスラエルの民を助け出すため、最後にはエジプト中のそれぞれの家の最初の赤ちゃんを殺すという災いを起こしました。ただし、小羊の血を戸口に塗ったイスラエルの家には、それをしるしとして、『災いがふりかからずに過ぎ越し』ました。その最後の災いの夜、神の民イスラエルは大急ぎで旅支度を整え、いつもはパン種でふっくら膨らんだパンを食べたのに、パン種の入っていないペッタンコのパンを食べてエジプトから逃げ出しました。過越祭は、その夜の出来事をよく覚えて感謝するために、あの夜と同じことをし、同じ食事や旅支度をして味わう祭りです(出エジプト記12:18-27参照)。あの夜はパン種の入っていないペッタンコのパンを食べたので、祭りの準備は、一週間もかけて、余計な悪いパン種を取り除いて大掃除をすることです。パンの中だけじゃなく! 家中の隅々から、いいえ、ただ家の中だけじゃなく! 皆の心や態度や普段のあり方の中からも、神さまに逆らう頑固でわがままな心をよくよく取り除いて、ゴミ箱に捨て去って、そうやって、神さまに従って旅立つための準備をしました。それが、除酵祭(じょこうさい=パン種を取り除く祭り。マタイ16:6,コリント(1)5:7参照)という祭りの心です。
18節で、「わたしの時が近づいた、と主イエスが仰った」と報告されています。かつて子羊の血が流され、戸口に塗られて、神の民が災いから守られ救い出されたように、今、十字架で流されようとしている救い主イエスの血によって私たちは救われる。ですから世々のキリスト教会は主イエスの十字架の死と復活の出来事を『第二の過越し』と呼び習わしてきました。かつて子羊の血が流されて最初の過越しがあり、今、救い主イエスの死と復活によって『第二の過越し』が成し遂げられると。だから洗礼者ヨハネは主イエスを指差して、「見なさい。このお方こそが、世の罪を取り除く神の小羊である」(ヨハネ福音書1:29-30)と証言しました。その、私たちの救いのための、主イエスの十字架の時がほんの数日後にまで近づいています。
さて、夜になって過越しの食事(=最後の晩餐)をしているとき、「ここにいる弟子たちの中に私を裏切る者がいる」と主イエスが仰いました。弟子たち皆はとても心配になり、恐ろしくなって、「まさか私ではないでしょう」「私かなあ」「いや、たぶんお前だよ」「君じゃないの」などと言い出しました。ユダが裏切ると、はっきり告げられました。でも本当には! ユダだけじゃなく、弟子たち皆が主イエスを裏切り、主イエスを見捨てて、置き去りにして、自分たちだけで逃げ去ってしまいます。「主イエスを裏切ってしまう私かも知れない。それは、この私のことじゃないのか!」と心を傷めること。それこそが、主イエスの弟子たち皆の大事な出発点です。だってね、それまでは、「当てになる、しっかりした、正しい私だ」と勘違いして、自惚れていました。けれど、「裏切ってしまうかも知れない、危うい、全然しっかりしていない、頼りにならない私だ。本当に」と気づきはじめました。そのときから、主イエスを頼みの綱として、主イエスに信頼を寄せて生きることを、やっとようやく、まるで生まれて初めてのように! しはじめようとしています。私たち皆も、彼らと同じです。「まさか私のこと?」と心が痛くなりましたか? もし、そうならば、主イエスを信じて新しく生きはじめることが、あなたや私にも出来るかも知れませんね。
◎とりなしの祈り
イエス・キリストの父なる神さま、だからこそ確かに私たちの本当の父になってくださり、主イエスをとおして私たちをあなたの本当の子供たちとして迎え入れ、養い、支え、守りとおしてくださる神さま。心から感謝をいたします。あなたを信じる信仰をますます私たちに与えてください。あなたの御心を思い、あなたの御言葉にますます聴き従って生きる私たちとならせてください。
神さま。国と国のケンカを戦争というそうです。国と国も、大人同士も、夫婦も親子も、子供同士でも、外国の人とも誰とでも、ケンカをしないでいさせてください。私たちの国の中でも、大人も子供も、強い豊かなものが弱い貧しいものをいじめたり、のけものにしたり、便利にただ利用されたり、困らせたり苦しめたりしませんように。沖縄の人々もそうです。まるで植民地のように、まるで支配される奴隷のように、彼らは力づくで言いなりにされつづけています。薩摩藩に力づくで占領された1609年から今日まで、316年もの間ずっとです。1972年に米国統治下から日本領土に変更された後でも、力づくで言いなりにされつづける中身はほとんどまったく変わっていません。「自分たちだけに戦争の基地や爆弾や外国の兵隊たちを押し付けられるのは嫌だ。朝から晩まで耳も心も壊れてしまうほどのジェット機の爆音にさらされ、ビクビクしながら暮らすのは嫌だ」といくら訴えても聴いてもらえません。「普通に生きる最低限の権利があるはずだ」と訴えても、「権利はない。