2015年11月24日火曜日

11/22「御名を誉めたたえさせてください」マタイ6:5-10

                                        みことば/2015,11,22(主日礼拝)  34
◎礼拝説教 マタイ福音書 6:5-10                       日本キリスト教会 上田教会
『御名を誉めたたえさせてください』~祈り.2
 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
6:5 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。6 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。7 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。8 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、
天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
10 御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。 (マタイ福音書 6:5-10)


 主イエスが教えてくださった『主の祈り』を少しずつ味わいはじめて、今日はその2回目。「天の父よ。あなたのお名前を誉めたたえさせてください」。父なる神よと呼ばわりはじめて、「あなたの名」「あなたの国」「あなたの心こそが」と目を凝らしています。つまり、「御父の名」「御父の国」「御父の心こそが」と。それが、主の祈りに含まれる6つの願いのうちの前半3つの願いです。誰よりも高いところにおられます御父をこそ尊び、信頼を向け、御父に従って歩み、御父の国が地上に来て自分もそこに住むことを待ち望むように。また、私の願いや他の誰彼の願いや計画どおりではなくて、ただただ御父の御心にかなうことこそが成し遂げられていきますように。そのように祈り求め、腹に据えつづけなさいと救い主イエスご自身が、私共に教え、命じておられます。なぜなら私共すべてのクリスチャンは、主イエスの後につづいて生きようとする主イエスの弟子たちだからです。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、み心のままになさって下さい」(マタイ福音書26:39)。そうか、あのゲッセマネの園での主イエスの祈りの格闘そのままではないか。あなた自身もこの私も、そのように生きることができる、という神さまからの招きです。

 「私たちが神の国に入る」「神の国が、こちらへ近づいてくる」。それは直ちに、御父の国でした。やがて将来来るというだけでなく、すでに始まって、その国の領土を着々と広げつつあります。覚えておいてほしいのですが、その御父の国で王の座につき、父の王国の鍵を一手に握り、力を発揮しつづけておられるのは救い主イエスです。「イエス・キリストは父なる神の右に座り」と使徒信条は告白します。「父の右」は、ただ単に顧問助言者とか補佐役などではなく、このイエスこそが全権を一手に握っており、右の座こそ王であり、最高司令官である者の座るイスです(マタイ28:18-20)と。それで、主イエスの弟子とされた私たちは主イエスに全幅の信頼を寄せ、イエスにこそ聴き従って生きるのです。いつまで。そこにははっきりした期限が示されていました(コリント手紙(1)15:24-25。世界の終わりの日までは、救い主イエスこそが天と地の一切について最高責任者でありつづけます。この私たち自身と家族の生き死にに関しても、また神によって造られた世界のすべてにとっても。
  どう祈るかという問いは、祈りの仕方や作法についての問いであることを豊かに越えています。毎日毎日の1つ1つの事柄と向き合うときの、現実の具体的な腹の据え方についての問いです。祈りと信仰をもってこの私という一個の人間が、毎日の具体的な生活をどう生きて、やがてどう心安らかに死んでいくことさえできるのか、という問いかけです。例えばあの夫と私が、あの息子や娘たちとこの私が、職場の同僚たちと私が、近所に住むあの人たちとこの私がどんなふうにして一緒に生きてゆくことができるのかという切実な問いであったのです。いろいろな悩みや恐れやこだわりを抱えた、弱さや危うさを深く抱え持った『私という一個の人間』が、いったいどうやって心安く晴れ晴れとして日々を生きて生涯をまっとうすることができるのか、という問いかけです。今までにはなかった新しい祈りが差し出され、まったく新しい生き方が、ここで私たちに差し出されています。「神さま。あなたの御名をあがめさせてください。あなたの御国をこの私の所へも来たらせてください。あなたの御心こそがこの地上にも成し遂げられていきますように」。心を鎮めて、目を凝らしましょう。
 聖書の神を信じる人々は、なにより神の御前に深く慎む人々でした。その慎みによって、直接にあからさまに神のことを言ったり指し示したりすることを差し控えて、しばしば間接的で遠回しな言い方をしました。ここでもそうです。「父なる神さま。あなたの名前こそがあがめられますように」。それは直ちに、ただ名前だけではなく、父なる神ご自身が尊ばれ、信頼され、深く感謝されますように。他の誰彼がみんながという以前に、なによりまずこの私こそが神に信頼し、願い求め、感謝することもできますように、という願いです。「神の国が来ますように」。神の国、天の国。国が確かに国であり、神の王国が確かに名実共に神ご自身の王国である。その理由も実体も、まったくひたすらに国の王様にかかっています。王様がそこにいて、ただ形だけ名前だけいるのではなくて、そこで力を発揮してその領土を治めている。そこに住む住民一人一人の生活の全領域を、王様ご自身が心強く治めていてくださる。だから、王国はその王の王国となるのです。その領土に住む1人の住民の安全も幸いも、希望も慰めも支えも、すっかり全面的に、その国王の両肩にかかっている。それが神の国の中身です。
 神ご自身が尊ばれ、神こそが信頼され、感謝される。神ご自身が生きて働いてくださり、ご自身の恵みの出来事を持ち運んでいてくださる。そのことを渇望して願い求めている者たちは、つまり、「今はあまりそうではない」と気づいています。あまりそうではない教会とクリスチャンたちの現実に心を痛め、「どうしてそうなんだろうか」と思い悩んでもいる。彼らは気づきはじめています。神ではない別のものが尊ばれ、別のものが崇められたり恐れられたりしている。神ではない別のものが信頼され誉めたたえられたりしている。別のものが、まるで王様のように大手を振ってのし歩いている世界に、この世界に、この私は生きていると。その只中で、私もまた引きづられ、言いなりにされ、しばしば、この私自身さえもが目を眩まされ、心を深く惑わされている。なんということかと。キリスト者の全生活は『神中心の生活。神中心の腹の据え方』であり、それを願い求めて生きる悪戦苦闘です。その積み重ねです。それを願い求めながら、同時に他方で、そうではない在り方と腹の据え方が他でもない自分自身の中に色濃く残っていることにハッとして気づき、「なんてことだ」と心を痛め、神さまの御もとへ、御もとへと、立ち返りつづけて生きることです。『自分中心。人間中心』の在り方と腹の据え方が、他でもないこの私の中にもある。こんなにも大きく、こんなにも根深くと。わたしがどう思い、どう考え、また周囲の人々がどう思い、どう考えるだろうかとどこまでもこだわり、どこまでも引きずられていきそうになる危うさに気づいて、それと戦い、それと格闘しつづけ、『神中心の腹の据え方』を少しずつ少しずつ取り戻してゆくことです。なんとかして。『悔い改める』という聖書独特の言葉もまた、ただ反省したり悪かったと思うことではありません。自分自身と周囲の人間たちのことばかりを思い煩いつづけることから解き放たれて、その眼差しも思いもあり方も180度グルリと神へと向き直ることでした。なぜなら、「私がどう思い、どう考えるか」とそればかりを思い、そればかりにこだわりつづけるのは、淋しい生き方であるからです。「周囲の人々が私をどう思うだろう、どう見られているだろうか」と顔色をうかがい、引きずられ、言いなりにされてゆく生き方は、とても心細いからです。あまりに惨めです。誉められたといっては喜び、けなされたといっては悲しみ悔しがり、受け入れられたといっては喜び、退けられたといっては嘆き、一喜一憂し、恐れつづけます。それでは、いつまでたっても淋しく惨めで、心の休まるときがない。サタンよ退け。私の心の中のサタンよ、引き下がれ。だって、この私は神のことを少しも思わず、人間のことばかりクヨクヨクヨクヨと思い煩っているではないか。退け(マタイ16:23参照)
 長い長い時が流れました。『神ご自身が尊ばれ、信頼される。神ご自身が生きて働いていてくださり、ご自身のその恵みの出来事を、ご自身で持ち運んで、きっと必ず成し遂げてくださる』。その信頼と確信のもとに、今日でも、1人のクリスチャンが誕生します。心をさまよわせていた1人のクリスチャンが、ついに『私は一個のクリスチャンである』という恵みの場所へと立ち返ります。今日でも、同じ一つの確信のもとに、それは起こります。起こりつづけます。例えば、とても臆病で気の小さい人がいました。傷つきやすい、いつもビクビクオドオドしていた人がいました。夫の前でも親の前でも、子供たちの前でも、職場の同僚たちの前でも、「こんなことを言ったら何と思われるだろう」と彼女はためらいます。「聞いてもらえないかもしれない。馬鹿にされ、冷たくあしらわれ、はねのけられるかも知れない。相手の自尊心を傷つけ、互いに嫌な思いをするかも知れない」などと思い巡らせます。それで長い間ずっと、人の顔色をうかがいながら他人の言いなりにされてきました。けれど、クリスチャンである彼女はその一方で、もう一つのことを心に留めていました。「神の御名を、私にもあがめさせてください。神ご自身の御国を、こんな私の所へも来させてください」という祈りをです。そうだった。なにしろ神さまをこそ尊ぶ私である。神に信頼し、感謝し、神にこそ聞き従うはずの私である、と。例えば、「私が。私が」と長い間、我を張って生きてきた頑固な人がいました。私は私のしたいことをする。したくないことはしない。思い通りにできれば気分がいい。したくないことをさせられれば気分が悪い。けれどクリスチャンである彼は、あるいは彼女は、その一方でもう一つのことを心に留めていました。「神の御名を、私にもあがめさせてください。神ご自身の御国を、こんな私の所へも来させてください」という祈りをです。「父よ、あなたの御心をこの地上に成し遂げてください」という心からの願いと信頼をです。ゲッセマネの園での主イエスの祈りそのものではありませんか。けれど私の願い通りではなく、あなたの御心にかなうことが成し遂げられますように。ああ、そうだった。私の考えや思いや立場を重んじるよりも、なにしろ神ご自身を尊ぶ私である。私に信頼し誰彼に聞き従うよりも、なにしろ神の御心にこそ信頼し、感謝し、神にこそ聞き従うはずの私である。「御名と御国を。私や他の誰彼の願いや計画ではなく、あなたの御心にかなうことをこそ」という願い。私たちの目の前にあるその一つの具体的な話題、その一つの判断とこの腹の据え方とは無縁ではありません。むしろ、いよいよそこで「御父の御心こそ」という願いが、私たちのための現実となっていきます。ついに、願い求めるその人は、「それはいけない。間違っている」と言い始めます。「そんなふうにしてはいけない」と言いはじめます。あるいは、「私が間違っていました。ゆるしてください」と。あるいは、喉元まで出かかった言葉を、思いと言葉と行いをかろうじて飲み込みます。もちろん、私たちは生身の人間です。嫌な顔をされるよりは、されないほうが居心地がいい。けなされるよりは誉められるほうが好きです。言い争うよりは、カドの立ちそうな話題は避けて、当らず障らずにいるほうが気楽です。わざわざ波風立つよりは立たないほうがよほどましに思えます。だから、力の強そうな声の大きな人物が目の前にいるなら、「はい。分かりました。あなたの思うとおりにやってください」と。どこまでも言いなりにされ、流されていきそうになります。あるいは強い私は、「私の気持ちは。私の立場や満足は」とどこまでも我を張って、私の言いなりに従わせようとします。それでもなお、私たちはクリスチャンです。なぜでしょうか? もう一つのことを心に留めているからです。「神の御名を、私たちにもあがめさせてください。神ご自身の御国を、ここへも来させてください」という祈りが、かろうじて危ういところで、私たちをクリスチャンでありつづけさせます。目の前のその強い大きな人を尊んだり恐れたりする2倍も3倍も、神さまをこそ 尊ぶ私たちであるからです。その人に信頼し従うよりも、自分の考えややり方に従わせようとするよりも、神にこそ信頼し、感謝し、聞き従いたい。その願いのほうが、ほんのちょっと大きい。ほんのちょっと色濃い。いいえ。その千倍も万倍も大きく色濃い。私たちはクリスチャンです。なぜなら、この私にもあなたにも天に主人がおられます。あの人もこの人もわたしの主人ではなく、夫も上司も私の主人ではなく、私自身さえももはや私の主人ではなく、主人のしもべたちにすぎなかったからです。私たちはクリスチャンです。しもべである私が立つも倒れるも、すべて一切その主人にかかっています。私たちはクリスチャンです。しかも天の主人は、しもべである私たちを立たせることがお出来になります。倒れてもつまずいても、何度でも何度でも、きっと必ず立ち上がらせてくださいます(コロサイ4:1,ローマ14:4参照)。私や誰彼がよい気持ちでいることよりも、天の主人に喜ばれることのほうが、私にはもっと大切です。あの人この人に誉められ認められることも大切ですが、それより何しろ 「善かつ忠なるしもべよ」と天の主人に誉められる(マタイ25:21)ことのほうが、その千倍も万倍も この私たちには大切です。そうでしたね。なにしろ天に主人がいてくださり、私たちはそのしもべとされているのですから。何しろ、主なる神こそが生きて働いていてくださる。「私ががんばらなくちゃ。私が私が」と歯を食いしばって生きてきた人が、肩の力を抜いて、楽~ゥになります。「私や誰彼のガンバリや努力の甲斐があって? いいや、そうじゃない。大間違いだった。だって主なる神さまは、この私自身と家族のためにも十分に生きて働いてくださるんだから」と。
私たちは晴れ晴れとして膝を屈めます。堅く抱え込んでいたものを安らかに手離すこともできます。臆病で気の弱い、卑屈でいじけた私のためにも、この主人こそが強く大きくあってくださる。この主人こそが豊かであってくださる。私たちは、そこでようやく楽~ゥに、晴れ晴れとして顔をあげます。私たちはクリスチャンです。