聖書講演「上に立つ権威に~」
もくじ
(1).「王さまが欲しい、欲しい」と人々は願った。
(2).「上に立つ権威」とは何か?
(3).「治めよ! 従わせよ!」という大間違い。
(4).『アベ政治を許さない』という旗印を私たちは降ろさない。
ア)民主主義って何だ?
イ)戦時中のキリスト教会の大失敗を、
私たちは決して忘れない。
ウ)救われるはずの悪人たちのために。
(5).この国の政府も軍隊も、国民を守らない。
聖書講演
『上に立つ権威に従うべきか?
いつでも、どんな場合にも、
目も耳も塞いで盲従するか。
いいや、決してそうではない。』
牧師 金田聖治
そこで、ふたりを呼び入れて、イエスの名によって語ることも説くことも、いっさい相成らぬと言いわたした。ペテロとヨハネとは、これに対して言った、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」。 (使徒行伝 4:18-20)
春先からずっと、ほとんど毎週毎週、上田駅前ロータリーで自己紹介していました。大手町一丁目の、上田高校に登っていく途中にある、日本キリスト教会上田教会の牧師、金田です。
私たちのこの日本は70年前の戦争直前の体制、戦時中ド真ん中の体制へと急激に戻ろうとしています。好き勝手に戦争を出来る国に間もなくなろうとしています。あなたも心を痛めておられるでしょう。どんな信条や主義主張の方であろうと、なにしろ、この『暴走する思い上がった国家権力』をそのまま放置することは出来ません。どうして? 若者たちや子供や孫や、後に続く世代に対して、私たち大人には果たすべき責任があるからです。もし、見て見ぬふりをして口を閉ざしているなら、彼らに対してお詫びのしようもありません。
例えば、ごく普通の若い学生たちが声をあげはじめました。また例えば創価学会の信者さんの一人が、ただ一人で「それは間違っている。私たちが信じてきた信仰にも反している。してはいけない」と、9143名分の署名を数ヶ月がかりで必死に集めて、それを公明党本部に提出しました。愛知県で農業を営んでおられる、ごく普通の農家の51歳の天野達志さんです。天野さんの小さな声はやがて多くの創価学会会員の心を揺さぶり起こし、各地の戦争法案反対の抗議デモや集会で、「バイバイ、公明党」「人間革命、読み直せ」というプラカードと、創価学会のシンボルである「三色旗」を掲げた同志たちがこの「ひとりの学会員」の心に連帯し、抗議行動の輪を広げつづけています。ぼくは驚きました。心が揺さぶられました。
じゃあ、私たちクリスチャンはどうだろうか、この私自身は、と我が身を振り返らされました。創価学会とキリスト教会とは似たような状況です。キリスト教会の内部には、この戦争法案に反対する活動に深く連帯する者たちもおり、また逆に、目も耳も塞ぎつづける者たちもいます――
(1).「王さまが欲しい、欲しい」 と人々は願った。
キリスト教の信仰の中身についても、どうぞ少しだけ聴いてください。基本的には、ユダヤ教もイスラム教もキリスト教も『目に見えない神さま』を信じています。「目に見えないし、語りかけてくださるその声もなかなか耳に届きにくい。けれど、見えないまま聞こえにくいままに信じなさい」と神さまから命じられ、「はい。分かりました」と命じられる通りに信じています。このへんが一番とっ付きにくい部分の一つだと思えます。年をとってからこのキリスト教の信仰に入ったあるお婆さんは、「それが分かりにくすぎる。さっぱり分からない。見えない神さまを信じたり、聞こえにくい神さまの声に耳を澄ませたり、こムズカシイ聖書を読んでもさっぱり分からない。だから私は、神さまを信じる代わりに牧師先生の言うことを何でもハイハイと信じます。神さまを拝む代わりに、牧師先生のことを朝昼晩と拝みますから。そのほうが分かりやすいし、簡単で手っ取り早いし」「いやいや、それじゃあダメなんだって。違う違う」「だってだって」「だってじゃないの」。
ここがキリスト教信仰の一番難しいところです。年取ってから信仰に入ったお婆さんにとって難しいだけじゃなく、誰にとってもここが難しい。ですから聖書の神さまを信じる人々は脱線しつづけ、脇道に逸れつづけました。それが、キリスト教信仰の歴史です。救い主イエス・キリストが現れてから2000年ほど達ちました。実はそれ以前にもだいたい2000年かそれ以上に渡って、アダム、エヴァに始まって、カイン、アベル、大洪水のときのノア、アブラハム、モーセ、ダビデ、ソロモンの時代などと、神さまとの付き合いが長く長く続いていました。『イスラエル王国』といって、王さまが立てられ民衆を支配していた時代もありましたが、それはほんの400年ちょっとの、ごくごく短い間だけでした(紀元前1050頃-586年)。その後イスラエルは大きな強い国に滅ぼされ、強い国が次々に現れて、それらの植民地にされつづけました。「どこの国だって国家や政府があり、総理大臣や王さまや天皇陛下さまがいるのが普通だ」と思っておられたでしょ? 大抵そうです。だから王さまが立てられる前のイスラエル民族は、とても変わった珍しい国だったのです。折々に、人々の世話をするリーダーたちが立てられましたが、けれど本当のリーダーは神さまでありつづけました。びっくりです。ところがあるとき、人々は「他の多くの強い国々のように、私たちも人間の王さまが欲しい。