11/29 こども説教 マタイ27:11-26
『ゆるされたバラバ、
十字架につけられて殺された救い主イエス』
27:16 ときに、バラバという評判の囚人がいた。17 それで、彼らが集まったとき、ピラトは言った、「おまえたちは、だれをゆるしてほしいのか。バラバか、それとも、キリストといわれるイエスか」。18
彼らがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであることが、ピラトにはよくわかっていたからである。19 また、ピラトが裁判の席についていたとき、その妻が人を彼のもとにつかわして、「あの義人には関係しないでください。わたしはきょう夢で、あの人のためにさんざん苦しみましたから」と言わせた。20
しかし、祭司長、長老たちは、バラバをゆるして、イエスを殺してもらうようにと、群衆を説き伏せた。21 総督は彼らにむかって言った、「ふたりのうち、どちらをゆるしてほしいのか」。彼らは「バラバの方を」と言った。22
ピラトは言った、「それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか」。彼らはいっせいに「十字架につけよ」と言った。23 しかし、ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。すると彼らはいっそう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。24
ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。25
すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。26 そこで、ピラトはバラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。(マタイ27:16-26)
救い主イエスが十字架につけられて殺されてしまう、その前の晩のことです。主イエスは裁判にかけられました。裁判長のピラトは主イエスを死刑にしなければならないようなどんな悪事も見つけることができませんでした。さて、基本的なことをおさらいしておきましょう――
1.神さまにも周りにいる人間たちにも逆らって「私が私が」と自分勝手に頑固になることを、聖書では『罪』と言います。その罪が周りの人たちを苦しめたり困らせたりし、それだけではなく自分自身をも苦しめ困らせつづけます。救い主イエスは、そういう罪の言いなりにされている場所から私たちを救い出して、神さまの御心にかなって生きる新しく晴れ晴れした生活へと導き入れてくださいます(*1)。
2.人間は誰でも皆、神さまにも周りにいる人間たちにも逆らおうとしつづける罪人です。そして聖書には、その罪人が自分自身の身勝手さや頑固さから救い出されて新しく生きるために必要なことが十分に書かれています。神さまが教えてくださったからです。
3.聖書を読むときの、いつもの大事なコツがあります。「読んでいるこの出来事の中で、この私はどこにいるだろうか?」と探すことです。罪人が救われるために知るべき必要なことが十分に書いてある、と神さまが約束してくださっています。ですから、聖書を読んで神さまからの救いと恵みを受け取るために、この自分がどんな罪人なのかをはっきり知るために、「これは私のことだ。私のことが、ここに書いてある」と気づくことができると、とても幸いです(*2)。例えば、「十字架につけろ。十字架につけろ」とますます激しく叫び立てる大勢の人々。もしかしたら、これは、いつものあなた自身ではありませんか? ちょっと唆されたくらいで、どうして「十字架につけろ。十字架につけろ」と大声で激しく叫び立てつづけることができたでしょう。面白くないことや嫌なことが山ほどありました。気に入らない相手がいましたが、その人たちに直接に文句や不平不満を言うことができず、腹を立てつづけていました。だからその代わりに、目の前にいるその誰かに意地悪をしたりイジメたり、困らせたりしたかったのです。本当は、自分が不幸せなのはその人の責任ではありませんでしたけど、嫌な気持ちが積もり積もって「十字架につけろ。十字架につけろ」と大声で激しく叫び立てつづけました。それは八つ当たりですし、悪いことです。救い主イエスは、暗闇の中に置かれて真っ暗な心になってしまったこの人たちを救い出すためにも十字架について死んでくださいました。また例えばあなたも、ゆるされた極悪人のバラバではありませんか? 十字架につけられて殺されて当然のバラバでした。けれども彼の代わりに、救い主イエスが十字架につけられ殺されてくださった。そのおかげで、彼は命拾いをしました。『私たちは皆、あの極悪人のバラバだった』と気づいて、主イエスを信じるようになったクリスチャンたちのグループがあります。『私こそバラバだ』、その通り。それは大正解でした。『自分の罪のために死んでいて当然だった私が、けれど救い主イエスによって救われた。憐れみを受け、新しい生命を贈り与えられた。だからもう罪の奴隷にならなくて良い。自分勝手に頑固にならなくてもよい。臆病にも、ずる賢くもならなくてよい。こんな私たちでさえ、神さまの御心に従って新しく晴れ晴れと生きはじめることができる』。そこにとうとう気づいた人たちは、とても幸いです。
【割愛した部分の補足。関心のある方は、どうぞ読んでください】
(*1。当教会の「こども交読文3」)
☆神は正しいかたで、罪を憎むのではありませんか。
★そのとおりです。神は罪を憎みますが、罪人であるわたしたちを愛することを決してお止めになりません。
・・・・・・☆主イエスは、父なる神に逆らったことはないのですか。
★神に逆らう罪を一度も犯しませんでした。主イエスに導かれて、わたしたちも神に逆らうことを止めて、神に素直に従うものとされてゆきます。
(*2)他人事や、机の上の単なる知識として読んでいては、いつまでたっても福音の道理を身につけることができません。特に、『自分自身の罪のはっきりした自覚』と『その罪を確かにゆるされている』という認識は表裏一体です。それなしには、神さまからのどんな祝福も恵みも贈り物もありえません。例えば最後の晩餐の席で、「この中に私を裏切る者がいる」と主イエスから告げられて、「まさか私のことでは」と弟子たち皆が心を痛めました(マタイ26:21-22)。例えばペンテコステの朝、主の弟子は語りかけました、「イスラエルの全家はこの事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。「あなたがたが十字架につけた」と告げられて、人々は救いの出来事の当事者とされ、強く心を刺されて、「救われるためにはどうしたらいいのか」と本気になって尋ねました。主の弟子は、「悔い改めよ。罪のゆるしを得るために洗礼を受けなさい」と答えました(使徒2:36-39)。ここでもきっかけは、心を強く刺された痛みでした。
「まさか私のことでは?」という振り返り、不断の自己点検。それが、『悔い改めて福音を信じはじめる』ためのいつもの入口です。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである」(テモテ手紙(1)1:15)。この私は『救われるはずの罪人、罪から救い出されつづける罪人である。ああ本当に』と、あなた自身も自分のこととして気づくことができますか? しかも、それこそがキリストの教会と一人一人のクリスチャンの中身であり、実態でありつづけます。
(*3)ローマ役人ピラトは、「私には責任がない。お前たちが自分で始末をするがよい」と言い逃れをし、群衆は「その血の責任は我々とその子孫の上にかかってもよい」と開き直りました(24-25節)。もちろん、ピラトにも群衆にも祭司長たちにも大きな責任があります。もちろん、私たち総てのクリスチャンにも責任があり、しかも私たちは、「自分自身ではその大きな罪を背負いきれないし、救い主イエスご自身がすっかり丸ごと背負ってくださった」とも知らされています。それは、ちょうど弟を殺してしまったカインの「私の罪は重くて負いきれません」(創世4:13)と嘆いた自覚と深く重ね合わされます。そのカインのための保護のしるしは十字架だった、と世々の教会は受け止めてきました。
◎とりなしの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。「わたしは世のための光である」と仰った主イエスからのすべての恵みに、どうか私たちをあずからせてください。世界中のすべての被造物のための主よ。「地上のすべてのやからは、あなたによって祝福される」と約束してくださった主よ。「この私たちも出かけていって、すべての国民を主イエスの弟子とし、洗礼を授け、命じられているいっさいのことを守るように」互いに教え合うことができるようにさせてください。「わたしは天においても地においてもいっさいの権威を授けられた。世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」と仰った主イエスのご命令とご委託とに十分に信頼を寄せ、それゆえ聴き従い、なすべき務めを精一杯に果たすことができるようにさせてください。なぜなら主よ、闇がこの日本とこの世界を覆い、私たち自身もまた闇と死の陰の谷に住んでいるからです。また、この国でも世界中あちこちでも、薄暗がりの中で呻きながら救いを待ち望んでいる人々が大勢いるからです(ヨハネ福音書8:12,創世記12:1-3,マタイ福音書28:16-20,イザヤ書9:1-7,同60:1-3)。主よ、どうか私たちを憐れんでください。
ですから主よ、今こそ、救い主イエスの光を照り返して、私たち自身を世のための光、この地上のための塩としてください。自分自身の小さく狭い世界に閉じこもることを私たちに止めさせて、私たちを丘の上に建てられた町としてください。燭台の上に、私たちを据え置いてください。主イエスの光を照り返して、家の中のすべてのものを照らし出させ、この国とこの世界と私たち自身の毎日の暮らしにさえ、主イエスの福音の光を照らし出させてください(マタイ福音書5:13-16,ヨハネ手紙(1)1:5-2:11)。出かけて行って、そのそれぞれの場所で、あなたを愛し、あなたにこそ真心をもってお仕えし、また、だからこそ隣人を自分自身のように愛し尊ぶ働きをも、この私たちにさせてください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン