みことば/2015,12,6(待降節第2主日の礼拝) № 36
◎礼拝説教 ルカ福音書 1:18-25 日本キリスト教会 上田教会
『手間取る日々に』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
1:18 するとザカリヤは御使に言った、「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。19
御使が答えて言った、「わたしは神のみまえに立つガブリエルであって、この喜ばしい知らせをあなたに語り伝えるために、つかわされたものである。20 時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから、あなたは口がきけなくなり、この事の起る日まで、ものが言えなくなる」。21
民衆はザカリヤを待っていたので、彼が聖所内で暇どっているのを不思議に思っていた。22 ついに彼は出てきたが、物が言えなかったので、人々は彼が聖所内でまぼろしを見たのだと悟った。彼は彼らに合図をするだけで、引きつづき、口がきけないままでいた。23
それから務の期日が終ったので、家に帰った。24 そののち、妻エリサベツはみごもり、五か月のあいだ引きこもっていたが、25 「主は、今わたしを心にかけてくださって、人々の間からわたしの恥を取り除くために、こうしてくださいました」と言った。 (ルカ福音書 1:18-25)
先週から、ザカリヤとエリサベツという1組の年寄り夫婦に目をこらしつづけています。この人たちにも、ずっと祈り求め、待ち望みつづけてきた大切な願いがありました。「あなたの祈りは聞き入れられた。その願いはかなえられる」と告げられたとき、けれど彼は戸惑い、差し出された素敵な贈り物を前に立ちすくんでしまいます。18節。「どうしてそんなことが私に分かるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。分かるはずがない。とうてい信じられない、と彼は頑固に拒んでいます。そういえば、まったく同じことが何度も何度も起こりました。例えば、願いをかなえると告げられたときにアブラハムとサラも同じ答えを口にしましたね。「百歳の者にどうして子供が生まれよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして子供を産むことができようか。いいや、産めるはずがない」「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか。いいや、あるはずもない」(創世記17:17,18:12)と。マリアの場合もまったく同じでした。「どうして、そんなことがありえましょうか」(ルカ1:34)と。何によって。どうして、そんなことがありえるだろうか。それこそが、キリストの教会が2000年の歴史とその全存在をかけて問いつづけた問いです。私たちクリスチャンがそれぞれに折々に問い、ぜひとも自分自身で答えねばならない問いです。では、お聞きしましょう。キリストの教会が建っている。何によってでしょうか。あなたや私が神を求めるようになり、ある日、教会を訪れ、やがてそこに自分の居場所を見定め、クリスチャンとされた。何によってでしょうか。この1日分ずつの生命があり、それぞれの生活があり、大切な家族や友人がいる。何によってでしょう。豊かなものをそれぞれ十二分に与えられ、私たちは今日ここにあるを得ている。何によってでしょうか。
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私たちが神さまの恵みに預かってゆくこと。それは、土の中で作物が育ってゆくことに似ていました。畑のへりに立って、育てられてゆくその作物の昨日と今日とこれからを考えてみたことがあるでしょうか。思い浮かべてみてください。長年、専門的に収穫に取り組んできた農家の人たちも、毎年毎年、1つ1つの収穫に対して、やっぱり「わあ」と言って驚き、喜びの声をあげます。大根だのサツマイモだの白菜だのと豊かな収穫を手にして、1人の農夫は深く息をついて、喜びと感謝を噛みしめます。「これはまったく大地の恵み。こんなに嬉しいことはない」と。もちろん心を込めて作物の世話をし、肥料を与え、腰の痛みに耐えながら朝も夕方も雑草をむしりました。台風や嵐の夜には、じりじりしながら気を揉みました。病気に侵され、害虫にむしばまれた作物を手にして、深く心を痛めもしました。