憲法が保証する権利も人権も、そこでは適用されない」と撥ね退けられます。まったく本当に、お詫びのしようもありません。申し訳ないことです。福島から避難して遠くの土地で暮らす人々もそうです。原子力発電所事故がまだまだ全然収束していないのに、そこで仕方なしに暮らす大人や子供たちもそうです。あちこちの原発の町で暮らす人々も、そこで使い捨てのようにされて働く労働者たちもそうです。日本で邪魔者扱いされ、片隅へ片隅へと押しのけられながら心細く暮らす外国人たちとその家族もそうです。職業訓練生、研修生と呼ばれて、この国で安く働かされている外国人たちも。ですから神さま。まず、この私たちに勇気と、間違っていることは間違っているとする公正な心を与えてください。戦争やケンカをはじめようとする人たちに、気に入らない都合の悪い誰かを踏みつぶそうとする人たちに、この私たちも、大きな声で「やめて」と言うことができますように。困っている人や、貧乏な人や、心や体を弱らせている人たちや、心細く暮らす人たちに、相手が日本人でも外国の人たちでも、同じ真心をもって手を差し伸べる私たちにならせてください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン。
◎付録/「故・久保田良、愛子、記念会」
『自分を捨てて従え。そうすれば』
(ルカ福音書 9:20-25)
「人 もし我に従い来らんと思わば、己をすて、
日々 おのが十字架を負いて我に従え」
(ルカ福音書20:23/文語訳)
この掛け軸、探し出して、今日のこの日のためにわざわざ掛けてくださったものです。
良さん、愛子さんの生涯を味わい、私たち自身もまたそれぞれに短い生涯を生きてやがて死んでいくことをつくづくと思い起こすために、この聖書の一句をごいっしょに読み味わいましょう。「人もし我に従い来らんと思わば、己をすて、日々おのが十字架を負いて我に従え」さらに続けて、「己が生命を救わんと思う者はこれを失い、我がために己が生命を失うその人はこれを救わん」。実は、これこそが良(りょう)さんのお祖父さんである甲子治(かねじ)さんからこの一族へともたらされたキリスト教信仰の、その中心にある生命です。現代語に訳したもののその全体を、お手元の印刷物の中のページに記しておきました。ルカ福音書 9:20-25;
彼らに言われた、『それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか』。ペテロが答えて言った、『神のキリストです』。21 イエスは彼らを戒め、この事をだれにも言うなと命じ、そして言われた、22 『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる』。23 それから、みんなの者に言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。24 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。25 人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか』」。
神さまであられ、同時に身を屈めて人間ともなってくださった救い主イエス・キリストは、その弟子たちに尋ねました、「世間の皆は私のことを何と言っている? ほおお、それじゃあ、あなたがた自身は、この私のことを何と言うのか」。弟子の一人が答えました、「神であられる救い主です」。そこで主イエスは、大切な秘密を弟子たちに初めて打ち明けました。救い主である自分がどうやって人々を救うのか。その方法と手順と、救いの中身についてです。22節に「人の子は」とあります。救い主イエスがご自分のことを度々こう仰いました。ですから、「この私イエスは多くの苦しみを受け、捨てられ、十字架の上で殺され、そして三日目に復活する」と。さらにつづけて、「私について来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、私に従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、私のために自分の命を失う者は、それを救うであろう」と。
