みことば/2015,11,8(主日礼拝) № 32
◎礼拝説教 マタイ福音書 5:43-48,ローマ手紙5:6-11
日本キリスト教会 上田教会
『敵対者たちと、
迫害する者たちのために』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
5:43 『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。44
しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。45 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。46
あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。47 兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。48
それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。 (マタイ福音書 5:43-48)
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神さまから直々に教えられてきた十個の戒めを、救い主イエスご自身がこう要約なさいました;「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一の戒めである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっている」(マタイ22:37-40,出エジプト20:1-,申命記5:6-)。「律法全体と預言者」とは、少し耳慣れない言い方です。旧約聖書のことを、「律法と預言者」あるいは「律法と預言者と諸書」などと一般に呼び習わしてきました。つまり旧約聖書のことです。しかもただ旧約聖書にとってばかりでなく、聖書66巻全体にとってこれら『神を愛し、隣人を愛せよ』という二つの戒めこそが、神さまを信じて生きることの最も大きなテーマでありつづけます。さてここには、私たちが愛すべき対象が3つ並べられています。神さまを愛すること。自分自身を愛すること。そして隣り人を愛すること。その中の1点、私たちが隣り人を愛することに今日は特に目を向けさせられます。しかも具体的に、また現実的にです。その隣り人とは実は、あなたを愛してくれる者たちのことではなくて、「このごろどうだい。なんだか顔色が優れないが心配事でもあるのか。何かできることがあったら遠慮なくなんでも言ってくれよ」などと気遣ったり、案じたりしてくれる、あなたの兄弟や親しい仲良しの友だちのことでもなくて! あなたに敵対する、あなたの陰口を言ったり、わざと攻撃を仕掛けてきたり、あなたに辛く当たったり意地悪したり、いじめたり、殴ったり、あなたを除け者にしようとする者たちのことであると。その不都合な憎たらしい敵対者たちをこそ愛し、あなたを苦しめたり困らせたりする者たちの、その幸いと祝福を求めて心から祈れ。――なぜ、そんなことを命じられなければならないのかと愕然とします。45節から、「こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。完全な者になる(48節)とは、誤解されやすい難しい言い方です。その心は、「神さまの御心にかなって生きよう。ぜひそうしたい」と願いつつ生きること。そこまでが、私たちが辿り着ける精一杯の、最善の正しさです。もし、その一線を越えて「私は正しい、正しい。ずいぶんちゃんとやっている」と思い上がってしまうならば、「正しさ」の仮面を被ったはなはだしい邪悪さへと私たちは陥ってしまいます。なぜ? なぜなら、正しく完全な人間など1人もいないからですし、「自分は完全だ。正しい人間である」という思い込みほど浅はかで愚かな考え方はないからです(ローマ手紙3:9-,10:3,創世記8:23,ヨハネ手紙(1)1:7-10)。なにしろ天の父が悪い者にも良い者にも太陽を昇らせ、雨を恵んでおられるので、あなたもできる限り公平に寛大に隣人を扱いなさい。そうしたら、天にいます父の子としていただけると。
