みことば/2015,11,1(主日礼拝) № 31
◎礼拝説教 マタイ福音書 6:5-10
日本キリスト教会 上田教会
『天にいます私たちの父よ』~祈り.1~
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
6:5 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。6
あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。7
また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。8 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。9
だから、あなたがたはこう祈りなさい、
天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
10 御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。 (マタイ福音書 6:5-10)
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9節から、いよいよ祈りの手引きが実際に具体的になされます。その前に下準備として、5-8節で、前置きが語られました。山に登ったり、本格的に運動を始めるためには、必ず膝の曲げ伸ばし、アキレス腱を伸ばしたり手足や首のグルグル回しなどの準備体操をしますね。そういう感じで、「偽善者たちのようにしてはいけない」「人に見せよう、聞かせようとして祈ってはいけない」「くどくどと祈ってはダメ。もちろん、美しく格調高く、厳かに、ご立派そうに祈ろうとしてもいけない」。でも、どうして? その人の欲求と恐れが、まわりにいる人間たちのことばかり考え、神さまのことをほんの少しも思っていないからです。すっかり忘れちゃっているからです(マタイ16:23参照)。もし、ただただ人間たちに向かって、人間の前で、人間たちだけを相手にして祈るなら、そんなもの、祈りでもなんでもなくて、ただの人間同士の発表会・品評会にすぎないではありませんか。
では祈るとき、神さまはどのように生きて働いてくださるでしょう。聖書によって私たちは、3つの神さまを信じています。父なる神、独り子なる神イエス、そして聖霊なる神を。「この3つの神さまはそれぞれバラバラ勝手にではなく1つ思いになって働く」と教えられてきました。これが三位一体なる神という意味です。では、神さまご自身は、どういうふうに1つ思いになって働くのか。ぼくが教えられたのは、縦並びの神さまの在り方です。先頭に立つ父なる神、その後ろに独り子なる神イエス、その後ろに聖霊なる神。主イエスも聖霊なる神も、へりくだった心の謙遜な神さまです。「私が私が」と我を張ったり、やたらと自己主張したりなさらない。誰かが問いかけます、「あなたのことを教えてください。あなたの独自性や、すぐれた点や素晴らしさや重要性を」。すると主イエスは、「いいえ。私は父から委ねられ、命じられたこと以外いっさい何もしません。むしろ父の御名が崇められるように。父の御心こそがこの地上でも実現し、父の御国が到来しますように」。聖霊なる神もまた、「私については、ただその働きにだけ心を向けてください。私は主イエスの救いの御業とその教えをあなたがたに思い起こさせ、教えます。私はあなたがたに、主イエスを信じさせます。だからあなたがたも、イエスはイエスはと心を向け続けなさい」。しかも父なる神は、「これは私の愛する子、これに聴け!」と、ただもっぱら主イエスをこそ名指しして、主イエスに聴き従うことを私たちにお命じになる。こうして、3つの神が1つ思いになって働くことができる。神さまを信じることは、神さまの御心とご意志に従って生きることです。信じるとは、そのことです。私たちも、聖書と神ご自身の指図に従って、そこでようやく、1つ思いになって働く神を信じて生きることができます。それで聖霊なる神を、聖書自身が「キリストの霊」と証言し、私たちの内に宿って働く聖霊なる神の力を「イエスご自身の力」と証言しました(*補足。例えばローマ手紙8:26-28は「聖霊なる神さまが私たちの祈りを助けて、執り成す」と証言する。「イエスの救いの御業は。イエスの教えは」とイエスを指し示し、イエスへと私たちを導きつづけながら、聖霊なる神はもっぱらそのようにして私たちの祈りを助け、また執り成します。聖霊なる神のお働きを抜きにしては、祈りは成り立ちません。祈りだけではなく、聖書を読むことも、神を知ろうとするどんな学びや研究も、1回1回の礼拝も、聖霊なる神のお働きを抜きにはただただ形ばかりのものとなり、決して実を結ぶことがない。ではそのとき、聖霊なる神は何をするのか? もっぱら私たちを主イエスへと向かわせ、イエスを信じさせ、イエスの教えを思い起こさせ、そこに私たちを留め置きます。これが、聖霊なる神に関する理解の主要点です。ヨハネ手紙(1)4:1-3参照)。
祈りにおいても他の何についても、最も大切なこととして伝えられてきたものは何だったでしょう。救い主イエスの死と葬りと復活、天に昇って今も生きて働きつづけ、やがて再び来られますこと。これこそが生活の拠り所、私たちを救う信仰の根源的な土台でありつづけます。つまりは、救い主イエスの救いの御業に目を凝らし、そこにこそ集中しつづけています(ヨハネ福音書5:39-40,20:30-31,コリント手紙(1)15:1-5参照)。ですから例えば、祈りのおしまいにいつも必ず何というかを教えられてきました。「主イエスのお名前によって祈ります、アーメン」。イエスのお名前によって祈る。だから、祈りは聴き届けられる(ヨハネ福音書14:13-14,15:16-17)。これが、1つ思いになって働く3つの神さまからの救いの約束です。
さて、あの弟子たちは主イエスが祈っている姿を何度も見ていました。朝起きて、主イエスは祈っていました。夜眠るときにも食事の前にも、主イエスは祈っていました。うれしそうにニコニコして祈っているときもあったし、苦しそうに顔をゆがめて祈っているときもありました。穏やかに、とても安らかに祈っているときもありました。必死に激しく、しがみつくように格闘をするように祈っているときもあったのです。弟子たちは、その姿をいつも見ていました。それはちょうど、子供が父さん母さんの働く姿をいつも見ているように。喜んで働く姿があり、苦しみ悩みながら働く姿もあったように。いつも見ているうちに、「自分もあんなふうに祈ってみたい」と思いました。彼らも、祈りをまったく知らなかったわけではありません。それどころか、いろんな人のいろんな祈りが彼らの周りにあふれていました。けれど、自分たちの祈りや他大勢の専門家たちの祈りと主イエスの祈りとではどこかが決定的に違う、と気づきました。その違いは大きく、しかも主イエスの祈りの姿は素敵でした。彼らの魂を揺さぶり、心を強くひきつけました。主イエスが祈るように、この私も祈ってみたい。それが出発点です。弟子たちは主イエスの御前に進み出て、こう願い求めました。「先生。私たちにも祈ることを教えてください。あなたのその祈りを私たちにも教えてください」。主イエスが父なる神に語りかけ、聞き届けているように、この私も同じく父なる神に語りかけ、聞き届けたい。ちょうどあんなふうに。《どう祈るか》という問いは、祈りの仕方や作法についての問いであることを豊かに越えています。それは、生き方そのものについての、祈りと信仰をもってこの私がどう生きることができるのかという問いです。
誰が祈るどんな場合にも、その祈りの本質はまず呼びかけに表われます。祈るとき、あなたはどんなふうに呼びかけているでしょう。例えば「主なる神さま」と呼びかける人は、神が主であり、その主人のしもべである私だと知りながら、そのことを大切に受け取りながら祈っています。例えば、「慈しみ深い神さま」と呼びかける人は、私の神は慈しみ深いと受けとめており、その慈しみ深さこそが神とその人とを結びつけています。例えば「全能の神」と呼びかける人は、何でもできる神であることに信頼し、この私のためにも何でもしてくださる神に願いと希望を託しています。例えば「聖なる神さま」と呼びかける人は、神聖にして高くいます神の御前に畏れと慎みをもってひれ伏しています。そして今、「父よ」と主イエスは呼びかけます。それが、主イエスの祈りであり、この方のいつもの基本姿勢なのです。神に対して《父よ》と呼びかける。驚くべき呼びかけです。それまでは誰一人も、そんなふうに神に呼びかけたものはいませんでした。主イエス以前には、《父よ》という祈りの呼びかけは存在しませんでした。神が私たちの父であるなどという神認識は到底ありえませんでした。なぜなら神は神。人間は人間に過ぎないからです。人間は、どこまでいっても限界ある生身の、弱さと貧しさを抱えた人間に過ぎません。神と人間とは、親子ではありません。私たちは神の甥や姪でもなく、血がつながってもおらず、神とのどんな親戚関係にあるのでもありません。人間は人間に過ぎないし、神は神であられるからです。もちろん今では、私たちは「父なる神」「御父」「天におられる私たちの父であってくださる神」などと祈り、そのように呼びかけることが許されています。今では、それはふさわしいこととされました(ガラテヤ手紙4:4-7,ローマ手紙8:14-17)。けれど、それは「こう祈りなさい」と教えられ、許可されたあの時に始まったまったく新しい出来事です。「父なる神さま。御父。天におられる私たちのお父さま」;それらは正しく真実です。しかもその意味は、《イエス・キリストの父なる神さま。だからこそ確かに、私たちの父であってくださる神》。《イエス・キリストは神の独り子であり、私たちはこのイエスを主とし、イエスのものとされている。そのイエスによって、神は私たちをご自分の真実な子としてくださった》ということです。つまり、この主イエスというお方を抜きにしては、神を父とすることはありえません。私たちは神の子とされました。どんな私か、どんな信仰か、どんな生まれや生い立ちや素性かなどと私たちの側の資格や条件を一切問うことなしに、ただ恵みによって、神のあわれみの子とされています。「父よ」という神への呼びかけは、私たちにそのことを思い起こさせます。主イエスによって開かれた新しい恵みの道を、イエスによって贈り与えられた神とのまったく新しい関係と結びつきを、私たちに思い起こさせます。主イエスがあの『主の祈り』を与えてくださって以来、「父なる神」という呼びかけと《神を真実な父とし、その父の子とされている》とする生き方、腹の据え方は、私たちキリスト者の格別な財産になりました。「父よ。父なる神さま」と私たちは呼ばわります。この神は私たちを愛し、見守り、私たちがよりよく日々を生き抜き、すくすくと成長してゆけるようにと励まし、手を差し伸べ、導いてくださいます。親のような神であり、神の子供たちとされている私たちだと。
◇ ◇
いまや神が私たちの父である。どんな父でしょう。十字架におかかりになる直前、ゲッセマネの園で、主イエスは「アッバ、父よ」と祈っておられました。アッバというのはその地方の独特の言葉で、子供が自分の父親に向かって呼びかける呼び名です。言葉を覚えはじめたばかりの小さな子供が、お父さんをこう呼びます。「おっとう。父ちゃん」と。神の子とする霊を私たちも受けました。この霊によって、私たちも神を「おっとう。父ちゃん」と呼びます(マルコ14:36,ローマ8:15)。ちょうどまったく、小さな子供が自分の親に呼びかけるように。ちょうどまったく、小さな子供が何の心配も遠慮もなく「おっとう。父ちゃん」と呼びかけるように。主イエスは、「私がそう呼ぶだけでなく、今やあなたも、天の御父に向かってそう呼びかけていい。さあ呼んでごらん」と招きます。「おっとう。父ちゃん」と呼びかけた主イエスの信頼と親しさに、この私も預かりたい。その幸いと心強さを、この私も受け取りたい。若い青年の日々にそうであるだけでなく、やがて大人になった後でも、所帯をもって家庭を築き、子供の親として生きる日々にも「おっとう。父ちゃん」と天の父に目を凝らしたい。目を凝らしつつ生きることをしたい。年を取って、おじいさんおばあさんになっても。恐れと不安の中に奴隷のように閉じ込められることがもうない、というわけではありません。苦しむことも深く悩むこともあります。これからも何度も、次から次へと、「人からどう思われ、どう見られるだろうか」「私はこれからどうなってしまうのか」と私たちは恐れます。不安にかられ、さまざまな思い煩いにがんじがらめに縛り付けられる日々は次々とあるでしょう。
けれど大丈夫。なぜならば、苦しみ悩む度毎に私たちはそこから、その度毎に連れ出され、何度でも何度でも、きっと救い出されていくからです。「おっとう。父ちゃん」と天の御父に目を凝らし、小さな子供が親に呼びかけるように呼ばわり、格別な父との格別な出会いを積み重ねてきたからです。これまでもそうだった。今も、これからもそうです。もし、せっかく祈るならば、世間様や人さまに向かってではなく人々の前ででもなく! ただただ神さまに向かって、神さまの御顔の前で心を注ぎだして、私たちも祈りはじめましょう。心を鎮めて。