それでも手にする収穫は、自分自身の労苦をはるかに越えて豊かだったのです。そうでした。土の中の奥深いところで本当にはいったい何が起こっているのかを、その農夫さえ知りません。自分たちの力量や判断をはるかに越えた不思議な働きに信頼し、委ね、期待をこめて待ち望みます。だからこそ精一杯に雑草を抜き、世話もし、天候に心を配ることもできるのです。土の下の奥深いところで、微生物やミミズたちが住む場所で、私たちのあずかり知らない何かが起こっています。農夫たちは、そのことを思い起こし思い起こし、目の前にある日々の仕事に立ち向かうのです。私たちの多くは農家ではなく畑仕事がどんなものであるのかを具体的にはほとんど知りません。けれど、彼らの心の思いや腹の据え方を知っています。例えば子供たちと一緒に過ごす父さん母さんたちの日々も、これとよく似ています。子供たちの1人1人は、畑の中の大根やニンジンやさつま芋のようでした。この豊かな収穫は、いったいどこから来たのでしょう。何によってだったでしょうか。「私が肥料をちょうどいい塩梅で与えたから。私が骨惜しみせず、苦労して雑草をむしってやったから。私が土をよく耕したから。だから。わたしはこれこれのことをした。だから」とは、あの彼らは言いません。1人の農夫は知っています。1人の親は知っています。ただ神さまからの恵みによったのだと。1人のクリスチャンも、もちろんよくよく心得ています。希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じ、そのようにして驚きながら、まるで思いがけない贈り物のようにして受け取ってきた(ローマ4:18)。子供たちや農家の人たちが、収穫を手にして「わあ」と歓声をあげるようにしてです。そのとおり。自分の若さや体力、自分の賢さや有能さによってではなく、自分の正しさやふさわしさによってでもなく、自分の誠実さや自分の信仰の深さや浅さによってでもなく他の何によってでもなく、ただ恵みによって、私は今日こうしてあるを得ていると。
――でも、もう少していねいに語りましょう。何によって、私たちは聖書に書いてあることがよく分かり、『神さまがどんな神さまであるのか。主イエスの福音とは何か。この世界が何者であるのか。神の慈しみの眼差しの只中にあって、私がいったい何者であるのか』を何によって知るのでしょうか。何によって、祈りが祈りとして聞き届けられるでしょうか。何によって、私たちはクリスチャンとされたでしょうか。聖書を毎日よく読んで、だから私は聖書のことがよく分かるようになる、のではありません。いつも熱心に祈って、正しくふさわしく祈って、だから祈りが聞き届けられる、のではありません。礼拝に毎回欠かさず出席して、よい行いをし、人に親切にし、骨惜しみせず働いて、だから、その人がふさわしいキリスト者とされる、のではありません。よく働いた者がその働きに応じて報いられ、ふさわしいものがそのふさわしさに応じて扱われた、のではありません。正しい者や強く大きな者たちが、そのまま正しく強く大きいとされた、のではありません。決して、そうではありませんでした。ふさわしくないまま、私たちは迎え入れられたのでした。私たち1人1人のためにも、驚くべきことが成し遂げられて、それで私たちはここにいます。もし、真実な神がおられて、その神が顧みてくださるなら、その人は神さまからの語りかけを聞き届けはじめます。「年をとった者が新しく生まれることなど、ありえない。できるはずがない。私は決して神の国を見ることがない」(ヨハネ福音書3:1-9参照)と心を頑固にして淋しく絶望していた人であっても、たとえものすごく意固地で偏屈な人であっても、もし、真実な神がおられて、その神が顧みてくださるならば。
19-21節です。あのザカリヤは、神殿の聖所の中で手間取っていました。他にも、手間取った人たちがこの聖書の中には一杯います。放蕩息子も手間取ったし、あの放蕩息子の兄さんもマルタもかなり。モーセもずいぶん手間取りましたし、二の足を踏んで、何度も後戻りしましたね。そうそう、主の弟子トマスも、ずいぶん手間取りました。復活した主イエスが弟子たちの前に現れたとき、トマスは留守でした。「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」(ヨハネ20:25)と彼は拒みました。不思議なことに、その疑い深いトマスこそが一番先に、主の御前に膝をかがめました。「わが主よ、わが神よ」と叫んで、真っ先に喜びにあふれました。
神の出来事を受けとめようとして、けれど手間取っている人々がいます。あなたがそうかも知れません。いいえ、この私自身が。神さまが生きて働いておられるなどとは信じられない日々があり、神がはたしてこの私をちゃんと顧みていてくださるのかと戸惑い、疑う日々もあります。けれども、その手間取っている人を責めてはなりません。まごついている自分自身に失望してはなりません。あのときも神殿の庭で待っていた人々は、「何をいったい手間取っているのか」と呆れてうんざりしていました。いいえ、いくらでもいつまででも呆れさせておけばいい。好きなように思わせておけばいい。なにしろ神殿の聖所の中では、あの彼と神さまとの一対一の格闘がなされているのですから。手間取る者たちは、格闘をしているのです。聖所からようやく出てきたザカリヤは、あの男は、話すことができませんでした。かろうじて身振りで示すだけで、一言も口がきけませんでした。まだまだ格闘がつづいているのです。その赤ちゃんが生まれるまで10月10日、そして産後の1週間、つまり1年近くも、あの彼は手間取りつづけます。私たちも手間取ります。いつまでかかるのかを私たちは知りません。ほんの数ヶ月なのか、数年なのか数十年なのか。けれども神さまが知っておられます。その人の手間取りを、その人の恐れや疑いを、神ご自身がよくよく知っていてくださいます。戸惑い疑うことは恥ずかしいことではありません。足踏みをし、行きつ戻りつをし、後戻りをすることさえも。生きる戻りつし、足踏みをした場所は踏み固められて、やがて堅固な土台となるでしょう。あなたは揺るぎなく確固として立つでしょう。
ひとつ疑問が残ります。神殿の聖所の中で起こった出来事を、いったい誰がみんなに報告したのでしょうか。「口がきけなくなる。時が来れば実現する主の言葉を信じなかったのだから」と告げられたとき、神の御使いとあの男のほかには、そこには誰もいなかったのです。誰が報告したのでしょう。――あの彼ではありませんか。一年近くたった後で、彼が自分で報告したのです。「皆さん聞いてください。いきなり、そんなことを言われました。私も妻もじいさんばあさんになった、できるはずがない。とても信じられないと答えました。そして、叱られた。『神にできないことは何一つない。けれど、あなたは信じなかった』と。主の御力がこの私にも及んで、それで私は口が利けなくされた。やがて恵みの時が来て口と舌は解かれた。それから、その日以来、自由に好きなようにペラペラ喋ることが出来るようになったかといえば、決してそうではなかった。それ以来この私は、他のことは一切話すことができない。ただただ神への感謝を申し上げ、ただただ神への信頼をこそ語るほかなくなった私である」。
信仰をもって生きていても、もちろん悲しむ日々はあります。どうしたらよいのかと困り果て、頭を抱える日々も来ます。けれど、悲しむままでは終わりません。卑屈にいじけるときもあります。けれど、谷のように貧しく身をかがめ、卑屈にちぢこまるとき、その小さくされた私に呼びかけてくださるお独りの方がおられます、「顔を上げなさい。背筋をピンと伸ばしなさい」と。うっかりして、山や丘のように高ぶって他人を見下すとき、その偉そうな私を叱りつけてくださるお独りの方がおられます、「あなたは身を低く屈めなさい」と。険しく狭い曲がりくねった道のように、かたくなに意固地になるとき、その私に優しく語りかけてくださるお独りの方がいてくださいます、「あなたは平らになりなさい。もっともっと広くなりなさい。そんな曲がりくねった凸凹道じゃ、誰も安心して通れないだろう」と。誰もが誰に対しても、恐れることもおじけることもなく、恥じ入ることもなく、誰をも恥じ入らせることもなく、虚勢を張ることもなく、なんの気兼ねも遠慮もなく、背筋をピンと伸ばす。そのためには、まず私たちこそが深く慎んで、低く低く身を屈めましょう。しもべとして、心安く晴れ晴れと身を屈めましょう。今までは、あまりに自惚れて頑固で頭(ず)が高すぎましたから。河原に転がっている丸くてスベスベした小石のように、滑らかに平らになりましょう。あなたにも、この私にさえ、それはできます。何によって? どんなふうにして? ただ主ご自身の豊かさと主の憐れみ深さと、主の真実さによって。本当に、できるでしょうか。それはけっこう難しい。おおごとです。でも大丈夫。安心してください。意固地でかたくなな私たち人間には逆立ちしてもできませんが、私たちの主なる神にはできます。神さまには、できないことは何一つないからです。あなたのためにもこの私のためにも、主なる神はすでに準備万端だからです。