11/15 こども説教 マタイ26:47-56
『剣や棒をもって?』
26:51 すると、イエスと一緒にいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、そして大祭司の僕に切りかかって、その片耳を切り落した。52
そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。53 それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。54
しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。55 そのとき、イエスは群衆に言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。(マタイ福音書
26:51-55)
子供も大人も、どうぞよく聴いてください。救い主イエスが十字架につけられて殺されてしまう、その前の晩のこと。オリブ山で祈ったあと、あのユダに道案内されて、祭司長、民の長老たちから送られた大勢の群衆が主イエスと弟子たちのところにやってきました。剣と棒をもって、ドカドカ押しかけてきて、主イエスを捕まえるために。主イエスの弟子だったユダは裏切って、彼らの手に主を引き渡そうとしています。
ここで主イエスは彼らにつかまり、裁判にかけられて、十字架につけられて殺されてゆくわけです。ただ、どうしてそうなったのか、それが何のためだったのかを、私たちはちゃんと分かっている必要があります。人々が押しかけてきて、主イエスに手をかけて捕まえようとしたとき、主イエスの弟子の中の1人は剣をもって主イエスを守るために戦おうとしました。剣を振るうその弟子に向かって、主イエスはこう仰いました。52-54節を見てください;「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか。いいや、それでは決して成し遂げられない!」。ああ、そうだったのかア(*)。裏切り者のユダのせいではなかったのです。主イエスを憎む者たちの悪巧みに引っかかって、でもなかった。それも、ほんのチョビットはありましたけど、なぜ救い主が彼を憎む人々につかまり、裁判にかけられ、十字架につけられれて殺されなければならなかったのか。もし御父と御子イエスがそうしたいと思えば、天の軍隊を山ほど送り出してきて、彼らを蹴散らすことも簡単にできました。けれど、わざわざ、そうしませんでした。聖書に書いてある救いの約束が、書いてあるとおり約束どおりに、ちゃんと成し遂げられるために。神さまが約束してくださったとおりに、救いの道筋が切り開かれるために、そのために! 救い主イエスの十字架の死と復活があった。神さまの御心と、ご計画のとおりに。これが、いま読んだ聖書箇所で一番大切なことです。よく覚えておいてくださいね。
もう1つ。「剣をとる者はみな、剣で滅びる」と主イエスが注意したその相手は、剣や棒をもって捕まえに来た世間の人々ではなくて! 主イエスの弟子の1人です。つまり特に、キリストの教会に向かってこそ仰った。剣や棒をもっているのは、あっち側もそうですが、こっち側の人々も同じく持っている。けれど少なくとも、あなたがたは止めておきなさい。それでもやっぱり心細くて、手を変え品を変えていろんなものを持ちたくなります。ケンカや戦争の道具だけじゃなく、身を守って生き抜くためのいろんな道具や武器を。
その、あまりに臆病だった弟子たちがやがて2ヶ月ほど後のこと、まるで別人のようになって、こんなことを語りかけはじめます。神殿の入口で出会った心細い惨めな人を助けてあげようとして、主イエスの二人の弟子たちはこう言いました。「私たちを見なさい。金銀は私には無い。剣や棒ももってないし、キャッシュカードもデパートの商品券もない。格別に賢いわけでもなく、体が人一倍に丈夫なわけでもない。取り柄や特技もとくにはない。最初の時に舟も網も後に残してきたし、だから手ぶらです。でも、持っているピカイチに素敵なものを、あなたにもあげましょう。ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(使徒3:6,イザヤ書40:28-31参照)。この私たちも! そうさせていただいた。とても素敵で安心で心強かった。その後ずっと、イエスの名によって歩いたり、走ったりしつづけている。とても安らかだし、おかげでちっとも疲れない。もし良かったら、あなたもどうぞ。
(*)「弟子がもっていた剣」(51節);同じ出来事を報告する並行記事、ルカ福音書22:35-38では、この直前に主イエスが弟子たちに「財布も袋も剣も用意して持て」と指示する。以前に弟子たちを二人ずつ組にして町々村々へと送り出したときの「手ぶらで」という指示と正反対の内容だ。これは難解である。ただ文脈(マタイ26:52-54,ルカ22:51)から、もうすぐ主イエスを捕まえに来る群衆と戦うための指図ではありえない。神としての権威や力がひとたび封じられ、十字架の死、葬り、復活までの間は、弟子たちを保護できない期間がくる。その間だけは、弟子たちは自分で自分を守らねばならなかった。では、今の私たちはどうか? 二人ずつ組にして町々村々へと送り出されたときの保護期間が再開している。再びまた、「手ぶら」でOK(マタイ28:18-20, コリント手紙(1)15:24-25参照)。だから彼らも私たちも、「私たちを見よ。金銀も何も無いが~」と晴れ晴れできる。剣も金銀の類も一切なしの平和の使者である。
◎とりなしの祈り
父なる神さま。私たち自身の家族のためにも、隣人たちや、いつもの職場や地域社会のためにも、またこの国のためにも、この私たち一人一人を『平和の使者』とならせてください。親であり大人でもある私たちにも、何か神さまの御心にかなう良いことか悪いことかを見極めさせてください。そのための弁えと慎みとを、どうか私たちにも与えてください。自衛隊員が誰一人も戦争とお金儲けの道具にされず、戦争が起こっている危ない場所に出かけていって人を殺したり殺されたりもせず、彼らもその家族も、私たちと同じように安心して安全に暮らせるようにさせてください。シリアから逃れ出てくる難民の方々の生命と生活を守ってください。この国の中でも、貧しいギリギリの暮らしを強いられている多くの人々がいます。外国から出稼ぎに来ている労働者とその家族の生活を顧みてください。「職業訓練生」「研修生」と呼ばれながら、アジア諸国から働きにきている貧しい隣人たちが粗末に不当に扱われつづけています。彼らが権利と人権を奪い取られないように、どうか守ってください。福祉施設や介護施設で働く人たちに、そこを利用する人たちの人権と人格を重んじる健全な判断力と公正さを増し加えてください。慈しみ深さと友愛の心を、彼らにも私たちにも持ち続けさせてください。
ですから神さま。まず、この私たち自身に、どうか少しの勇気と優しい心を与えてください。また自分自身と身内のことばかりではなく、隣人たちにも目を向け、心を開き、少し広い世界や遠く離れている人々へも思いやりの心を向けることができますように。戦争やケンカをはじめようとする人たちに、私たちも、大きな声で「やめて」と言うことができますように。困っている人や、貧乏な人や、心や体を弱らせている人たちや心細く暮らす人たちに、相手が日本人でも外国の人たちでも、同じ真心をもって手を差し伸べつづける私たちにならせてください。そのようにして、あなたを信じる私たちの信仰を増し加え、成長させてください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン。