2015年11月2日月曜日

11/1こども説教「わたしの体を食べよ。わたしの血を飲みなさい」マタイ26:26-30

11/1 こども説教 マタイ26:26-30
 『わたしの体を食べよ。わたしの血を飲みなさい』
   付録/上田駅前アピール「踏みにじりつづける国家」(10/30)

26:26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。27 また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。28 これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。29 あなたがたに言っておく。わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。
(マタイ福音書 26:26-29)

  主イエスは十字架におかかりになる前の晩、弟子たちと最後の食事をなさいました。みなさんは、どうして朝ご飯や昼ご飯、晩ご飯を食べるんですか? お腹がすくからでしょ? 「ご飯だよ。食べなさ~い」とお母さんが呼んでくれるからですね。主イエスのお弟子さんたちも、だいたい同じでした。でも、この晩の食事だけは、いつもの普通の食事と全然違っていました。どうして? どこが? だって、パンを食べるとき、主イエスが「これは私の体ですよ」と仰って皆に手渡してくださったからです。ぶどう汁で作った赤い飲み物を渡すときにも、「多くの人のために流す私の血である。さあ飲みなさい」(26,28節参照)と仰ったからです。主イエスは、次の日の、ご自分の十字架の死を思っていました。弟子たちに、そのことをよくよく分かってもらいたいと心から願っていました。それで、そのことをよくよく分かって受け取るための、パンとぶどう汁で作った赤い飲み物です。
  ちょうど良かった 今日は聖晩餐の、パンと、ぶどう汁で作った赤い飲み物のある礼拝です。一休みして戻ってきて、大人の人たちがパンと赤い飲み物を食べたり飲んだりするところをよ~く、ジロジロと見ることが、皆さんには一番大切です。だって、あのときの12人の弟子たちが主イエスの十字架の死をよくよく分かるだけじゃなくて、主イエスの弟子とされた私たちクリスチャン皆が、よくよく分かりながら生きることが大切だからです。戻ってきて聖晩餐の食卓で、あなたの周りの大人たちがどんな気持ちでそのパンを食べ、その赤い飲み物を飲むのか、よくよく眺めてみましょう。その人たちがどんな気持ちでパンと飲み物を受け取って食べたり飲んだりしたのかは、誰の目にも、大人にも子供にも、普段その人と一緒に暮らしている誰にでも、はっきり分かります。「神に逆らってばかりいる罪人をゆるすために、神さまの恵みの中に招き入れて、神さまの子供たちとするために、そのためにこそ私は十字架の上で、自分の体を引き裂く。そのためにこそ、私は自分の血を流し尽くす。このパンと赤い飲み物を飲み食いする者たちの救いを私が約束する」と主イエスが、その人たちを、その食事の席に招いてくださったからです。そのパンを食べ、その赤い飲み物を飲む人たちの顔の1つ1つに、「イエスさま、本当にごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい」「イエスさま、ありがとうございます。ありがとう、ありがとう」と書いてありますよ。生まれ変わったような、新しい気持ちがその人たちのオデコや頬っぺたに、はっきりと書いてあります。よ~く眺めていると日曜の午前中だけじゃなく 何日か後になっても何十日も後でも、その人たちが何かを言ったり、なにかをしたりするとき、「イエスさま、本当にごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい」「イエスさま、ありがとうございます。ありがとう、ありがとう」とまだまだ消えずに、その人の顔つきや、態度や、ちょっとした言葉遣いやいつもの腹の据え方の中にも、はっきりと太い文字のマジックペンで書いてあります(エレミヤ書31:33-34参照)。もしかしたら、その文字が薄~くなって今にも消えかけている人も、時々はいるかも知れない。もし、誰かの頬っぺたの「イエスさま、ごめんなさい。ありがとう」というマジックペンの文字が薄~くなって消えかけているのを見たときには、あなたはどうしたらいい? 他に誰もいない所で、その人にこっそり親切に教えてあげてください。「お母さん、お母さん。お母さんの、ここんとこ、消えかけてるよ」。あらまあ大変だわと赤くなったり青くなったりしながら、その人のオデコや頬っぺたや態度や言葉遣いの端々に「イエスさま、ごめんなさい。ありがとう」という神さまからの文字が、また戻ってくるかも知れません。
 そうか 私の父さん母さんも、後ろのほうに座っていたお爺さんお婆さんも、主イエスの十字架の「体を」食べたし、流された主イエスの「血を」飲んだのか。私のこのお父さんは、このお母さんは、このおじさんおばさんは、イエスさまからとても良い、飛びっきりの良い贈り物をいただいた。ずっと教えられてきたことが、とうとうこの人たちの血となり肉となってきたのか。じゃあ本当だったのかアと。


       ()『聖晩餐の食卓に子供たちが同席する』ことは、教育上とても有益だし、信仰教育の絶好のチャンスとなる。出エジプト記12:14-28,ヨシュア記4:1-24を見よ。子供らが問う、「この儀式はどんな意味なの? パンやぶどうの赤い飲み物なのに、どうして『私の体。私の血』と主イエスは弟子たちに仰ったの? お母さんたちも、何のために食べたり飲んだりするの? 自分を吟味して、主の体を弁えて飲み食いするって、どういうこと? ねえ、お母さん、お父さん(12:26,ヨシュア記4:6,21参照)。父母と年長の者ら一同は、それらの問いかけに精一杯に答える『教育的義務』を主なる神から課せられている。応えようとする私共でありたい。
        ()「父の国であなたがたと共に新しく飲むその日までは、今後決して~飲まない(29)の説き明かしを割愛した。「御国の完成」と「弟子たちをそこに招き入れ、救いの祝宴にあずからせる」こと。そのためには、主イエスの十字架の死と復活、天に昇って王として世界を治めつづけることが不可欠。「パンと赤い飲み物」は、そのことの目に見えるしるしであり、その実態を弟子たちの体と魂に深く刻み込むため。聖晩餐にあずかる意義と目的はそこにある。「それまでは、決して~ない」とは、十字架の死と復活をもって救いを成し遂げるという断固たる決意であり、御父と御子イエスの切なる願いだ。「苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと切に望んでいた(ルカ22:15-16)も同じ心である。
    ()1つの礼拝で、子供用と大人用と2本立ての説教をしつづけることは案外に難しい。実践としては、当教会でのこの半年あまりが金田にとっては初体験の新しい試みである。苦闘している。毎週毎週の礼拝で、相互関連なく2つの聖書箇所から2本の説教をしているが、仮に1つの共通する聖書箇所で、そこから子供用と大人用と2つの説教を形成するなら、実施しやすく効率的か。いいえ、なおさら難しい。また例えば、「それで小さな子供に分かるだろうか?」と折々に『こども説教』への批評が語られつづけてきた。もちろん表現としては、それぞれの発達段階に応じた平易で噛み砕いた語り方、『書き言葉』から『語り言葉』への移行、彼らの普段の日常語彙での伝達などが要求される。けれど内容としては、大人が理解することのほとんどを小さな子供も負けず劣らず理解できる。大抵の場合、批評するその人は「大人なら経験と知識を積み、理解力も充実しているはずだという漠然とした前提のもとに、子供の魂を侮り、軽々しく見くびり、その分だけ、自分たち大人の理性を買いかぶりすぎて」いるかも知れない。むしろ心が頑固になる分だけ、大人の理解はより一層、乏しく浅薄になるかも。しかも自分は大きなつもりの大人たちよ、「心を入れ替えて幼子のようにならなければ」(マタイ18:3,19:14)と主イエスから直々に戒められていたのは、どういう意味だっただろう? それを共々に熟慮しよう。さて大人と子供と両方を見据えて語っているが、実は子供たちの間でも、「小学校高学年」「中学年」「低学年・幼稚科」と幅広い。ごく小さな子供たちも見落とせないが、子供クラスの仕上げ段階に入っている「小学校高学年」「中学年」の生徒たちには、特に、精一杯の十分なメッセージが届きつづけて、やがて大人たちと一緒に大人説教を聴く者へ、聖晩餐にあずかる者たちへと成長していってもらいたい。それが『こどものための教会教育』の究極の願いであり、目標である。だから、毎週語られる『こども説教』の第一の対象は、「小学校高学年」「中学年」となる。礼拝前の分級で生徒たちは、それぞれ用語や背景などの手ほどきを受け、下準備をして『こども説教』に臨む。それでもなお、言葉をもう少し噛み砕いた平易な言葉遣いに近づける不断の課題が残る。同労の教師たちの健闘を祈ります。

 ◎とりなしの祈り
  イエス・キリストの父なる神さま、だからこそ確かに私たちの本当の父になってくださり、主イエスをとおして私たちをあなたの本当の子供たちとして迎え入れ、養い、支え、守りとおしてくださる神さま。心から感謝をいたします。あなたを信じる信仰を私たちに与えてください。
  神さま。国と国のケンカを戦争といいます。私たちの国の中でも、大人も子供も、強い豊かなものが弱い貧しいものをいじめたり、のけものにしたり、便利にただ利用されたり、困らせたり苦しめたりしませんように。神さま。沖縄の人々の心の痛みと怒りと悲しみを、どうか私たち自身の心の痛みと怒りと悲しみとさせてください。自分自身のこととして、それを心で味わい、つくづくと感じ取ることができますように。まるで植民地のように、まるで支配される奴隷のように、私たちは力づくで言いなりにされつづけています。薩摩藩に無理矢理に占領された1609年から今日まで、316年もの間ずっとです。1972年に米国統治下から日本領土に変更された後でも、力づくで言いなりにされつづける中身はほとんどまったく変わっていません。「自分たちだけに戦争の基地や爆弾や外国の兵隊たちを押し付けられるのは嫌だ。朝から晩まで耳も心も壊れてしまうほどのジェット機の爆音にさらされ、ビクビクしながら暮らすのは嫌だ」と私たちがいくら訴えても聴いてもらえません。「普通に生きる最低限の権利があるはずだ」と訴えても、「権利はない。憲法が保証する権利も人権も、そこでは適用されない」と撥ね退けられます。いやなら日本から出て行け、などと罵声を浴びせられます。福島から避難して遠くの土地で暮らす人々もそうです。原子力発電所事故がまだまだ全然収束していないのに、そこで仕方なしに、放射能の目に見えないゴミに怯えながら暮らす大人や子供たちもそうです。あちこちの原発の町で暮らす人々も、そこで使い捨てのように、粗末に働かされつづける労働者たちもそうです。日本で邪魔者扱いされ、片隅へ片隅へと押しのけられながら心細く暮らす外国人たちとその家族もそうです。職業訓練生、研修生と呼ばれて、この国で安く働かされる外国人たちも。ですから神さま。困っている人や、貧乏な人や、心や体を弱らせている人たちや、心細く暮らす人たちに、相手が日本人でも外国の人たちでも、同じ真心をもって手を差し伸べる私たちにならせてください。
 主イエスのお名前によって祈ります。アーメン。




  付録/上田駅前アピール
「踏みにじりつづける国家」(10/30)

  大手町1丁目の日本キリスト教会上田教会の牧師、金田です。
 安全保障関連法案が実施されても、私たちの安全は少しも保証されません。むしろ逆です。ますます脅かされ、どんどんどん踏みにじられつづけます。平和と安全を保証されて安心してニッコリ暮らすはずの人たちの中に、けれど自衛隊員たちとその家族の平和と安全は入っていません。沖縄の人々の自由、平等、人権、民主主義も入っていません。まるで植民地のように、まるで支配される奴隷のように、彼らは力づくで言いなりにされつづけています。かつて琉球王国と呼ばれていた頃、薩摩藩に力づくで占領された1609年から今日まで、316年もの間ずっとです。1972年に米国統治下から日本領土に変更された後でも、力づくで言いなりにされつづける中身はほとんどまったく変わっていません。「自分たちだけに、戦争の基地や爆弾や外国の兵隊たちを押し付けられるのは嫌だ。朝から晩まで耳も心も壊れてしまうほどのジェット機の爆音にさらされ、ビクビクしながら暮らすのはもう嫌だ」といくら訴えても、聴いてもらえません。「普通に生きる最低限の権利があるはずだ」と訴えても、「いいや、権利はない。憲法が保証する権利も人権も、そこでは適用されない」と撥ね退けられます。例えば沖縄の人々は、必ずしも安全保障に反対しているわけじゃないと訴え続けてきました。「けれど どうして私たちだけに重い荷物を背負わせつづけるのか」と怒っています。「なぜ 私たちだけがいつもいつも貧乏くじを引かされつづけるのか」とガッカリしています。
自分たちさえ安全で安心で快適なら、それでいいんですか? あなたがもし安全保障に賛成なら、「この長野県上田に米軍基地をぜひ作ってもらおう。東京に、千葉や神奈川にもジャンジャン米軍基地を作ってもらおう」と言わねばなりません。原子力発電所がどうしても必要だとおっしゃるなら、東京、大阪、名古屋、この上田市にも、原子力発電施設や核のゴミ捨て場をぜひとも作ってもらおうと。「それじゃあ世界平和と安全のために、まず、この私自身と息子と娘達が鉄砲担いで出て行って、世界中で人殺しをしたりされたりしてきま~す」と手を挙げねばなりません。そうしますか、あなた自身は? きれいごとを並べ立てて、あの彼らだけに重い荷物を背負わせつづけ、知らんぷりしつづけ、彼らのその苦しみと痛みをほんの少しも聞こうともしない。総理大臣と政府与党だけが自分勝手なんじゃなくて、この私たち自身が、目の前の自分のことしか考えないからです。自己決定権も人権も平和もないがしろにされ、粗末に扱われつづける人々がいます。自衛隊員とその家族の生命も安全も、金儲けのための都合のいい人質にされ、使い捨てにされつづけます。アジア諸国からの農業研修生、職業訓練生も。原子力発電施設で働く下請けの下請けの下請けの下請けの労働者たちも。彼らは生命さえ粗末に扱われ、ただただ安く便利に使い捨てにされつづけます。それで大手企業も政治家もお金が儲かる。自分たちにも都合がいい。だからといって、人間の生命や安全をそのための生贄(いけにえ)にするのは間違っています。
  ♪ 子供を殺すな、自衛隊員をむだ死にさせるな。沖縄を粗末にするな。日本に住む外国人を粗末にするな。邪魔者扱いするな。戦争反対、反対反対、絶対反対。憲法違反の法案いならい。要らない要らない、要らない。私たちも大きな声で叫ぶ。やめてと叫ぶ。やめてと叫ぶ。やめてと叫ぶ。

              ()【共同声明】20151013日。内閣総理大臣 安倍晋三様、防衛大臣 中谷元様。『私たちは、翁長沖縄県知事の辺野古・大浦湾海域の埋立承認取り消しを支持します~政府は、沖縄の民意を受け止めるべき~』。本日、沖縄県の翁長雄志知事が、米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)の名護市辺野古移設(新基地建設)について、公有水面埋立法に基づく辺野古・大浦湾海域の埋立承認を取り消しました。私たちは、この決断を支持し、日本政府はこの承認取り消しに従い、辺野古・大浦湾海上での工事作業を中止するように求めます。翁長沖縄県知事は、昨年11月、辺野古基地建設反対を公約にかかげ、仲井真氏に10万票もの大差をつけて当選しました。これだけでなく、これまで何度も、選挙で、県議会で、市議会で、市民の行動で、「辺野古基地建設ノー」という沖縄の民意は明らかにされてきました(別紙参照)。日本政府はこの圧倒的な民意を無視するべきではありません。また、翁長県知事は、承認取り消しにあたり、きわめて慎重な検討を行ってきました。翁長県知事の指示により設置された第三者委員会は、法的な検証を行った結果、4つの瑕疵(かし=不十分な点)をあげています。すなわち、①「埋め立ての必要性」が立証されていない、②「国土利用上、適正かつ合理的」という要件を満たしていない、すなわち利益が不利益を上回っているということが立証されていない、③環境影響評価がずさんであり環境保全措置が不十分、④「生物多様性おきなわ戦略」、「琉球諸島沿岸海岸保全基本計画」など法律に基づく地域の計画に反している――の4点です。
 生態系や生物多様性の価値は、人類共有の財産です。地域コミュニティにとっては、その未来を築いていくための礎でもあります。自然のめぐみをどのように使っていくか、開発と保全の調和をどのように保っていくかの意思決定に参加することは、そこに暮らす人々の当然の権利ではないでしょうか? また、日本が加盟する生物多様性条約の第10回締約国会議で採択された愛知ターゲットにおいても、とりわけサンゴ礁のような脆弱な生態系や絶滅危惧種の保全は重要な目標となっています。辺野古・大浦湾は、確認されているだけでも、絶滅危惧種262種を含む5,300種以上の海洋生物の生息地ともなっており、世界に誇る豊かな海です。国際的にみても「保護価値の高い」生態系なのです。知事の承認取り消しに対し、国は、地方自治法第255条の2に基づき、行政不服審査請求を行う公算が強いとみられています。しかし、行政不服審査請求は、行政の不当な権力の行使にあたり国民の権利を守るための制度です。国自体が不服申立てを行い、弱い立場にある県を屈服させるのは、法や民主主義の精神にもとるでしょう。私たちは、辺野古・大浦湾のかけがえのない生物多様性を守るため、また沖縄で示された民意を踏まえ、日本政府に対して、翁長県知事の埋立承認取り消しに従い、新基地建設に伴う作業を中止すること、また、行政不服審査請求などの対抗措置を取らないことを強く求めます。賛同団体:194団体  賛同署名(個人):6423筆。
 ――それでもなお1029()に、政府は本格工事に着手した。
力づくで押し通すのか、人間を踏みにじりつづけるのか、この国の政府は。