2015年11月30日月曜日

11/29「もう老人ですし」ルカ1:5-18

                              みことば/2015,11,29(待降節第1日の礼拝)  35
◎礼拝説教 ルカ福音書 1:5-18                         日本キリスト教会 上田教会
『もう老人ですし』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

1:5 ユダヤの王ヘロデの世に、アビヤの組の祭司で名をザカリヤという者がいた。その妻はアロン家の娘のひとりで、名をエリサベツといった。6 ふたりとも神のみまえに正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落度なく行っていた。7 ところが、エリサベツは不妊の女であったため、彼らには子がなく、そしてふたりともすでに年老いていた。・・・・・・13 そこで御使が彼に言った、「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。14 彼はあなたに喜びと楽しみとをもたらし、多くの人々もその誕生を喜ぶであろう。15 彼は主のみまえに大いなる者となり、ぶどう酒や強い酒をいっさい飲まず、母の胎内にいる時からすでに聖霊に満たされており、16 そして、イスラエルの多くの子らを、主なる彼らの神に立ち帰らせるであろう。17 彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」。18 するとザカリヤは御使に言った、「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。                                      
                            (ルカ福音書 1:5-18)


このルカ福音書が報告する最初の出来事は、ザカリヤという名の1人の祭司の前に、突然に主の御使いがあらわれたことでした。御使いが彼に告げたこと。それは、神の恵みの力によって息子が与えられ、その子は神さまのために大切な役割を果たすようになることでした。聖書は、『約束された救い主が来られるとき、それに先立って1人の預言者が立てられ、救い主を人々が迎え入れるための道備えをする』と予告していました(マラキ3:1)。そうした一連の預言を最後に、ほぼ400年もの間、神はピタリと口を閉ざしたのです。ずいぶん長い神の沈黙です。そして、とうとうその約束が実現するときが来ました。

 6-7節です。あの彼らは、神に従って生きる正しい人たちでした。けれども子供が与えられませんでした。それは、今日の私たちが想像するよりももっと重く厳しい試練でした。なぜなら『与えられる子供を通して神の祝福が具体的に実を結ぶ』と、その当時の人々は教えられていたからです。『子がないことは神の祝福が与えられていないしるしだ』と当時の人々は考えました。いいえ、この夫婦だけではありません。私たちにもまた担いきれないような重荷を背負わされ、試練や悩みが襲う日々があります。逃れる道がどこにも見出せない日々があります。八方ふさがりで、だれにも理解されず、だれも支えてくれず、どこにも解決が見出せないと思える日々があります。苦しむその人は、「よりにもよって、なぜ、この私が」と苦しみ、「ただ自分独りだけがこんな辛さに耐えている」と思うことでしょう。けれど、担いきれない重荷や試練はそれぞれにあったのですし、あちこちに数かぎりなくあります。苦しむ人はすっかり絶望し、世間や周囲の人々や運命をうらみ、呪うようになるかもしれません。いじけて、ひがみっぽくなるかもしれません。無気力になり、ただ流されてゆき、あるいは捨て鉢になって死と破滅を願うようになるかもしれません。けれど、その中のほんの一握りのものたちは、そこで神へと向かいました。その痛みと辛さの只中で、貧しく身を屈めさせられる日々に、けれどそのようにして、神へと向かう人々がいます。ほんの一握りの人々が。その人々は悩みと苦しみの只中で神さまと出会ったのです。
  10-14節。香は1日に2度、神殿の中でたかれました。香の煙があがるのを見て、人々は祈りました。空に昇っていく煙、それは、天に昇ってゆく祈りのしるしでした。その昇ってゆく煙のように、私たちがささげる祈りもまた昇っていって、ぜひとも天の御父のもとへと届いてほしい。けれど、ご覧ください。ゆらゆらと立ち昇ってゆく煙はひどく頼りないのです。強い風に吹き飛ばされて消え去ってしまうかも知れません。いったん昇りはじめても、自分自身の重みに耐えかねて、地面に逆戻りしてしまうかも知れません。この私たちの祈りや願いは、はたして神に向かって昇ってゆくでしょうか。それとも、この世界を低く重く漂いつづけて、やがて虚しく消え去ってしまうでしょうか。主の御使いが1人の男の前に現れて、神の言葉と神の現実を告げました。男は不安になり、恐怖の念に襲われました。なぜなら、神の言葉と神ご自身の現実だからです。私たちには私たちの言葉があり、私たちの現実があります。互いに語り合ったり、独りでつぶやいたり、思い巡らせたりし、計画したり実行したりして、私たちは私たちの事柄をそれぞれに持ち運んで日々を生きてゆきます。けれど突然に、神の現実が私たちの現実の前に姿を現しました。『あなたたちがそれぞれに生き、それぞれに立ち働いているだけではなく、いやむしろ神ご自身こそが生きて働いておられる』と宣言されるのです。
  13節。不安になり、恐怖の念に襲われたこの人に語られた最初の言葉に、耳を傾けましょう。「恐れるな、ザカリヤよ。あなたの祈りが聞き入れられたのだ」。恐れるな? いつ、彼は恐れたのでしょうか。この人は、突然にあらわれた神の使いに対して、たしかに今、恐れています。けれど、それだけではありません。実は、これまでずっと恐れつづけてきたのです。年老いた人々が恐れるだけではありません。小さな子供の頃から、不安と恐れは私たちに付きまといます。いくら正しくても、勉強が良くできても、たくさんの友だちに囲まれていても、仕事が順調でも、よい学校への入学が決まっても、かわいい赤ちゃんが無事に生まれ、すくすく育った後でも、愛情深い家族に囲まれていても、今は元気で健康だとしているとしても。
  自分を脅かす様々なものを、この人もやっぱり恐れて、どんなに取り繕って見せても内心ではとても心細く感じながら生きてきたのです。ここにいるこの私たち1人1人がそうであるように。けれども今、この人は神の御前に立たされ、まるでいま初めてのようにして、神さまをこそ畏れはじめています。神さまの御前に立たされて、その時に私たちが感じるおそれは、いったい何でしょうか。神さまの眼差しが注がれ、その光に照らし出されて、私たちの内面の弱さ、脆さ、罪深さがあばかれ、突きつけられます。私たち自身の汚れや不十分さ、神の御前にはとうてい立ち得ない価のなさを思い知らされます。その通り。神の御前では、おそれるほかない私たちです。しかも兄弟たち。神がおられない所などなく、神の御前ではない別の他の所など、どこにもないのです。それなら、私たちはどうしたらいいでしょう。――けれど神に栄光あれ。感謝をいたします。なぜなら、神さまと私たち人間との間に、ただお独りの力ある執り成し手が立てられたからです。私たちの主イエス・キリストが。主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)とおっしゃいました。もし、だれかが神の恵みのもとへぜひ辿り着きたいと願うなら、この主イエスこそ、神の御もとに辿り着くための確かな、ただ一筋の道です。もし誰かが、『神はどんな神だろう。その神さまの御前に、この世界はどんなものであり、また私は何者なんだろうか』と思い悩み、それを知りたいと願うならば、主イエスこそその真理を告げる方です。もし誰かが、神の恵みとゆるしのもとに揺るぎない晴れ晴れとした生命をえたいと願うならば、この主イエスこそが、その人に格別な生命を与える方です。主イエスを通るなら、誰でもきっと辿り着ける。主イエスに聞くなら、誰でも知ることができる。主イエスから受け取るなら、誰でもきっと必ず、喜ばしく生き、やがて安らかに死んでゆくことさえできるようになる――それが聖書からの、神ご自身からの約束です。
 自分自身のためにも、また大切な家族や親しい友人たちのために、なぜ、私たちは祈ることができるのでしょう。悩みや苦しみや困ったことを、どうして、私たちは神さまへと語りかけることができるのでしょう。そしてまた、どうして、その悩みや願い事は神さまにちゃんと聞き届けていただけるのでしょう。その根拠と理由とを、あなたは御存じでしょうか。任職され、十分な訓練と教育を受けた牧師や長老が真心をこめてその人々のためにとりなして祈り、だから聞き届けられるのでしょうか。誠実に、信仰深く、ふさわしく祈り、それで聞き届けられるのでしょうか。いいえ、そうではありません。そうした人々も含めて、私たち人間は皆、どう祈っていいか分からないのです。誰も彼もが、十分にふさわしくは祈れないのです(ローマ手紙8:26)。それでもなお、また、それだからこそ、「私こそがあなたのための道であり真理であり命である」と約束してくださった主イエスが、確かにいてくださるからです。祈りはなぜ聞き届けられるでしょうか。しっかりした十分な深い祈りだから聞き届けられる、のではありません。ふさわしい祈りだから聞き届けられる、のではありません。十分なふさわしい私たちだから受け入れられた、のではありません。「主イエスのお名前によって」祈るからこそ、その痛みや辛さは、その小さな1つ1つの願いは、その粗末な貧しいいたらない祈りであってもなお、きっと聞き届けられる。キリスト者であることの幸いも希望も、まったく同じです。主イエスを信じるからこそ、その小さな1人の人もまた晴れ晴れと生き抜くことができます。
 さて、ルカ福音書に戻ります。神殿の庭に立って待ち構えている大勢の人々が、香の煙が立ち昇っていくのに重ね合わせて祈っていました。神に仕えるその働き人もまた、祈っていました。昇っていく煙のように、私たちの祈りと願いもまた高く昇っていって、ぜひとも天の神さまのもとまで届いてほしい。けれども彼は、いざ《神の現実》が目の前に差し出され、「あなたの祈りが聞きいれられたのだ」と告げられたとき、戸惑ってしまいます。兄弟たち。目に見えるものが私たちの目を奪い、心を奪います。目の前のそれぞれの手厳しい現実が、しばしば私たちを圧倒します(コリント(2)4:18-)。どんなふうに生きてゆくことができるでしょう。目に見えるものによってではなく立ち、足を踏みしめ、目に見えるものによってではなく歩むことなど、この私たちにどうやって出来るでしょうか。年老いた者たちも。子供も若者も。お父さんお母さんも。何によって、私たちは神の現実を知ることができるでしょう。「その子をヨハネと名付けなさい」(13)と命じられました。ヨハネという名前は、《主は恵み深い》という意味です。神さまからの恵み、贈り物、憐れみという意味です。その1人の人が地上に生命を受けて生きることも、その人そのものも、神の恵みであり、神からの贈り物であるということです。だからこそ私たちは待ち望み、夢をみます。例えばもし、愚かな1人の人が、他の誰彼の賢さをうらやむのでなく、周囲の人々の人間的な賢さに聞き従い、引き回されてゆくのではなく、神の賢さにこそ信頼し、神にこそ願い求めて、安らぎと確かさを受け取ることができるならば。もし、貧しく身を屈めさせられた1人の人が、ほかの誰彼の豊かさや力強さに圧倒されるのを止め、「人様が私をどう思うだろう。どう見られるか」と気に病むことを止め、「なぜなら彼らも私も人間にすぎず、恐れるに足りず、信頼するにはなおまったく足りない」と心を神へと向け返すならば。なにしろ神の豊かさと力強さに信頼し、その神さまがこんな私のためにさえ、ご自身の豊かさと力強さを発揮してくださることを願い求め、そのあわれみと慈しみとに一途に目をこらして生きようと腹をくくるなら。もし、意固地でかたくなな一人の人が、ちっぽけな誇りと小さな小さな体面を何より重んじるその人が、けれどなお、「こんな私のためにさえ神の独り子は」と仰ぎ見るなら。神であられることの栄光も尊厳も生命さえ惜しまず、かなぐり捨ててくださった方の十字架の御下に立つことができるなら。そこで、「おゆるしください。わたしは自分が何をしているのかさえ知らないのです。自分が何者なのか、どこから来て、どこへと向かおうとしているのかさえよく分からない。主よ、私を憐れんでください」と、もし膝を屈めることができるなら。
  多くの人々にとって、最も恐ろしい相手は人間であるらしいです。あなたも、周りの人々が恐ろしくて恐ろしくて仕方がなくなりますか? ぼくもそうです。それで度々、神さまのことがすっかり分からなくなります。家族や親戚や同じ地域に住む人々の目や耳や、彼らからの評価も気にかかります。当たらず障らず、できるだけ穏便にと願います。だからこそ全世界のための救い主であられます主イエスは、「人々を恐れてはならない。体を殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れてはならない」「あなたがたはこの世では悩みがある。しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」(マタイ10:26-28,ヨハネ16:33)と私たちを励まします。しかも だからこそ救い主は死んで復活し、その復活の新しい生命を差し出しつづけておられるではありませんか。世界中のすべての被造物のために、この私たちのためにも。ああ、そうだったのか 救い主は死んで生きてくださった。新しい生命を差し出してくださった。だからこの私も古い罪の自分と死に別れて、自分勝手で頑固で臆病な自分を葬り去っていただいて、そこでやっと神さまの御前で新しく生きはじめるはずの私だった。すっかり忘れていた。今、やっと思い出した。そうだったのかァ。――そこでようやく、そのとき、まるで初めてのようにして私たちは、贈り物を贈り物として、恵みをただただ恵みとして受け取りはじめます。そこで感謝と喜びに溢れます。差し出されつづけていたものを確かに受け取って、がっちりと握りしめて、そこでようやく私たちは知るでしょう。《主なる神の御下へと立ち帰り、立ち帰りして、そのようにして楽しみも豊かさも与えられつづける私である》と。《与えられ、受け取りつづけて、そのようにして私は今日こうしてあるを得ている》と。主の恵みは、こんな私のためにさえ、今ようやく十分に働く。
つまり、いままでは私の強さと小賢しさが、私の臆病さが神の力を邪魔していた。また体面と体際と格式にどこまでも拘る私自身の頑固さが、神ご自身の力を阻んでいた。けれども、この私自身の弱さと低さの中で、ここでようやく 神の力は十分に発揮される。ついにようやく、主の恵みはこんな私にさえまったく十分(コリント(2)12:7-)。主の慈しみの只中に生きる私たちであると。