そうしたら、もっともっと強く豊かな国になって、立派で美しい国々のお仲間入りをして、集団的に安全保障し合ったり、世界中を思いのままに支配したり奪い取ったり、戦争でもガッポリ儲けて商売繁盛できるらしいし」。いつの時代どの社会でも、人間の考えることはだいたい同じです。かなり軽はずみで、自分勝手で生臭い。聖書の、「王さまが欲しい、欲しい」と人々が言い立てていた、そこのところを読んでみましょう;「『今ほかの国々のように、われわれをさばく王を、われわれのために立ててください』。しかし彼らが、『われわれをさばく王を、われわれに与えよ』と言うのを聞いて、(預言者)サムエルは喜ばなかった。そしてサムエルが主に祈ると、主はサムエルに言われた、『民が、すべてあなたに言う所の声に聞き従いなさい。彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。彼らは、わたしがエジプトから連れ上った日から、きょうまで、わたしを捨ててほかの神々に仕え、さまざまの事をわたしにしたように、あなたにもしているのである。今その声に聞き従いなさい。ただし、深く彼らを戒めて、彼らを治める王のならわしを彼らに示さなければならない』」。預言者サムエルは王を立てることを求める民に主の言葉をことごとく告げて言いました。『あなたがたを治める王はこういうことをする。あなたがたのむすこを取って、戦車隊に入れ、騎兵とし、自分の戦車の前に走らせる。彼はまたそれを千人の長、五十人の長に任じ、またその地を耕させ、その作物を刈らせ、またその武器と戦車の装備を造らせる。あなたがたの畑の収穫物の中から最も良い物を取って、自分に仕える役人と家来に与える。あなたがたは、その奴隷となる。そしてその日あなたがたは自分のために選んだ王のゆえに呼ばわるであろう。しかし主はその日にあなたがたに答えられないであろう』。ところが民はサムエルの声に聞き従うことを拒んで言った、『いいえ! われわれを治める王がなければならない。われわれも他の国々のようになり、王がわれわれをさばき、われわれを率いて、われわれの戦いにたたかうのだ』。サムエルは民の言葉をことごとく聞いて、それを主の耳に告げた。主はサムエルに言われた、『彼らの声に聞き従い、彼らのために王を立てよ』」(サムエル記上8:5-22参照)。「王さまが欲しい、王さまが欲しい」と人々が要求した。神さまは、ガッカリしたし気に入らなかったが、渋々その願いをゆるした、というのです。これが400年ほどに及ぶイスラエル王国の始まりでした。20人に1人か30人に1人か、ときどきは良い王さまも現れました。ほとんどが神さまに背く悪い王様でした。400年ちょっと経って、イスラエルは滅ぼされ、都も神殿も町も粉々に打ち砕かれました。聖書の神を信じる人々は世界中に散り散りにされ、放浪する者たちとなりました。キリスト教信仰の出発点でもあります。立てられた40人ほどの王たちが、なぜ、どんなふうに失敗したのか。
また、世界の終わり頃には神さまに背く獣の王が立てられて、人々を苦しめるとも予言されていました(ヨハネ黙示録13:1-10)。ヒットラーのナチス・ドイツの政府、またこの日本の第二次世界大戦の時代の政府など。それならば今、私たちの目の前に立っている政府はどんな政府なのかを、心を鎮めて、よくよく見極めねばなりません。
(2).「上に立つ権威」 とは何か?
それらのことを十分に踏まえた上で、聖書の別の箇所は私共にこう命じます。「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである」(ローマ手紙13:1-5)。こういうところが難しいところです。聖書のここだけを読んだら、「じゃあ! 何でもかんでも、ただご無理ごもっともと従うのかい。ヒットラーのナチス・ドイツにも、どこのドイツにも。天皇陛下様にも安倍首相にも?」と、ほとんどの人々は困り果ててしまいますね。先程の「王さまが欲しい、欲しい」とダダをこねたイスラエルの民のことや、世紀末には獣の権威が立てられることなども視野に収めながら、熟慮せねばなりません。ここで、「上に立つ権威」と言われているのは、(元々の言葉では)「やや上位の。ほんのちょっと他より抜きん出た」の意味です。それを、とくに近代の国家と直ちに同一視してはなりません。それをも含みつつ、神がお立てになる「公の立場の者たち」。まわりを見渡してみると、大小様々な「公の立場の者たち」がいます。ここは具体的に、実際的に、立ち止まって考えてみなければなりません。例えば、両親、祖父母、教師たち、牧師・長老・執事、一個のクリスチャン! 町内会の世話役、政府や内閣や総理大臣、警察、裁判所や検察、役人、福祉施設の職員、精神科病棟の医療従事者、介護施設のスタッフ、相撲や柔道の指導者、青少年の各種スポーツの指導者、コーチなどなど。小さな子供が一番最初に出会う身近な権威者は、その子のお父さん、お母さんです。ね。父さん母さんこそ、神がお立てになる「公の立場の者たち」と私たちがどう付き合うことができるか。どう共存することができるのかを考えさせるための、とてもよい、分かりやすい見本です。およそ500年前の古い信仰問答は、その付き合い方をこう説明します;「問い。第五戒(モーセを通してシナイ山上で神から授けられた十の戒め。出エジプト記20:1-,申命記5:6-「あなたの父と母を敬え」)において、神は何を要求しておられますか?
答え。父母、またすべて私の上に立てられている人々に対して、すべての尊敬と愛と真実とを表し、すべての良い教えと懲らしめに、ふさわしい従順さをもって服従し、彼らの欠けをも忍ぶことです。それは、神は彼らの手をとおして、私たちを治めようとしておられるからです」 (ハイデルベルグ信仰問答,問104。1563年)
さてさて、「ふさわしい従順」とは、どの程度の従順か。いつでも何をされても、目をつぶり耳を塞ぎ、盲従することか? いいえ、決してそうではありません。父さん母さんと子供の関係を考えると、付き合い方のバランスがよく分かります。父さん母さんは子供に対して権威と力と支配力をもっています。子供たちが健やかに育って、安心して晴れ晴れと暮らしていくために、私たち子供の親は大きな責任や義務も負っています。確かに、「神さまが彼らを立てた」と言ってよいでしょう。けれど考えてみてください。その目の前の、生身の人間である権威者たちは具体的には、良いこともするし、ついついしてはならない悪いこともしてしまう。その権力と支配力を間違った仕方で振り回し、ときには、弱い立場に置かれた者たちを虐待したり、辱めたり、踏みにじったり、彼らから大切なものを奪い取ったりもしてしまう。悲しいことに、まったく申し訳ないことに、子供たちの父さん母さんたちもそうです。子供を愛する良い親でありたいと願いながら、子供のために良かれと願いながら、けれど自分の愛する子供たちを深く傷つけたりもしてしまう。ついつい、してはいけない間違ったことをしてしまうことも度々ありました。子供の親たちが、ここに大勢いますね。もう子育てを終えた者たちもいます。私たちの子供たちは、どんなふうに育っていったでしょうか。小さい頃と、思春期真っ盛りの頃と、2回の『反抗期』が用意されていました。健全な、十分な大人になっていくための、その土台固めの大切な時期です。小さい頃、「はあい、お父さんお母さん、分かりましたあ」と素直に従ってくれると嬉しかったけど、もし万一、その子供が30代40代50代になってもまだ、「だあってエ、お父さんお母さんがこう言うんだから、それで僕はア」なんて言ってたらガッカリしますし、大丈夫かなあ、ちゃんと生きていけるだろうかとものすごく心配になります。ねえ! 「お言葉を返すようですが、お父さん、それは間違っています。悪いことです。いいえ決して、してはいけません」と親に口答えしたり歯向かったり、「これはこういうことで、だから」と親を諭すようにさえなったとしたら、すごく嬉しいですね。親の務めをほぼ果たせた、と言ってよいでしょう。信仰問答の「ふさわしい従順さをもって服従し、彼らの欠けをも忍ぶ」とは、このことです。尊敬し、愛し、尊ぶ。欠点やいたらなさ、ふつつかさ、粗忽さ未熟さをも精一杯に忍んでもらわねば、お互い同士で忍び合い、忍耐し、大目に見合うのでなければ、とてもお互いに付き合いきれません。けれどその上で、悪いことは悪い、良いことはよいとする。自分の親を諌め、諭す責任が子供たちにはあり、もし自分の親たちがうっかり思い上がって、してはいけないことをしようとするとき、抵抗する責任もある!
父さん母さんにつづけて、つい先程いろいろ並べてみました。神がお立てになる「公の立場の者たち」。両親、祖父母、教師たち、牧師・長老・執事、一個のクリスチャン! 町内会の世話役、政府や内閣や総理大臣、警察、裁判所や検察、役人、福祉施設の職員、精神科病棟の医療従事者、介護施設のスタッフ、相撲や柔道の指導者、青少年の各種スポーツの指導者、コーチなどなど。ね、もうはっきりと分かりました。皆、同じです。
(3).「治めよ。従わせよ!」 という大間違い。
じつは午前中から、同じことを考え巡らせつづけています。
「キリスト教やイスラム教、ヒンズー教など、宗教なんかがあるから世界中で戦争したり殺し合ったりしつづけている。宗教がなかったら世界中がもっと平和で仲良く暮らせるじゃないか」などと悪口を言われます。本当ですね。そこには大きな道理があります。また、黒人を差別したり、奴隷として売り買いしたり、虐待したりしつづけてきたことにもキリスト教会は大きく関与して、商売人たちと手を組んでその黒幕の1人でありつづけました。アメリカ合衆国の公民権運動に立ち上がったのは黒人のキリスト教徒でしたが、それに立ちふさがってねじ伏せえようとしつづけたのもキリスト教会であり、キリスト教徒でした。南アフリカ共和国の人種隔離政策(=アパルトヘイト)を指導した者たちもキリスト教徒でした。人種差別主義者のKKK団もキリスト教徒の中の一部の者たちです。黒人大統領を生み出した後でも人種差別はおさまる気配もありません。まったく申し訳ないことです。そこで午前の部で、一つの聖書箇所を読みました;「主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」(マタイ福音書24:45-51)。大きな大きな、とっても大きな一軒の家があり、大勢の召し使いたちが一緒に暮らしています。その家は、小さな小部屋がたくさんあって細々区切られていたりする。それでも、なんと地球1個を丸ごと包み込むほどの1つの大きな大きな家です。また、さまざまな生き物たちがその1つの家に住んでいます。彼らは皆、その家のただお独りの主人に仕える召し使い同士である。これが、この世界全体と私たち全員を包む1つの真実である、と聖書は語りだします(*)。しかもこの家の主人は思いがけないときに帰ってくるから、その時に備えて、ちゃんと準備をしていなさい。主人がいつ帰ってきても困らないように、あなたは暮らしていなさい。――ここまでは、単純素朴で分かりやすい。
