みことば/2015,12,27(主日礼拝) № 39
◎礼拝説教 マタイ福音書 6:5-10
日本キリスト教会 上田教会
『御国を来らせてください』~祈り.3~
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
6:5 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。6
あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。7
また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。8 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。9
だから、あなたがたはこう祈りなさい、
天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
10 御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。 (マタイ福音書 6:5-10)
どう祈るかという問いは、祈りの仕方や作法についての問いであることを豊かに越えています。それは生き方と腹の据え方についての問いであり、祈りと信仰をもってこの私という一個の人間が、毎日の具体的な生活をどう生きることができるかという問いです。例えばあの夫と私が、あの息子や娘たちとこの私が、職場の同僚たちと私が、近所に住むあの人たちとこの私がどんなふうにして一緒に生きてゆくことができるのかという問いであったのです。いろいろな悩みや恐れやこだわりを抱えた、弱さや危うさを深く抱え持った私という人間が、どうやって心安く晴れ晴れとして日々を生きて生涯をまっとうすることができるのかという問いです。今までにはなかった新しい祈りが差し出され、まったく新しい生き方が、ここで私たちに差し出されています。「神さま。あなたの御名をあがめさせてください。あなたの御国をこの私の所へも来たらせてください」。心を鎮めて、目を凝らしましょう。
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聖書の神を信じる人々は、なにより神さまの御前に深く慎む人々でした。その慎みによって、直接にあからさまに神のことを言ったり指し示したりすることを差し控えて、しばしば遠回しな言い方をしました。ここでもそうです。「神の名前があがめられますように」。それは直ちに、ただ名前だけではなく、神ご自身が尊ばれ、信頼され、深く感謝されますように。他の誰彼がみんながという以前に、なによりまずこの私こそが神さまに信頼し、願い求め、感謝することもできますように、という願いです。「神の国が来ますように」。神の国、天の国。国が確かに国であり、神の王国が確かに名実共に神ご自身の王国である。その理由も実体も、まったくひたすらに国の王様にかかっています。王様がそこにいて、ただ形だけ名前だけいるのではなくて、そこで力を存分に発揮してご自身の領土を治めている。そこに住む住民一人一人の生活の全領域を、王様ご自身が心強く治めていてくださる。だから、王国はその王の王国となるのです。その領土に住む1人の住民の安全も幸いも、希望も慰めも支えも、すっかり全面的に、その国王の両肩にかかっている。――それが神の国の中身であり、実態です。神ご自身が尊ばれ、神こそが信頼され、感謝される。神ご自身が生きて働いてくださり、ご自身の恵みの出来事を持ち運んでいてくださる。そのことを「ぜひ何としても」と渇望して願い求めている者たちは、つまり、「今はあまりそうではない」と気づいています。あまりそうではない現実に心を痛め、「どうしてそうなんだろうか」と思い悩んでもいるのです。彼らは気づきはじめています。神ではない別のものが尊ばれ、別のものがあがめられたり恐れられたりしている。神ではない別のものが信頼され誉めたたえられたりしている。別のものが、まるで王様やボスのように大手を振ってのし歩いている世界に、この世界に、この私は生きていると。その只中で、私もまた神ではないモノ共に虚しく引きづられ、言いなりにされ、しばしば、この私自身さえもが目を眩まされ、心を深く惑わされている。なんということかと。
クリスチャンのすべての生活とすべての領域は、つまり朝から晩まで、どこで何をしていても誰と一緒にいるときにも、『神中心の生活。神中心の腹の据え方』であり、それを願い求めて生きる悪戦苦闘です。その積み重ねです。それを願い求めながら、同時に他方で、そうではない在り方と腹の据え方が他でもない自分自身の中に色濃く残っていることに気づいてゆくことです。『自分中心。人間中心』の在り方と腹の据え方が、他でもないこの私の中にもある。こんなにも大きく、こんなにも根深くと。わたしがどう思い、どう考え、また周囲の人々がどう思い、どう考えるだろうかとどこまでもこだわり、どこまでも引きずられていきそうになる危うさに気づいて、それと戦い、それと格闘しつづけ、『神中心の腹の据え方』を少しずつ少しずつ取り戻してゆくことです。なんとかして、何としてでも。『悔い改める』という聖書独特の言葉もまた、ただ反省したり悪かったと思うことではありません。自分自身と周囲の人間たちのことばかりを思い煩いつづけることから解き放たれて、その眼差しも思いもあり方も180度グルリと神へと向き直ることでした。なぜなら、「私たちがどう思い、どう考えるか」とそればかりを思い、そればかりにこだわりつづけるのは、淋しい生き方であるからです。「周囲の人々が私をどう思うだろう、どう見られているだろうか」と顔色をうかがい、引きずられ、言いなりにされてゆく生き方は、とても心細い。あまりに惨めです。誉められたといっては喜び、けなされたといっては悲しみ悔しがり、受け入れられたといっては喜び、退けられたといっては嘆き、一喜一憂し、恐れつづけます。それでは、いつまでたっても淋しく惨めで、心の休まるときがない。サタンよ退け。私の心を深く支配しガンジガラメに縛りつけるサタンよ、引き下がれ。だって、この私は神のことを少しも思わず、人間のことばかりクヨクヨクヨクヨと朝から晩まで思い煩いつづけているではないか。私のサタンよ、退け(マタイ16:23参照)。
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と主イエスは宣べ伝えました(マルコ1:15)。それが始まりです。神の独り子がこの世界にくだって来られ、救いの出来事を成し遂げてくださった。その方は私たちの救いのために死んで復活し、今、私たちのために生きて働いていてくださる。それこそが、時が満ちたことと神の国が近づいたことの具体的な中身です。それで、だからこそ、私たちも神へと心も普段の在り方も180度、グルリと向け返すことができる。私たちもまた主イエスの福音を信じて、福音の只中を生きることができる。
例えばアブラハムの息子ヤコブもまた、神を『私の神』とする時が来たことに気づきました。あのヤコブにも神の国が近づきました(創世記28:10-)。「見よ。わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで、あなたを決して見捨てない」。それが、ヤコブのための福音です。約束を果たすのは、ヤコブではなく主なる神です。ヤコブが神を見捨てないのではなく、神こそがヤコブを見捨てないと断固としておっしゃるのです。どこへ行っても、誰と何をしていても何もしていなくたって、なにしろ神さまご自身こそが。彼自身が彼を守るのではなく、主こそが彼を守ってくださいます。彼自身が彼を連れ帰るのではなく、主なる神こそが彼をきっと連れ帰ってくださる。その恵みの約束を、主ご自身が彼のために成し遂げてくださる。主ご自身が彼を決して見捨てることも見離すこともなさらない。それが、主が共にいることの中身であり、主が主であってくださることの中身です。「見よ。見なさい」と神さまが私たちに呼びかけておられます。「あの人やこの人たちが私と共にいてくれる。だから安心」とか、逆に「あの人やこの人たちがそこにいて目を光らせている。だから肩身が狭い。恐れ多い」などと。「誰も私と共にいてくれない。誰も私を顧みてくれない。だから淋しい。心細い」などと。神さまが呆れています;「え、何を言っている。どこを見ている。私が一緒にいるじゃないか。あなたはそれでは不足か。まだ足りないのか」と。キョロキョロソワソワと見回してばかりいないで、この私をこそ見なさいと。あの彼は、そこでようやく受けとめたのです。「はい。どうぞよろしくお願いします」と。あの彼もまた、まるで初めてのように気づいたのです。「まことに神がここにおられるのに、私は知らなかった。今は知った。どうぞ、これからは、私の神となってください」(創世記28:16,20-21参照)と願い求めました。願い求めながら生きることを、あの彼も、し始めました。こうして、1人のクリスチャンが誕生しました。
長い長い時が流れました。『神ご自身が尊ばれ、信頼される。神ご自身が生きて働いていてくださり、ご自身のその恵みの出来事を、ご自身で持ち運んで、きっと必ず成し遂げてくださる』。その信頼と確信のもとに、今日でも、1人のクリスチャンが誕生します。心をさまよわせていた1人のクリスチャンが、ついに『私は一個のクリスチャンである』という恵みの場所へと立ち返ります。今日でも、同じ一つの確信のもとに、それは起こります。起こりつづけます。例えば、とても臆病で気の小さい人がいました。傷つきやすい、いつもビクビクオドオドしていた人がいました。夫の前でも親の前でも、子供たちの前でも、職場の同僚たちの前でも、「こんなことを言ったら何と思われるだろう」と彼女はためらいます。「聞いてもらえないかもしれない。馬鹿にされ、冷たくあしらわれ、はねのけられるかも知れない。相手の自尊心を傷つけ、互いに嫌な思いをするかも知れない」などと思い巡らせます。それで長い間ずっと、人の顔色をうかがいながら他人の言いなりにされてきました。例えば、「私が。私が」と長い間、我を張って生きてきた頑固な人がいました。私は私のしたいことをする。したくないことはしない。思い通りにできれば気分がいい。したくないことをさせられれば気分が悪い。けれどクリスチャンである彼は、あるいは彼女は、その一方でもう一つのことを心に留めていました。「神の御名を、私にもあがめさせてください。神ご自身の御国を、こんな私の所へも来させてください」という祈りをです。そうだった。私の考えや思いや立場を重んじるよりも、なにしろ神さまをこそ尊ぶ私である。私に信頼し誰彼に聞き従うよりも、なにしろ神さまに信頼し、感謝し、神さまにこそ聞き従うはずの私である。わたしを第一とし、あのことこのことを主とするよりも、なにしろ神さまを主とする私である。例えば、親子の場合。職場の同僚同士。上司と部下の間。友だち同士の場合。教会の話し合いや会議の席でもまったく同じです。それをするかしないか。言うか言わないか。私はどうしたいのか。あの人たちはどう思うだろうか。けれど、その時にも、クリスチャンである私たちは別のことを心に留めています。「神の御名を、私にもあがめさせてください。神ご自身の御国を、こんな私の所へも来させてください」という祈りをです。「御名と御国をこそ」という願いと、その一つの話題、その一つの判断とは無縁ではありません。むしろ、いよいよそこで「御名と御国をこそ」というその願いが、私たちのための現実となっていきます。ついに、願い求めるその人は、「それはいけない。間違っている」と言い始めます。「そんなふうにしてはいけない」と言いはじめます。あるいは、「私が間違っていました。ゆるしてください」と。また、喉元まで出かかった言葉、思いと言葉と行いをかろうじて飲み込みます。
なぜでしょうか。もう一つのことを心に留めているからです。「神の御名を、私たちにもあがめさせてください。神ご自身の御国を、ここへも来させてください」という祈りが、かろうじて危ういところで、その人たちをクリスチャンでありつづけさせます。目の前のその強い大きな人を尊んだり恐れたりする2倍も3倍も、神さまご自身をこそ尊ぶ彼らであるからです。その人に信頼し従うよりも、自分の考えややり方に従わせようとするよりも、神さまにこそ信頼し、感謝し、聞き従いたい。その願いのほうが、ほんのちょっと大きい。なぜなら兄弟たち。この私にもあなたにも天に主人がおられます。あの人もこの人もわたしの主人ではなく、夫も上司も私の主人ではなく、私自身さえももはや私の主人ではなく、主人のしもべたちにすぎなかったからです。しもべである私が立つも倒れるも、すべて一切その主人にかかっています。その一人の人はクリスチャンです。しかも天の主人は、しもべである私たちを立たせることがお出来になります。倒れてもつまずいても、何度でも何度でも、きっと必ず立ち上がらせてくださいます(コロサイ4:1,ローマ14:4)。私や誰彼がよい気持ちでいることよりも、天の主人に喜ばれることのほうが、私にはもっと大切です。あの人この人に誉められ認められることも大切ですが、それより「善かつ忠なるしもべよ」と天の主人に誉められる(マタイ25:21)ことのほうが、私にはもうちょっと大切です。なにしろ天に主人がいてくださり、私たちはそのしもべとされているのですから。正直言って、わたしはあまり善良でも忠実でもありません。かなり大目に見ていただきながら、かなり忍耐され辛抱していただきながら、なお、しもべとされています。強く賢い私のためにも、主こそが私よりもっと強く賢くあってくださる。取り柄もなく、格別に何かの役に立つわけでもない乏しい私のためにも、あるいはよく働く私のためにも、何しろ主なる神こそが生きて働いていてくださる。私は晴れ晴れとして膝を屈めます。臆病で気の弱い、卑屈でいじけた私のためにも、この主人こそが強く大きくあってくださる。この主人こそが豊かであってくださる。この私たちは、そこでようやく楽~ゥに、晴れ晴れとして顔をあげることができます。聖書の神さまを信じることのできる者たちは幸いです。