さて、神さまを愛すること。自分自身を愛すること。そして隣り人を愛すること。そのどれもがかなり難しく、至難の業です。私たちは自分自身を愛することにも、自分の隣り人を愛し尊ぶことにも失敗しつづけてきました。例えば私たちの国では、年間3万人前後か、あるいはそれを遥かにを越える数の人々が自殺をしつづけています(*)。「駅構内で発生した人身事故のため、只今、電車の運行に遅れが出ております」と車内アナウンスは控え目に伝え、その都度、私たちの心は締めつけられます。名前も知らない見知らぬ誰かが、そのようにして一人、また一人、自分の生命を諦め、投げ捨ててしまったからです。自分自身を愛し、尊び、これでいいのだと認めて安らかに満たされることに、多くの人々が失敗しつづけています。小さな子供たちもそうです。しかも自分自身を愛することに失敗してしまった人々は心を歪ませました。その中のある人々は、その分だけ、他者を憎み、軽々しく傷つけ、排除し、虐げる者たちになってしまいました。小学生、中学生、高校生の中にも悪質ないじめが蔓延し、大人たちの会社や職場もほぼ同様です。知的障害者施設、各地の老人介護福祉施設、精神科病棟の密室、中学・高校の部活指導、柔道や相撲などスポーツ団体の指導現場で、抑圧、虐待、支配がはびこり、それらは隠蔽されつづけてきました。「隔離された小さな狭いそれぞれの密室空間」で虐待と支配は慢性化し、繰り返され、虐待防止の抑止力は働きにくかったのです。この国の様々な局面と領域に根深くはびこる抑圧、虐待、支配、隠蔽の体質と現状があります。今まで僕らは黙って傍観していたし、諦めて、見て見ぬふりをしていたし、仕方がないと泣き寝入りしていました。同じことが長い間あちこちで繰り返され、黙認されてきました。踏みつけられる無数の弱者たちの無念の涙と叫び声が、周囲の人々の耳にもこの頃ようやく少しずつ届きはじめました。また就職の季節には、たくさんの若者たちが何十社も就職面接を受け、冷淡な扱いを受け、その結果、「こんなダメな私に生きている価値はない」などと思い込まされ、絶望し、自ら死を選んでいます。なんということでしょう。
「自分を愛してくれる者を愛し、兄弟だけに挨拶をしている」;誰のことでしょうか? 今日のキリスト教会の姿であり、この私たち自身のことです。「若者たちや子供たちが離れていって、教会は衰えた」と嘆く声を聴きつづけています。右肩下がりで、年寄りばかりになって伝道者も不足し、ほんの数年後には私たちの教会は経済破綻するだろう。どうしたら再び勢いを取り戻し、活気づき、皆から愛され親しまれる繁盛した教会になれるだろうかと。兄弟姉妹たち、ここで立ち止まって、よくよく考え込まねばなりません。なぜ私たちは、自分たちが期待し要求するほどには十分に愛されないのか。愛することに、この私たち自身が失敗しつづけているからかも知れません。心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、私たちの主なる神さまを愛すること。自分自身を愛すること。そして隣り人を愛し尊ぶことを。自分たちにとって都合の良い人々をではなく、不都合な人々を愛し、自分たちに利益をもたらしそうには思えない人々をこそ親切に、温かく迎え入れよ。けれど私たちはただただソロバン勘定をし、自己愛と自己保身に汲々としつづけました。教会の存続と繁栄ばかりを願いました。その、あまりに生臭い、自己中心・人間中心の了見では、人が寄りつくはずがありません。考えてみてください。もし仮に、神さまを愛そうとも信頼を寄せようともせず、自分たちの体面と体裁ばかりを気に病み、ちっとも隣人を愛そうとしないなら、そんなキリストの教会にどんな素敵さがあるでしょう。ぜんぜん素敵じゃない。わがままで身勝手な、しかもどことなく偉そうな仲良しサークル。そこには誰も寄り付きません。一人また一人と立ち去って、やがて誰一人もいなくなるでしょう。――分かりました。それじゃあいよいよ本気になって、この私たちこそが悔い改めましょう。180度グルリと、腹の思いも在り方も神さまへと、この私たちこそが、本気で向き直りましょう。
自分を愛することが損なわれ、すっかり歪んでしまった後では、隣り人を愛することも、神さまを愛し尊ぶことも、すっかり骨抜きにされてしまいました。世俗化の波が、キリストの教会を今にも覆い尽くそうとしています。兄弟姉妹たち。教会の世俗化とは、主イエスに聴き従うことを私たちがすっかり止めてしまうことです。神さまへの信頼と従順がすっかり骨抜きにされ、ただただ口先だけの絵空事にされてしまうことです。この私たち自身のことです。例えば使徒行伝3章、足の不自由な人と神殿の入り口で出会ったとき、主イエスの弟子たちは晴れ晴れとして宣言しました。「さあ、私たちを見なさい! 私には金銀はないが、キャッシュカードも潤沢な銀行預金も、魅力も取り柄も、その類の誇れるものも頼りにできるものも何一つないが、持ってるピカイチの、飛びっきりに素敵なものをあげよう。ナザレ人イエスによって立ち上がり、歩きなさい」(使徒3:6参照)。けれど今となってはキリストの教会は、餅つきお楽しみ大会や素敵なオルガン・コンサートなどをするばかりで、ただただ権力と繁栄を夢見るばかりで、「ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」とはあまり言わないらしいのです。しかも、「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方を疎んじるからである」(マタイ6:24)。いったい誰を自分の主人として、この私たちは生きるのでしょうか。私たちは何者になろうとしているのでしょう。神さまの御心にかなわない、ふさわしくない罪人たちがキリストの教会に招かれました。それが私たちクリスチャンです。けれど、その、御心にかなわない、ふさわしくない者たちが、だんだんと御心にかなう者へと変えられていきます。どうやって? どんなふうに。主イエスに聴き従って生きていこうと本気で決心させられたからです。神さまに逆らって、人様の顔色とご機嫌を窺い、人間のことばかり思い煩いつづけることを、今日からはもうキッパリ止めようと。
さて、神さまを愛すること。自分自身を愛すること。そして隣り人を愛すること。しかもその隣り人は、自分を愛してくれる親しい気の合う仲間や友だちではなく、「あなたに敵対する、あなたの陰口を言ったり、わざと攻撃を仕掛けてきたり、あなたに辛く当たったり意地悪したり、いじめたり、殴ったり、あなたを除け者にしようとする者たちのこと」である。「とうてい出来ないし、ほんの少しもして来なかった、自分は神さまのご命令に反しているし、まったく失格だし、背き続けてきたのはこの私自身だ」と今日こそ、はっきりと分かりましたか。ああ、本当にそうだと。それならば! あなたも私も天におられます父の子にしていただけるかも知れません。もうずいぶん前、ぼくを導いてくれた先輩が教えてくれました。難しい注文をつけられるとき、とうてい出来ないはずのことを突きつけられるとき、それは私たちのことではなくて、ただもっぱら神ご自身のことである。神さまがこの私たちのためにしてくださったことであると。神さまを愛すること。自分自身を愛すること。そして隣り人を愛すること。私たちが神を愛したのではなく、神さまのほうが私たちを愛してくださいました(ヨハネ手紙(1)4:10)。ローマ人への手紙5:6-11は、はっきりと証言していました。「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである」。敵を愛し、迫害する者のために祈れという箇所も、このローマ手紙5章6節以下も、私たちは何度も何度も読んできました。分かったつもりになっていました。しかも自分は正しいし、かなり良心的に生きているし、人に親切にするように心がけても来たと思い込んできました。だからその証拠に、たまに薄情で冷淡で自分勝手な人を見かけると眉をひそめて、「あらあら、困った人ね」と見下し、軽蔑しました。……正しいつもりだった私が、けれど今日はじめて、心が痛みました。私たちのためにキリストが死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示してくださった。ローマ手紙5:6-11。ここで最も大事なのは、神さまから愛を差し出されたそのタイミングです。私たちがどういう者だったとき、どういう私たちに対してだったのか――
(1)私たちがまだ弱かった頃、 ………………………………………… 6節
(2)信じようとしてなかなか信じきれない不信心な私たちに、 ………………… 6節
(3)悪人であり罪人だった私たちに、 ………………………………………… 8節
(4)神に敵対し、反逆ばかりしていたその私たちに。……………………………… 10節
忘れていました。ああ、そうだったのか。すっかり忘れていたせいで、その結果として、私たちは神さまを愛さず、少しも信頼せず、聴き従って生きることに失敗しつづけました。自分を愛することを自分自身で損ない、歪ませつづけました。隣り人を愛するふりをして、けれど、自分たちにとって好都合な人々や利益をもたらしそうな人々に挨拶をし、役に立ちそうな人々を迎え入れようとするばかり。ただただソロバン勘定をし、自己愛と自己保身に終始し、教会と自分自身の存続と繁栄ばかりを願いつづけた。本当に申し訳ないことです。
私たちに語りかける声が耳元にいつもありました。「イエスは主であり、イエスを主とする私であり、生きるにも死ぬにも、私は私のものではなく、私の真実な救い主イエス・キリストのものである」(コリント手紙(1)12:3,ヨハネ13:13,ローマ手紙10:9)と、あなたは言っていたね。まるで口癖のように言っていたじゃないか。そのあなたが、ここで、こんなふうに考え、そういう態度を取り、兄弟や大切な家族に対してそんな物の言い方をするのか。そのあなたが、「~にこう思われている。~と人から見られてしまう。どう思われるか」などと簡単に揺さぶられ、我を忘れ、神さまのことをすっかり忘れ果ててしまっている。《イエスこそ私の主》と言っているくせに、そのあなたが「なにしろ私の考えは。私の立場は。私の誇りと自尊心は」と言い立てている。どういうつもりか。イエスは主なりと魂に刻んだはずのあなたの信仰は、あれは、どこへ消えて無くなったのか。朝も昼も晩も、そうやって私たちに語りかける声があります。呼びかけつづける声があります。あのお独りの方、救い主イエス・キリストが復活し、天の御父の右に座っておられるとは、このことでした。高い山や丘のようにうぬぼれて他人を見下していた私を押し戻すものがあり、薄暗い谷間のように卑屈に身を屈めていた私を高く持ち上げてくれるものがあります。顔を上げさせ、目を見開かせ、小さく縮こまっていた私の背筋をピンと伸ばさせてくれるものがあります。深々と、晴々として息を吸わせ、吐かせてくれるものがあります。イエスは主であり、イエスを主とする私たちであり、生きるにも死ぬにも、私は私のものではなく、私たちの真実な救い主イエス・キリストのものである。例えば洗礼を受けてまだ間もない若い嫁が、何十年も神さまを信じて来たはずの義母に向かって、こう問いかけます;「お母さん、主イエスはこの部屋にいますか。それとも居ないんですか、どっちです?」と。もし居るなら、どうしてそんなに心配したり、くよくよしたり、アタフタオロオロしつづけているんですか。もう信じていないんですか。――信じます信じます。いいえ、どうか信じさせてください、信仰のない、あまりに不信仰な私共を、主よ、お助けください(マルコ福音書9:24参照)。
祈りましょう。
(*1)一世帯で年収122万円以下が貧困層で、6世帯に1世帯ほどが貧困層に属するそうだ。また独身女性の3分の1が年収114万円未満、母子家庭の生活も追い詰められている。「下流老人」「一億総老後崩壊」などと言われる。老後破産は誰にでも起こりえる。親が子供の生活を支えることができず、子供が老いた親を支えることも難しい。若い親たちの労働状況の悪化に伴い、子供たちの6人に1人が貧困の連鎖の中で見捨てられつづけている。また例えば、日本学生支援機構の遠藤勝裕理事長は2015年8月3日の参議院安保特別委員会に参考人として出席し、奨学金返納延滞者の約半数が「低所得」を理由に延滞していると報告した。26年度末の奨学金延滞者は25才未満で6万200件、25歳以上35歳未満が21万4751件、35歳以上45歳未満が5万7176件、45歳以上が1万7848件である。
(*2)2014年版の自殺対策白書によると、日本の自殺者数は2年連続で3万人を切り、減少傾向が続いているという。それでも、15歳から34歳の若い世代では、男女ともに死因のトップが自殺。若い世代で死因のトップが自殺なのは、アメリカやドイツなど先進7カ国のなかで日本だけ。さらに、「自殺者の実数は毎年3万人前後などではなく、10万人を超えている」とする説もある。いわく、「日本には年間15万人ほどの変死者がいてWHOではその半分を自殺者としてカウントする。(もしWHO判断に従うなら)公表すべき自殺者の実数は本当は毎年10万人以上となり、実に他の先進諸国の10倍である」。日本の法的判断では、「医師の管理下でない死亡であり、遺書なども残されず、死亡原因が明白に特定できないない場合」に『変死者』という。確かに、変死者のかなりの割合を自殺者と推定する道理はある。非正規雇用が常態化し拡大し、先の見えない不安定で心細い生活を強いられ、公共福祉はどんどん削減され、生活困窮者は「自己責任」と切り捨てられる中で貧困と格差がますます広がる社会だ。労働条件は劣悪化し、しかも懸命に働いても生活保護並かそれ以下の収入しか得られない人々が増え続ける。生きてゆく意味を見失ってしまうほどにも、多くの人々は深く絶望している。この日本国では! これで「一億総活躍」だの「国家への貢献」だの「夢をつむいで、安心で安全で平和で、希望にあふれて誰もが輝く社会」だのと言われると、正直な所、ハラワタが煮えくり返る。悔しくて涙が出る。
(*3)国と福島県は、応急仮設住宅の提供を2017年3月末で打ち切る方針を示した。応急仮設住宅とは、無償で提供される避難用住宅であり、避難区域以外からの避難者一般に対するほぼ唯一の支援策。失業や賠償打ち切り等のため避難世帯の困窮は深刻化している。応急仮設住宅が打ち切られれば、多くの避難者が経済的な理由で避難を諦めねばならず、本人たちが望まないのに仕方なしに放射能汚染地区に帰って生活させられる。しかも福島原発事故はいまだに収束していない。『避難用住宅の提供打ち切り撤回と、避難用住宅の長期無償提供を求める署名』集約団体;マザーシップ司法書士法人内「ひなん生活を守る会」(東京都北区赤羽2-62-3),『福島原発かながわ訴訟団資料集Ⅰ』(2014年9月,福島原発かながわ訴訟原告団)
★★この礼拝は、インターネット放送とラジオ放送(1566KHZ)を通して全国放送されます。キリスト教放送局(日本FEBC)。インターネットでは、まず2015年11月20日(金)から2週間ほど。ラジオでは(ずいぶん先の話でゴメンなさい)2016年 6月26日(日)夜9時30分からです。