神さまがお立てになる「公の立場の者たち」。それは直ちに、『主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせるしもべ』のことです。忠実で思慮深いしもべもおり、また、あまり忠実ではないし考えも大いに足りない浅はかなしもべもいます。少なくとも、この自分自身も主人によって立てられたしもべ、召し使いたちの1人であることを思い出しましたか? ――それなら、よかった。僕もうっかり忘れていました。それでずいぶん的外れなことをしたり、他の召し使いたちを困らせたり、いじめたり、苦しめたりしてしまいました。まったく申し訳ないことです。その大きな大きな一軒の家に住む皆が、ただお独りの主人に仕える召し使いです。召し使いたちの中に、また彼らの上に、多くの責任を任せられた管理人が立てられていました。管理人でもある召し使いです。思い起こしてみてください。それぞれの小さなグループの中で、ちょっとした役割や責任や権限を与えられている小さなリーダーたちがいますね。学校にも、地域にも、職場にもキリスト教会にも、それぞれの組織の中程に小さなリーダー、中くらいのリーダー、やや大き目のリーダーなどが立てられ、上の方に取締役員会や社長や会長などがいるかも知れません。国家にも総理大臣や幹事長などもいるでしょう。それぞれの家にお父さん、お母さんがいます。彼らもやっぱりただお独りの主人に仕える召し使いであり、召使たちの中で、彼らの上に立てられた管理人です。
私たちの役割を確認しておきましょう。ぜひともすべきことがあり、また、してはいけないこともある。45-50節;「主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、もしそうなら」。管理人として立てられていることの第一の役割は食べ物を皆に公平に配ることでした。多くを与えられ、仲間の召し使いたちの間に、彼らの上に立てられた管理人は誰でしょうか? クリスチャンでもあり、また18歳以上の責任を持たされたすべての大人たちだということです。私たちは主人に対して忠実に賢く生きることもでき、あるいは逆に、不忠実に愚かに生きることもできます。――考えてみましょう、なぜ、あの彼は自分勝手になり、不忠実になり、愚かに成り下がってしまったのでしょうか。なぜ、仲間の大切な下男や女中を殴ったり、蹴ったりし、彼らが腹を空かせているのを横目で見ながら、自分たちだけ食べたり飲んだりできたのでしょう。他のしもべたちも、そういう仲間の管理人をただ黙~って見ているだけで、「悪いことだから止めなさい。ご主人様に申し訳ないしね」と、なぜ、ほんの一言も忠告できなかったのでしょうか。
(*)創世記1:26,28「支配せよ。従わせよ」,コリント手紙(1)4:1-5「管理人」,コロサイ手紙4:1「天に主人」,マタイ福音書11:28-「わたしの軛を負え、学べ」,同20:25-28「しもべになり、仕えよ」,そして本箇所)
(4).アベ政治を許さない、という旗印を私たちは降ろさない。
『アベ政治を許さない』という筆文字の目立つ看板を、この教会の正面玄関前に掲げつづけています。それに対して、キリスト教会の内部からも反対や批判や疑問の声が投げかけられます。よく聞いてみますと、その反対意見もまた中身は多様です。例えば、「安倍晋三という個人名をわざわざ出して批判し、反対し、抗議することは、個人攻撃や誹謗中傷に当たるのではないのか。安倍さんが可哀そうではないか」とか。「キリスト教会は政治のことに口出しせず、おとなしく穏便にふるまっているほうがよい。ましてや国家や政権政党に対する正面切っての批判など、オカミに対して畏れ多い」とか。「過度な政治的発言や行動は、宗教団体としての評判をおとしめ、信者獲得や伝道の妨げになるのではないか。ヤメたほうがよい」などと。
まず、これは個人攻撃や、いわれのない誹謗中傷には当たりません。なぜなら、安倍晋三さんの人格や個人生活や人柄、暮らしぶりなどに対して文句や批判を言うわけではないからです。安倍晋三内閣総理大臣が主導してきた政策や政治内容、国家や市民や世界に対して与えつづけている社会的な大きな影響力に対して、「それは間違っている。してはならない。そんな行動は止めなさい」と抗議しているのです。それに第一、総理大臣自身も自分でちゃんと自覚していて、『アベノミクス。アベノミクス』などと自身の経済政策を宣伝します。「私が提唱し、私が実践している、私のものである経済政策をあなたは支持しますか、しませんか」と総理大臣自ら、『アベの経済政策(=アベ+economics)』などと自分の名を『政策の名前』として押し出してまで国民の判断を問うています。都合のよい、耳障りのよい政策だけではなく、彼のもとで着々と成し遂げられてきた政策の一つ一つに対して私たち国民は、またキリスト教会も、熟慮し、「彼の政治実践の内容を支持し、従う」のか、あるいは「拒否し、抵抗するのか」と問われています。どうぞ、お考えください。
例えば――
①「国を代表する総理大臣として『あの彼が』公けに靖国神社参拝をしたいと願ったり、総理大臣としてその神社にささげものをし、70年前の植民地支配と侵略戦争の恥ずべき歴史を『アジア諸国の平和のためだった』と国民を代表して歪曲し、正当化しつづけて、それを正式な『内閣総理大臣の談話』(*)として世界中に公言してしまったことを、どう評価するか?」
②「特定秘密保護法を認めて、それに従うのか?」
③「十数個の安保関連法案の一挙、強行採決を許すのか?」
④「国家が守るべき憲法に違反して、立憲主義の根本精神をないがしろにしてまで、好き勝手に戦争ができる国にし、自衛隊員を世界中どこにでも送り出せる体制を整えつつあることを、黙って眺めているのか。アメリカ政府にとって都合がいいし、この国の軍需産業を担う大手大企業も喜ぶからと、ただそのために自衛隊員を紛争地域にどんどん送り込み、そこで殺したり殺されたりさせることを、そのまま見過ごすのか?」
⑤「沖縄の辺野古基地移設を、住民の判断と意志をまったく無視して強行してよいのか。彼らの自己決定権、基本的人権を、いつまでも憲法の保証の枠外に捨て置き続けてよいのか。それらをみな許してよいのか?」
⑥原子力発電所についての政策。福島原発事故がまったく収束していないまま、まともな避難計画もなく、政府も責任を負おうとしないあまりに無責任な体制で次々と各地の発電所を再稼働しつづけることを許すのか?
――『アベ政治を許さない』と今日、多くの人々が声をあげ続けているのは、そういう意味です。彼の人柄や人格の問題ではなく、総理大臣として彼が成し遂げてしまった具体的な仕事の一つ一つや大きな影響力に対して、黙って従ってよいのかどうか。それが、『アベ政治を許さない』に込められた心です。若者たちや子供、後につづく世代に対して、私たち年長の者たち、つまり18歳以上のすべての大人たちは! 背負うべき重く大きな責任があります。
そのことを、私たちは今や、はっきりと自覚しています。
(*)『安倍談話』2015年8月14日、閣議決定されて公表された。歴代の首相談話と並べて読み比べると、彼の歴史歪曲と自己正当化の意図がよく分かる。『慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話』1993年8月15日。『(戦後50周年)村山談話』1995年8月15日。『(戦後60周年)小泉談話』(2005年8月15日)でさえも、「我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明するとともに、先の大戦における内外のすべての犠牲者に謹んで哀悼の意を表します。悲惨な戦争の教訓を風化させず、二度と戦火を交えることなく世界の平和と繁栄に貢献していく決意です」と、自国が犯した植民地支配と侵略戦争をはっきりと認め、謝罪しようとしたのに。
ア).民主主義って何だ?
大きく広がったこの一連の抗議行動のための一番の功績は多分、あの、『SEALDs(シールズ)』という学生グループの活動でしょう。彼らの姿が、必死に語りかけ、訴える彼らの声が、眠りかけていた多くの人々の魂を呼び覚ましました。抗議活動を細々とつづけてきた年配の方々も励まされました。それまで政治に無関心で諦めていた中高年も、ごく普通の主婦もお爺さんお婆さんも立ち上がり、ごく普通の創価学会会員の農家のおじさんもたった一人で署名活動を始め、高校生や中学生も路上で声を上げはじめました。「♪民主主義って何だ。民主主義って何だ?」「これだ、これだ、これだ!」という魂の叫びに応えて。彼らは語りかけます、「いまこそ政治の力が必要です。……仮にこの法案が強行採決されるようなことになれば、全国各地でこれまで以上に声が上がるでしょう。連日、国会前は人であふれかえるでしょう。次の選挙にも、もちろん影響を与えるでしょう。当然、この法案に関する、野党の方々の態度も見ています。私たちは決して、いまの政治家の方の発言や態度を忘れません。『三連休を挟めば忘れる』だなんて、国民をバカにしないでください。むしろそこからまた始まっていくのです。新しい時代はもう始まっています。もう止まらない。すでに私たちの日常の一部になっているのです。私たちは、学び、働き、食べて、寝て、そしてまた、路上で声を上げます。できる範囲で、できることを、日常の中で。私にとって政治のことを考えるのは、仕事ではありません。この国に生きる個人としての、不断の、そして当たり前の努力です。私はこの困難な4カ月の中で、そのことを実感することができました。それが私にとっての希望です。どうかどうか、政治家の先生たちも、個人でいてください。政治家である前に、派閥に属する前に、グループに属する前に、たった一人の個であってください。自分の信じる正しさに向かい、勇気を出して孤独に思考し、判断し、行動してください。みなさんには一人ひとり考える力があります。権利があります」(2015年9月15日、「国会参考人証言、(抜粋)」奥田愛基)。
さて、『アベ政治を許さない』。ノンフィクション作家、「九条の会」呼びかけ人の一人である澤地久枝さん(85歳)が、今年の6月下旬頃に、このささやかな運動を提唱しはじめました;「このコピーを一人ひとり道行く人に見えるようにかかげるのです。一人で悩んでいる人、誰にも声をかけられない人は、わが家の前で、あるいは窓辺で。どこででも、あらゆる形で。東京は国会議事堂前、その他の主要駅頭などで。全国すべての駅、街、村、会場の外など。示すのは勇気のいる世の中かもしれません。『許さない』勇気が試されます。政治の暴走をとめるのは、私たちの義務であり、権利でもあります」。その声は、あっという間に日本中の人々の心に届きました。その小さな声に突き動かされて、都会でも片田舎の村々でも、自分の家の前や窓辺から、駅前で、この同じ筆文字の『アベ政治を許さない』というビラを掲げて、人々が道端に立ちつづけました。『許さない』勇気が必要な世の中だし、その小さな勇気があるかどうかが試されました。それでもなお、政治の暴走をとめるのは私たちの義務であり、権利だ、と深く自覚する人々がいます(*)。私たちも、その一員です。
(*)『アベ政治を許さない』活動開始当初の呼びかけ人(順不同);瀬戸内寂聴、金子兜太、落合恵子、小山内美江子、小森陽一、鳥越俊太郎、渡辺一技、朴慶南、小出裕章、池澤夏樹、窪島誠一郎、崎山比早子、いせひでこ、小林節、石原昌家、浦田一郎、西山太吉、むのたけじ、村田光平、横湯園子、椎名誠、上野千鶴子、なかにし礼、高畑勲、松元ヒロ、浅田次郎、日野原重明、湯川れい子、佐高信、鎌田慧、雨宮処凛、森村誠一、浜矩子、宇都宮健児、池田香代子、崔善愛、神田香織、福島瑞穂、照屋寛徳、志位和夫、黒田杏子、柳田邦男、豊島耕一、横井久美子、加藤哲郎、山口二郎、古賀茂明、武藤類子、木内みどり、林郁、妹尾河童、玉井史太郎、上原公子、大石芳野、もろさわようこ、坂田雅子、宮子あずさ、高橋哲哉、河合弘之、渡辺治、中野晃一、小室等、早乙女勝元、本橋成一、糸数慶子、岩崎貞明、樋口聡、新崎盛吾、永田浩三 、山田朗、森まゆみ、青木理、倉本聡、アーサー・ビナード、吉田忠智、細谷亮太、前田哲男、井出孫六、岸井成格、牧太郎、金平茂紀、野見山暁治、澤地久枝(順次発表)
イ).戦時中のキリスト教会の大失敗を、私たちは決して忘れない。
『上に立てられた公けの権力者・職責を負う者』たちは、けれど生身の人間でもあるので、良いこともするし、してはならない間違った悪いこともしでかしてしまいます。
キリスト教会と一人一人のクリスチャンは、天に主人(=神さま)がおられますことを知る者たちです。ですから国家権力も含めて、この世のどんな『上に立てられた公けの権力者・職責を負う者』たちにも支配されたり、ひれ伏したり、言いなりに従わせられたりしてはならないはずでした。けれど恥ずかしいことですが、70年前の戦争時代の末期には国家の政策と侵略戦争にただただ協力させられ、あろうことか神社を参拝することや、教会の中に神棚を置き、礼拝の始まる前に宮城遥拝をすることを強制され、また韓国の同じクリスチャン同胞たちにも「お前たちも天皇陛下を拝んだり、崇めたりしなさい」と強制し、恥じることなく行っていました。よく分からないままに脅かされたり、おだてられたりしながら、どんどんどんどん教会の内部まで、信仰の奥深くまで支配を及ぼされつづけてしまいました。あの70年前とそっくり同じことが今、この国で起ころうとしています。私たち自身がしでかしたあの時の大失敗と神さまへの大変な裏切り行為を、私たちクリスチャンは決して忘れません(*)。改めて今、この緊急事態の時局の只中で、同じ過ちを決して二度と繰り返してはならないと肝に銘じているのです。私たちキリストの教会だけでなく! どんな信条や主義主張の方々であろうと、国家権力も含めて、この世のどんな『上に立てられた公けの権力者・職責を負う者』たちにも支配されたり、ひれ伏したり、言いなりに従わせられたりしてはなりません。ましてや、国家権力が人々の人権や平和安全の暮らしを踏みにじろうとする時に、もし万一、見て見ぬふりをするならば、そのとき私たちは子供たちや後から来る世代に対しても、神さまにも世間様に対しても、まったく顔向けができません。それでは、お詫びのしようもありません。
(*) この「私たち自身がしでかした~」という表現。とくに年配のクリスチャンや牧師職の中からの異論や大きな反発・抗議も想定できます。「命を脅かされて、渋々しかたなしに屈服した。形だけ従っただけ」「その場にいなかった者にあの苦しみと葛藤の何が分かるというのか」「私たちでなく、先達が」などと。私たちの教派も含めて、多くのプロテスタント諸派が。しかし、どうしても、ここまでの罪責告白である必要があります。「先達たちの大失敗」ではなく「私たち自身のしでかした大失敗と神への大変な裏切り行為」と。また、脅かされて仕方なしにという側面もありましたが、それだけではなく! むしろ積極的に「天皇陛下をお助けし、皇運扶翼のために励んで」協力し、「勇んで」加担した側面もあったことを決して見過ごしてはならない、と教えられます。自己正当化と自己弁護の誘惑をすっかり排除し、自分自身の事として受け止め、自分自身と同胞らの罪を告白する。それが信仰の道理であり、世々受け継がれてきた伝統的な認識の在り方です。例えば「過越祭」に集う者の心得を、ユダヤ教の典礼書はこう諭しています;「祭りに預かる者は誰でも皆、『遠い昔の先祖が』ではなく、『この自分自身こそが』エジプトから救い出された者であることを弁えねばならない」と。それゆえ、救いの御業を自分自身のこととして覚えて、「聖なる神が先祖とこの私たちとを」と執拗に反復しつづける(『過越祭のハガダー』山本書店,参照)。
ウ).救われるはずの悪人たちのために
私たちクリスチャンには、神さまから教えられている『独特な信仰の道理』があります。極悪人こそが救われる、という教えです。神さまの大きな慈悲にすがって、貧乏人も無学な者も、それどころか悪人さえ救われる。むしろ逆に、「自分は正しい」と自惚れている人々は救われるのがかなり難しいと(*)。それは親鸞上人の浄土真宗の教えとよく響きあう、よく似た救いの道理です。平安時代末期には、『お寺でよくよく学問をし、修行しなければ救われないと考えられたり、貴族や権力者のように莫大なお布施を行わないと救われない』という考え方が主流でした。つまり、貧しい卑しい人々や、学問のない人々や、女性は救われなかった。そのような人々に、親鸞上人は『御仏の大きな慈悲におすがりして、それでこそ救われる』と教えました。特に、「自分は悪人。価値のない卑しい人間だ。とうてい救われないだろう」と思っている人々に、「いいや違う。自分を正しいと自惚れている人々よりも、自分が悪人だと思っている人々のほうが救われるのだと教えました(善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや。「歎異抄」『悪人正機説』)。それは、私たちの信仰の中心部分にある中身とよく共通します。
罪人を憐れんで救う慈しみの神であり、自分自身の罪深さを知らされる中で、心を打ち砕かれたその人々は憐れみの神と出会い、その救いを受け取るという道理です(*)。例えば私共の教会で、子供たちに信仰の道理を教えるために、こういう問答のやり取りをします;
問「あなたはすでに救われていますか?」
答「はい、救われています」
問「どうしてですか。あなたは罪人ではないのですか?」
答「はい。わたしは罪人ですし、いまも神に背きますが、主イエスを信じる信仰によって、ただ恵みによって救われているからです」
問「神は正しいかたで、罪を憎むのではありませんか?」
答「そのとおりです。神は罪を憎みますが、罪人であるわたしたちを愛することを決してお止めになりません」 (当教会『こどもの交読文3』)
私たちは、「安倍晋三首相の率いる政府が、してはならない、間違った、とんでもなく悪いことをし続けている。止めなさい、止めなさい」と抗議しつづけます。彼らの行っている悪い行いに対して、私たちクリスチャンは、もう二度と決して目をつぶりません。暴走しつづける国家権力に決して支配されず、言いなりにもされません。聖書はこう証言します;「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない」(ヨハネ手紙(1)1:8-10,テモテ手紙(1)1:15参照)。「アベ政治を許さない。アベ政治を許さない」と必死に言い立てるとき、私共は実は、安倍晋三さんとその仲間たちの魂の救いを願い求めてもいます。また、彼らがやがて立ち返って、公正で慈しみ深い判断や行動を取ることができるようにと、毎日毎日、彼ら『上に立てられた公けの権力者・職責を負う者』たちのために、彼らの働きのために、心を込めて祈りつづけてもいます。
当教会の正面玄関前に、『アベ政治を許さない』という看板を掲げつづけています。けれどそれは、この一連の抗議行動に、当教会に所属するクリスチャンの皆が一致して同意している、というわけではありません。『いいえ! 私はアベ政治に大賛成。そのまま、どんどんやってもらいたい』というクリスチャンもいるかも知れません。それは、皆さんのお宅のそれぞれのご家庭の事情とよく似ています。一個のキリスト教会の中でも、一軒の家庭の中でも、多様な考え方や価値観がありえます。それを互いに尊重し合って、夫婦も親子も共存できる道を探りたいと願っています。仮にもし、自分たちと違う考え方の相手を乱暴に排除してしまうなら、あの彼らのやり方と同じになってしまうからです。「異なる考え方や見解の人々もここに含む。別の判断の者がここにいてよい」と了解し合いましょう。例えば一個のキリスト教会の中にも一軒の家の中にも。政治的な意見がまったく同じじゃないからといって離婚したり、親子の縁を切ったりしなくていいです。そのまま一緒に暮らして、「おはよう。行ってきます、お帰りなさい」などとごく普通に会話したり、一緒にご飯を食べたりしつづけていていいです。当たり前でしょ? その上でなお、キリストのものである教会として「主の目にかなうことは何か」と熟慮し、この看板を掲げつづける、と主なる神さまへの忠実をもって判断しています。
(*)「神さまの大きな慈悲にすがって~」;あらかじめクリスチャンの友人数名に原稿を読んでもらっていた。その友だちの一人が、「神さまの慈悲という言葉に、なんとなく違和感がある。伝統的には、こういうことを『神さまの愛,恵み、憐れみ,慈しみ』などと言い表してきたのではないか」と感想を言ってくれた。その通り、ありがとう。けれど意図的に、『キリスト教の伝統的な言葉遣い』を避けて、できるだけ世間一般の普通の言葉遣いをしようと心がけつづけている。他の人々に通じない意味不明で専門的な用語がいくつもあり、それでしか言い表せないなら専門用語を使うけれど、もし他の言葉で言いようがあるならば、世間一般の普通の言葉遣いをするほうが良い。違和感があるのは、多分、他宗教との差異を強調して教えられ、「わたしたちの信仰のほうが優れている」としつけられてきたからかも知れない。その、『根拠のない優越感・独善、と排他的な感覚』は不要であり、むしろ邪魔だろう。しかも聖書自身は、「自惚れてはならない。思い上がってはならない」と警告し続け、「神さまの大きな慈悲にすがる罪人。乞食が人様からの施しを受けるように、神からの憐れみを受けて、値しないままに、ただ恵みによってだけ救われる」と執拗に告げ続けてきたではないか。兄弟たちよ。憐れみを受けるへりくだった低い場所へと、わたしたちは立ち戻ろう。立ち戻りつづけよう。そこから、新しく生きはじめよう。そうであるならば私たちは新たなる力を得、鷲のように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。なぜなら天におられます主人は、そのしもべらが弱り果てても、倒れても、彼らを再び立たせることがおできになるからだ。何度でも何度でも。しもべが立つも倒れるも、ただひとえに! その主人の真実と慈悲深い御心によるからである(イザヤ書40:31,ローマ手紙14:4)。
(*)ローマ手紙 3:21-26,同5:5-11,同6:3-18,同7:7-8:17,同10:1-4,同11:30-32,同16:18,ピリピ手紙 3:18-19,ヨハネ手紙(1)1:8-10,テモテ手紙(1)1:15,ペテロ手紙(1)2:10,詩51:13-17,同130:1-4,ルカ福音書 18:9-14,マタイ福音書1:21,同 23:1-36参照。
(5).この国の政府も軍隊も、国民を守らない。
さてさて、「戦後70年」は「ふたたび好き放題に戦争ができる国に戻る第1年目」であるらしい、と日曜日の礼拝説教(6月21日付)でも語ってしまいました。毎週金曜日の夕方の、上田駅前での市民活動でも、「(戦争法制に際して)もし見て見ぬふりをするなら、ただただ黙って放置するならば、私たちはこの悪事の共犯者・張本人である。子供にも孫にも後からくる世代に対しても、私たちは申し訳が立たない。詫びのしようもない」。
上田駅前でのアピールの中では、やや過激すぎることも次々と語りかけました;「私たちの軍隊は、自分の国の国民を本当に守るでしょうか? 一般市民がいつもの生活の只中で戦争の現実と生々しく直面させられたことが、この国では2回ありました。70年前です。1つは、日本の領土に上陸された沖縄戦。もう1つは、満州の奥地に大勢で出かけていった満蒙開拓団の場合。『私たちの家族が、具体的にはどういう目にあうのか』ということを、そこではっきりと体験しました。日本の軍隊は、私たちを守りませんでした。例えば沖縄では、守りきれないし足手まといになるし、かえって軍事情報が漏れたり不都合があるからと、もしかしたら裏切ってスパイ行為を働くかも知れないしと、多くの国民が殺されてしまいました。それも! 『自分たちをきっと必ず守ってくれる』と信じていた自分たちの国の軍隊の手によって。あるいは手榴弾を手渡されて、『天皇陛下に迷惑をかけないように自分たちで死になさい』と指導され『ハイ分かりました』と。多くの沖縄県民の集団自決です。本当のことです。また例えば、満州の奥地に出かけていった満蒙開拓団でも、同じことが起きました。知ってますか。開拓団の応募者数はこの長野県が第一位で、ダントツに多かったのです。とても貧乏だったし、うまいことを言われてうっかり鵜呑みにして信じてしまったからです。戦局が悪化し旗色が悪くなると、私たちの軍隊は、入植した日本人を置き去りにして、スタコラサッサと逃げ去りました。爺さん婆さんも病気の人もケガした人も、お母さんも子供も小さな赤ちゃんもみな見捨ててです。あとになってから、『ああ騙されていた。みんな嘘だった』と気づいても手遅れです。私たちの軍隊は、私たちを守りません。ただただ国の利益を守るための軍隊だからです。国の利益には、私たち一人一人が安心して平和に暮らすことなど入っていません。最初からそうだったし、ずっとそうでした」(*)。
また、国家と政府与党からの統制、締めつけ、圧力がどんどん厳しくなってきています。NHKをはじめとして民放各局の大手テレビ・メディアはピタリと口を閉ざして、政府与党が気に入らない、不都合なことをほとんど一切放送しません。例えば、年配の方々の多くはパソコンやインターネットなどでチャチャチャと情報を手に入れることが少し苦手かも知れません。その一方で、小中、高校の社会科や道徳の教科書が、政府お抱えの宣伝パンフレットのような、危ない内容のものにどんどんすげ替えられつつあります。大がかりな情報操作です。しかも、与えられた情報を鵜呑みにしやすい私たちです。皆が知るべき大事なことがなかなか伝わっていかない。沖縄のことも原子力発電所の実態も、反戦争法案の国会前や新宿や渋谷での大きな集会の様子も。知りはじめた人々はどんどん知っていくけれど、知らない人は知らないままでいつづけるかも知れない。恐ろしいことです。『自由と平和を守る京大有志の会』声明書(2015,7,14。ネット上に全文掲載)とその『こども版』はとても素敵でした。「戦争は、防衛を名目に始まる。戦争は、兵器産業に富をもたらす。戦争は、すぐに制御が効かなくなる。戦争は、始めるよりも終えるほうが難しい。……生きる場所と考える自由を守り、創るために、私たちはまず、思い上がった権力にくさびを打ちこまなくてはならない」。こども版「わたしの 『やめて』」(訳、山岡信幸。絵本あり;朝日新聞出版)もご紹介しましょう――
「くにと くにの けんかを せんそうと いいます。せんそうは『ぼくが ころされないように さきに ころすんだ』という だれかの いいわけで はじまります。せんそうは ひとごろしの どうぐを うる おみせを もうけさせます。せんそうは はじまると だれにも とめられません。せんそうは はじめるのは かんたんだけど おわるのはむずかしい。せんそうは へいたいさんも おとしよりも こどもも くるしめます。せんそうは てや あしを ちぎり こころも ひきさきます。わたしの こころは わたしのもの、だれかに あやつられたくない。わたしの いのちは わたしのもの、だれかの どうぐに なりたくない。うみが ひろいのは ひとをころす きちを つくるためじゃない。そらが たかいのは ひとをころす ひこうきが とぶためじゃない。げんこつで ひとを きずつけて えらそうに いばっているよりも、こころを はたらかせて きずつけられた ひとを はげましたい。がっこうで まなぶのは ひとごろしの どうぐを つくるためじゃない。がっこうで まなぶのは おかねもうけの ためじゃない。がっこうで まなぶのは だれかの いいなりに なるためじゃない。じぶんや みんなの いのちを だいじにして、いつも すきなことを かんがえたり おはなししたり したい。でも せんそうは それを じゃまするんだ。だから せんそうを はじめようとする ひとたちに、わたしは おおきなこえで『やめて』というんだ」
この私たち一人一人も大きな声で止めて、止めて、止めてと声をあげて、暴走しつづける権力にくさびを打ちこみます。私たちもまた、あの若者たちと心を合わせて、学び、働き、食べて寝て、そしてまた路上で声を上げ、プラカードを掲げつづけます。一個の人間としての権利と責任があるからです。しかも、この国とそこに生き続ける人々の将来に対して希望と願いを抱きつづけているからです。一言、祈ります。
(*)ユー・チューブ動画;「教えて! ヒゲの隊長」とそのパロディ版「(あかりちゃん)ヒゲの隊長に教えてあげてみた」シリーズを参照。また、「上田駅前アピール集」を参照のこと。