「自分を捨てて」と厳しく命じられます。これを本気で、「はい。分かりました」と額面通りに受け止めることができるかどうか。そこに、信仰の新しい生命を受け取って、新しく生きはじめることができるかどうかがかかっています。誰でも皆、「いいや私は! 私は私は」と我を張りつづけていました。神さまの仰ることも人様の言うこともろくに聞きもせず、ただただ「私のやり方は、私の好き嫌いや気分や感じ方は。私の体裁は、面子は」などと。これこそが、神さまにも人さまにも逆らってばかりいる私たちの罪の実態であり、『古い罪の自分』です。それでは救い主について行くことなど到底できません。なんとしても捨てねばならない『自分。己』とは、そういうものです。「自分を捨てなさい」と命令されて、どんな気持ちがしますか? 嬉しいですか。それとも、なんだか嫌な気がしますか。正直なところ、嬉しくもあり、嫌でもありますね。「自分を捨てちゃったら、どうやって、何を生きがいにして生きていっていいか分からない」などとも思います。けれど心を鎮めて、よくよく考えてみますと、「いいや私は。私は私は」とか。ただただ「私のやり方は。私の考え方、私の好き嫌いや気分や感じ方は。私の体裁は、面子は、私の評判は」などとかたくなに、頑固に、我を張りつづけるのはあまり楽しくない。「どうしてもこうでなければならない」などとこだわって言い張りつづけなければならないほど大切なものは、そう多くはない。ないことはないけど、案外に少ない。多くの場合、あんまり大事でもないことで、私たちは意固地に頑固になっています。「私のやり方。私の考え方、私の好き嫌いや気分や感じ方。私の体裁、面子、私の評判」、ようく考えてみると、それは、あまりたいしたものではありませんでした。そのつまらない頑固さを止めることができれば、どんなに晴れ晴れすることか。恥ずかしい話ですが、実は、クリスチャンになった後でも、何十年たっても、まだまだなかなか、その「いいや私は。私は私は」という頑固さを捨てきれません。それで、度々ハッとして気づかされます。「ああ、またやってしまった。また頑固になり、我を張っている。また、私は私はと自分の好き嫌いばかりを押したてようとしている。なんとことだろうか」と。それで、思い直し思い直ししながら、毎日毎日自分を捨てながら生きていきます。救い主イエスが十字架の上で死んで、葬られ、復活してくださったからには、この私たちも『頑固な古い罪の自分』を十字架につけていただき、殺して投げ捨てていただき、その恵みの結果として、「いいや私は。私は私は」という頑固さの言いなりにされず、罪の奴隷にもされずに、神さまの御心に従って生きて死ぬ者とされていきます。それぞれとても頑固なんですけれど、なにしろ神さまこそがこの私のためにも『頑固な古い私』を捨てさせてくださり、『神さまに従って生きる素直な私』にならせてくださる。
これが、救いと新しい生命の中身です。まずはじめに甲子治(かねじ)さんが受け取り、一族の中に次々と手渡されていった信仰の中身です。それは、とても晴れ晴れとしていました。それはとても心強く、慰め深い生き方でした。甲子治さんからバトンリレーのように手渡され、受け取られ続けてきた同じ幸いが、「もし良かったら、あなたもどうぞ」と、ここに集った私共一人一人にも改めて差し出されています。「人もし我に従い来らんと思わば、己をすて、日々おのが十字架を負いて我に従え。己が生命を救わんと思う者はこれを失い、我がために己が生命を失うその人はこれを救わん」。
祈りましょう。 (10,26
久保田家ご自宅にて)
(*1)招きの詞
讃美歌
故人の略歴
讃美歌
聖書
説教
祈り
讃美歌
派遣と祝福
上記が、当教会の葬儀式、記念会などのおよその式順です。「故人の歩みや業績や家族・友人らとの格別な交際などに、どうして説教でほとんど触れないのか?」と疑問に思われるかも知れません。ご覧のように、「故人の略歴」と「説教」とを分離しているのが特色です。「略歴」は長老の一人が手短に紹介し、「説教」は聖書の説き明かしに集中します。略歴紹介でも、「召される間際に呼吸が浅く苦しげになり、ややしばらくの間は酸素吸入をし、やがて……」などと詳細には語りません。それは遺族がよくよく承知しており、別の機会に詳しく語り合うこともできるからです。故人が受け取った神の恵みを聖書から明らかにし、残った私たちが同じ祝福にあずかっていかに生きうるかをこそ、一途に説き明かします。すると、その集まりの意味も目的も、いつもの普段の礼拝とまったく同じです。
(*2)つい先日、「葬儀依頼願書」を改訂し、皆に配布しました。送付の際の添え状にこう書き記しました;「従来からの書式ですでに願書を提出していただいている方々にも、改めて、同封の『葬儀依頼願書・改訂版』に記入して、ぜひ提出していただきたいと願っています。申請人を、『ご本人とご家族の連記』としました。ご家族にも十分にご理解いただいて、ご一緒に葬儀などの判断をしていただきたい、と考えました。これを機会に、私たちの信仰の中身や、神さまを信じて生きることの幸いを、ご家族にも受け止めていただくための良い語り合いのときとなりますなら嬉しいことです。
『やがて死すべき自分であることを思え(メメント・モリ)』と西欧の古い格言は告げています。こうした書類を書き、自分自身の生涯や死を思うことは、残された時間を惜しみつつ魂に刻んで生きるために有益です。年配の方々にも、若い方々にも、それは同じことでしょう。よろしくお願いします」。