12/6 こども説教 マタイ28:16-20(最終回)
『主イエスの弟子にする』
+上田駅前アピール「沖縄の嘆き」(12/4)
28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼 らに行くように命じられた山に登った。17
そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。18 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。19
それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。
(マタイ福音書 28:16-20)
主イエスは十字架につけられ、死んで葬られ、その3日目に墓から復活されました。11人の弟子たちはガリラヤに行き、山に登り、約束どおりに、そこで復活なさったイエスさまにお会いしました。主イエスは仰いました;「わたしは天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によってバプテスマ(=洗礼,せんれい)を施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。
ひれ伏して、主イエスを礼拝する弟子たちの中には「疑う者もいた」、と報告されています。「そんな疑ったり迷ったりする弟子たちに大切な仕事を任せたって仕方がないじゃないか。そんなことでは、立派に務めをはたせるわけがない。ちゃんと主イエスを信じている、しっかりした弟子たちだけに福音を宣べ伝えさせたらいいじゃないか」と思いますか。いいえ、そうではありませんよ。だって、主イエスは仰ったではありませんか「わたしは天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。だから」と。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。だから」と。ね、これがキリストの教会のための主イエスご自身からの約束です。疑ったり迷ったり、心配になったりオロオロしたりする弟子たちですけれど、言われたとおりに出かけていきました。言われたとおりに、洗礼を授け、主イエスの弟子とし、教えつづけました。今でもそうです。はじめにはよくよく信じていた弟子たちも、出かけていって途中で、やっぱり疑ったり恐れたり、尻込みしたりし始めたでしょう。どうしましょうか。大丈夫。あのときと同じように、主イエスは近づいて来て語りかけてくださるからです。そうそう、思い出しましたけれど、しばらく後で、主イエスの弟子の1人は遠くの町で疑いはじめました。「誰もちゃんと聞いてくれない。信じようとしない。こんな町で一所懸命に語り続けて、いったい何になるだろう。もう止めてしまおうか」。情けないような、ひどく惨めな気持ちになって、心がすっかり折れてしまいそうになります。恐れや不安が山ほどあって、すっかり弱り果てて。そうしたら、ガリラヤの山の上で弟子たちに語りかけておられたその同じ主イエスが、近寄ってきて、その弟子にも語りかけます;「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。あなたには私がついている。誰もあなたを襲って危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(使徒18:9-10参照)。ね。同じ主イエスからの同じ約束です。「わたしは天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。だから」と。主イエスの弟子たちは今でも出かけていって、主イエスの弟子とし、洗礼を授け、教えています。教えられ、洗礼を授けられた弟子たちもまた出かけていって、誰かを主イエスの弟子とし、教えて、するとまたその弟子たちは出かけていって、という具合に。中には疑う者も尻込みする者も混じっています。けれど大丈夫。主イエスがその人にもどんどん近づいてきて、語りかけてくださるからです。主は仰いました;「わたしは天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。だから」と。
【割愛した部分の補足。
関心のある方は、どうぞ読んでください】
(*)この箇所にこそ、何度も立ち返る。伝道の行き詰まりや閉塞感や落胆を覚えながら。日曜学校の職務にたずさわるすべての教師たちも、親たちも同様である。職務を怠っている者はいないだろう。それぞれ日曜学校のため生徒たちのため、また大切な家族や我が子への信仰の伝達のために励み、心を砕いてもいる。けれど、この失速。現場の数的減少、不振は何なのか。どうしたらいいだろうと。だからこそ、しずまって熟慮しよう。速い馬、エジプトの戦車と騎兵を求めてはならない。「立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかに信頼しているならば力を得る」(イザヤ30:15)。同じ一つの答えが告げられつづけたが、私たちは聞こうとしなかった。ここで、ひれ伏して礼拝する弟子たちの中には疑う者たちもいた(17節)。「疑う」は「心が分かれること、信じ切れないさま」を表す。あれこれと心が引き裂かれ、信じ切れないでいる者たちをも含めて弟子たち皆に、復活の主イエスは神の国の福音宣教を命じられる。つまりは働く只中で、疑いや信じ切れなさは少しずつ拭い去られていく。
「すべての国民」(19節)は、諸国民であり、諸民族である。そもそもアブラムへの祝福は「地のすべてのやから」(創世12:3)のための祝福だった。またエジプトから脱出した神の民には、種々雑多な人々が新たに加えられてもいた(出エジプト12:38)。
「わたしの弟子にしなさい。洗礼を授け、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」(19-20節)。伝道伝道と、わたしたちは声高に悲鳴のように叫び出そうとしている。そして、「どうしたらいいだろうか」と苦しそうな顔つきで首を傾げている。その思いは傾きかけた商工会議所の寄り合いに似ており、空回りをし始める。なんだか上っ調子で、どこか浮足立っている。私たちはまだ覚えているだろうか? 伝道は、企業戦略や市場拡大の論理とはまったく異質な働きである。伝道は、「金銀はないが持っているものをあげよう。ナザレ人イエスの名によって立ち上がり歩きなさい」と貧しい人々を招く。伝道は、「活発に旺盛に働け。効率よく働いて成果をあげよ」という以前に、「あなたの重荷を降ろしなさい。休ませてあげよう。主イエスの荷は軽いから彼の軛を負い、この彼にこそ学べ」と招く。伝道は、「主の足元にあなたも座って、よくよく耳を傾けよ。なくてならぬ唯一の良いものを、あなたも受け取れ」と、心引き裂かれた物寂しいマルタを主イエスの足元へと、何度でも何度でも呼び寄せつづける。伝道は、「主ご自身が町を守り家を建てるのでなければ、虚しい。虚しい虚しい、あまりに虚しい」と弁え、深く慎み、それゆえに主ご自身のお働きにこそ一途に信頼を寄せる(使徒3:6,マタイ11:28-30,ルカ10:38-42,詩127:1-3)。この1つの真実に、私たちは今なお同意できるだろうか。それとも、新しい別のことを提案しはじめるのだろうか? なぜ、伝道であり宣教なのか。いったい何をするのか。何のために、それをするのか。「私共はふつつかなしもべです。すべき事をしたに過ぎません」 (ルカ17:10)と晴れ晴れとお答えしたいので、する。19-20節の主ご自身からのご委託とご命令にこそ、私共は立ち返ろう。本気になって立ち返りつづけよう。「せよ」と命じられていることを、私共はする。信頼し、主への忠実と従順をもって事に当たろう。主イエスの弟子たちよ、健闘を祈ります。
上田駅前アピール「沖縄の嘆き」(12/4)
♪ 子供を殺すな、自衛隊員をむだ死にさせるな。自衛隊員の家族を泣かすな。沖縄を粗末にするな。憲法違反の法案いらない。要らない要らない要らない。憲法違反の内閣いらない、憲法違反の与党もいらない。憲法違反の国会議員もいらない。戦争反対、反対反対、絶対反対!
大手町1丁目の日本キリスト教会上田教会の牧師、金田です。もうご存知でしょうけれども、今週2日(水)に、沖縄の基地移設問題がとうとう法廷闘争の場に持ち込まれました。国家と、国の一つの地方とが、沖縄で争っています。国家権力が命じるなら、地方自治体も国民も、どこまでも言いなりにされ、屈服し、ただただ従い続けなければならないのでしょうか。この日本という国に地方自治はあるのか、ないのか。この日本という国に民主主義はあるのか、ないのか、と問いかけられています。「沖縄県民は自由、平等、人権、自己決定権をないがしろにされて参りました」と沖縄県知事は法廷で訴えていました。琉球王国と呼ばれていた頃のそもそもの初めから、ずっとそうだった。踏みにじられ、ないがしろにされつづけてきたと。県知事と沖縄に住む私たちの同胞たちは涙を流し、嘆きながら訴えつづけています。「沖縄が米軍に自ら土地を提供したことは一度もありません。そして戦後70年、あろうことか今度は日本政府によって、海上での『銃剣とブルドーザー』をほうふつさせる行為で美しい海を埋め立て、私たちの自己決定権の及ばない国有地となり、そして、普天間基地にはない軍港機能や弾薬庫が加わり、機能強化をされ、耐用年数200年ともいわれる基地が造られようとしております。今沖縄には日本国憲法が適用され、昨年のすべての選挙で辺野古新基地反対の民意が出たにもかかわらず、政府は建設を強行しようとしております。・・・・・・沖縄が日本に甘えているのでしょうか。日本が沖縄に甘えているのでしょうか。戦後70年を経たにもかかわらず、国土面積のわずか0.6%しかない沖縄県に、73.8%もの米軍専用施設を集中させ続け、今また22世紀まで利用可能な基地建設が強行されようとしております。日本には、本当に地方自治や民主主義は存在するのでしょうか。沖縄県にのみ負担を強いる今の日米安保体制は正常といえるのでしょうか。国民のみなさますべてに問いかけたいと思います。沖縄、そして日本の未来を切りひらく判断をお願い致します」(翁長雄志(おなが・たけし)知事の意見陳述から抜粋。12月2日、福岡高裁那覇支部)。もし彼らが私たちの親兄弟だったら、もし私たちの父さん母さんだったら、もし自分の家族、子供たちだったら、私たちはこんな扱いは決してしないでしょう。なぜ、見て見ぬふりができるのでしょうか。自分とは関係ない他人事だと思っているから、彼らの嘆きが耳に入りません。聞いても、ほんの少しも心が痛みません(沖縄県民の嘆きが耳に入らないことと、他すべての人々の嘆きや悲しみや心細さや惨めさが耳に入らず、心がほんの少しも痛まないこととは同一であるだろう。それらは数珠つながりに、一つに繋がっている。日本の軍需産業資本と米国の利益のために、自衛隊員が世界中どこへでも出かけていって人を殺したり殺されたりすること。原発事故がまったく収束していない危険な土と空気と水の中で暮らすことを強いられる福島の人々。下請けの下請けの下請けの、使い捨てにされつづける原発作業員。アジア諸国からの、搾取されつづける研修生・職業訓練生たち。シリアやアフリカ諸国からの難民たちや、部落の人々やアイヌ人たちや、日本で肩身の狭い思いをしながら暮らす外国人の家族ら、そのほか様々な差別と抑圧と排除と搾取と暴力にさらされつづけるおびただしい数の人々。彼らの嘆きと怒りと悲しみは、耳に届かない。私たちの心はほんの少しも痛まない。他人事でありつづけ、私たちの心が鈍くなってしまったからだ)。私たちには自分の目の前のことしか目に入りません。お金が儲かるかどうか、自分たちの毎日の暮らしがどうなるかということしか考えません。今、自分さえよければそれでいいと、目も耳も塞ぎつづけています。それはなんと貧しい、なんと身勝手な、なんと惨めな魂でしょうか。いつまで、私たちはあの彼らを踏みにじりつづけるのでしょうか。いつまで、この私たち自身は、彼らをないがしろにしつづけるのでしょうか。
(*)この半年あまり、駅前で、ほぼ毎週毎週マイクをもって語りかけつづけてきました。実は、本業の牧師としての説教職とこの活動とは、内容としても表現形式としてもあまりに似通っていて近かったのです。それで、ぼくの精神にこの活動は大きな影響を及ぼし、礼拝説教の内容も語り口もこの駅前スピーチにどんどん引きずられ、やや危機的な(?)状況に立ち至りました。自分でこの二つの行為のバランスを取ることが難しいのです。困りました。駅前活動にはひきつづき参加しつづけますが、けれどマイクをもって語ったり、シュプレヒコールをするのはしばらく休止します。ごめんなさい。そして改めて、よろしくお願いします。
(金田聖治 かねだ・せいじ)
◎とりなしの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。「わたしは天においても地においてもいっさいの権威を授けられた。世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」と仰った主イエスのご命令とご委託とに十分に信頼を寄せ、それゆえ聴き従い、なすべき務めを精一杯に果たすことができるようにさせてください。この私たちも出かけていって、すべての国民を主イエスの弟子とし、洗礼を授け、命じられているいっさいのことを守るように互いに教え合うことができるようにさせてください。なぜなら主よ、闇がこの日本とこの世界を覆い、私たち自身もまた闇と死の陰の谷に住んでいるからです。また、この国でも世界中あちこちでも、薄暗がりの中で呻きながら救いを待ち望んでいる人々が大勢いるからです。新しく、大変な苦境に立たされはじめた自衛隊員とその家族の命と平和をお守りください。ないがしろにされつづけ、基本的人権と自由と平和と自治権を奪われつづける沖縄の人々を、どうか顧みてください。いいえ。あなたが確かにこの人々を憐れみ、顧みてくださっていることを確かに知らされておりますから、この私たち一人一人も、あなたの憐れみの眼差しに重ねて、彼らを今こそ、自分自身のことのように愛し、尊ぶことができるようにさせてください。日本に住む外国人を差別し、排除し、押しのけようとする憎しみの声が鳴り止みません。自分と同じ国民や同じ民族だけではなく、その彼らをも自分たちを愛するように愛し、尊ぶ私たちとならせてください。ですから主よ、あなたの御心を行うために立てられた、責任あるすべての者たちを正しく導いてください。国家と政府与党とすべての政治家と官僚職員を、地方行政団体の職員とその首長たちを、また裁判所裁判官と検察官と警察職員と、社会福祉と医療に携わるすべての職員たちと、子供の父親母親たちを、そしてすべてのキリスト教会とクリスチャン一人一人をあなたの御心にかなって善い働きができるように強く導きつづけてください。主よ、どうか私たちを憐れんでください。
ですから主よ、今こそ、救い主イエスの光を照り返して、私たち自身を世のための光、この地上のための塩としてください。自分自身の小さく狭い世界に閉じこもることを私たちに止めさせて、私たちを丘の上に建てられた町としてください。燭台の上に、私たちを据え置いてください。主イエスの光を照り返して、家の中のすべてのものを照らし出させ、この国とこの世界と私たち自身の毎日の暮らしにさえ、主イエスの福音の光を照らし出させてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン