みことば/2015,10,11(主日礼拝) № 28
◎礼拝説教 マタイ福音書 5:33-37 日本キリスト教会 上田教会
『当てにならない私自身』(礼拝後の改稿版)
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
5:33 また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。34 しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。35 また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。36 また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。37 あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。 (マタイ福音書 5:33-37) まず33-36節。シナイ山上で神さまから授けられた十の戒めの中の第九戒「あなたは隣人について偽証してはならない」(出エジプト記20:16)についてです。しかも、この戒めも『神さまを愛し、隣人を愛する』という大きな目標に私たちを向けさせるための戒めです。そのことを心によく留めながら、主イエスの発言を大切に味わいましょう。「いつわり誓うな。誓ったことはすべて主に対して果たせ」と昔の人々から聞いて、習い覚えてきた。確かに、そこには大きな道理があります。私たちの主なる神さまは、ただ偽り誓うことを禁ずるだけではなく、軽々しい誓いや約束をして神の聖なる御名をうっかり軽んじてしまうことを戒めます。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを罰しないではおかないであろう」(出エジプト記20:7)とはこのことです。この国でも、自分が話したことは本当のことだと相手に信じてもらおうとして色々なことを言います。「私の目を見てごらんなさい。この私が嘘をつくような人間に見えますか」とか、「もし間違っていたら、逆立ちして100メートル歩いてみせる」だの「嘘ついたら針千本飲む」だの「三遍回ってワンと言う」などと。この時代にも、神さまの名前を持ち出して誓うのは畏れ多いし、厳しい罰を受けても困るので、「天を指して。地を指して。エルサレムを指して。自分の頭を指して」など主の御名の代用品を用いて、ほどほどの手軽な誓いをしていたらしいのです。けれど主イエスはさらに二歩三歩と踏み込んで、私たちに対する神さまの御心へと私たちを向かわせます。「しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない」。確かにそのとおりです。天は王である神さまがお座りになるイス、地はその足をお載せする足台(イザヤ60:1)であり、エルサレムの都の神聖さも輝きもただ神ご自身のお働きと神聖さにかかっていました。たとえ自分自身の頭や人生を指して誓おうとしても、その人生さえ神さまの憐れみと慈しみと忍耐深さの中で持ち運ばれてきたものでした。自分自身の髪の毛一筋さえ、白くも黒くもできない私たちです。その通りです。自分自身の行動や発言の確かさを保証するために用いてよいものなど、何一つ持ち合わせていません。当てにならない私であり、ごくごく不安定で危うい日々を綱渡りのように生きている私どもです。 |
しかも私たちクリスチャンは、わざわざ、その自分自身の危うさや不確かさを突きつけられます。そのことを、自分自身でよくよく弁えているようにと。『自分を信じて自分自身を頼りとして生きる』のではなく、『神さまをこそ信じ、神さまを頼みの綱として、これまでとは違う新しい人生を新しく生きはじめる』ためにです。私たちの先例として、主イエスの弟子たちもそのような取り扱いを受けました。田舎の湖のほとりで、主イエスから招かれたとき彼らは、舟を捨て、網を捨て、頼りになる心強い父を後に残して、つまり裸一貫で主イエスに従い始めました。アブラハム、サラ夫婦の場合も同様でした。「国を出て、親族に別れ、父の家を離れて」(マタイ4:18-22,創世記12:1-3)。故郷の国、親族、父の家には当てになるものがいっぱいありました。そこでは様々な人やモノが彼らを支えました。弟子たちの「舟、網、父」もまた当てになるものであり、支えや頼みの綱、生活の心強い土台でした。それらを後に残して手ぶらで裸一貫で出ていかなければなりませんでした。心細かったでしょう。明日から、誰を当てにし、何を頼みの綱や支えとして生きていけばいいでしょう。主イエスを、です。それが主イエスに従って生きてゆく、という現実です。これが、あの彼らにも、この私共一人一人にも一番難しいでしょう。「自分自身も舟も網も父の家も親族もあんまり当てにできない」と知り、「じゃあ、主イエスをこそ当てにして、頼みの綱として生きていこう」と腹をくくるための訓練の旅路が始まりました。その仕上げの第一弾は、十字架前夜のあの最後の食事の席です。「皆だれもが、私につまずく」と主イエスから予告され、弟子たちは口々に言い張ります。「たとえ皆の者があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。あなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26:33-35)などと。偽って誓おうなどとは夢にも思っていなかったし、自分にはできると自信もありました。自信。神さまを信じるのではなく何を信じるのでもなく、自分を信じると書いて「自信」。自分を信じる人は、自分の判断と考えに従って、つまり自分の腹の思いに従って生きてゆくでしょう。それではまだまだ、主を信じることや主に従ってゆくこととはだいぶん違います。その数時間後に、「あなたが何を言っているのか分からない、何の関係もない」「主イエスなど知らない」「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめました。そのとき! 鶏が鳴いたのです(マタイ26:69-75)。少し前には、「あなたを知らないなどとは決して申しません」と言って皆口々に競って誓い、そのすぐあとには「分からない。イエスなど知らない、知らない」と偽って誓いました。鶏が鳴いて、「知らないと三度言うだろう」と予告されていたことをはっきりと思い出しました。外に出て、激しく泣きました。私たちのためにも鶏が鳴き、「当てにならない私自身だ」とつくづく思い知らされる時が、このあとも何度も何度も来るでしょう。でしのになるための仕上げの第二弾は、殺され、葬られ、三日目に復活なさった主イエスと再会したときです。ペテロは「私を愛するか。愛するか。愛するか」と三度つづけて主イエスから詰問され、ひどく心を痛めました。ペトロはなおも、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」 (ヨハネ21:15-17)などとと、虚しく頑固に『自分の正しさ、誠実さ。当てになる確かな自分だ』と言い張りつづけます。せっかくの挫折体験の教育がまだまだ実を結びません。では、あなた自身はどう答えることができるでしょう。自分を信じたり、頼みの綱とすることをきれいさっぱり止めて、主イエスをこそ信じたり頼みの綱とできればいいのに。せっかく、あなたも私もクリスチャンにしていただいたんですから。せっかくキリストの体の肢々の一つとしていただいたんですから。ねえ!
この後すぐに歌う讃美歌461番は子供の歌ですけれど、「♪主われを愛す。主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらず。わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す」と歌っています。この歌の勘所は、「主われを愛す」と歌うばかりで、「われ、主を愛す」とは一言も言い張ってはいないという点です。「主は十分に強くあってくださるので、それで恐れはない」とキッパリと、主イエスをこそ当てにし、頼みの綱とし、恐れや心細さを拭い去っていただいている点です。素敵ですね。「まあ、羨ましいわ。私も、そんなふうになれたら幸せなのに」とあなたも思うでしょうか? もし思うのなら、願い求めればいい。願い求めるならば、その願いはきっと必ずかなえられます。(少なくとも、この説教壇の上では)ずっと本当のことばかり言ってきましたが、本当のことすよ。
37節。けれど、あなたが語るべき言葉は、「はい、そのとおりです」「はい、そうです」「いいえ違います、違います」だけで十分。主イエスはここで今や、どうやって人と付き合っていくことができるかという十分な解決方法を授けておられます。正直であり、誠実であること。あまり誠実でもなく正直でもない人々の間では、必死に重々しく誓ったり、約束したり、頑固に言い張ったり、細々した契約書を取り交わさねばならないかも知れません。騙したり騙されたりしないためには。けれど主イエスを信じて生きる私たちは、そうでなくてもよく、もっともっと素朴で単純であって良いと勧められています。「はい、その通り」「いいえ違います」と、ただそれだけ答えれば十分だと。それこそが、誤りを正し、適切な取り扱いをするための最善のやり方であると。ああ、だからこそ最後の食事の席で挫折とつまずきを予告されて、「たとえ皆の者があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。あなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26:33-35)などと弟子たちがと口々に言い張りはじめたとき、あの彼らは! 自分の分際を越えて正しさを主張し、罪と悪に引き込まれようとしていたのでした。復活した主イエスから「私を愛するか。愛するか、愛するか」(ヨハネ21:15-19)と三度も重ねて問われたときもまた、ペテロは「主など知らない」と三度も主との関係を否定したことを思い起こして心をひどく痛めました。むしろ、だからその時こそ、「はい、そのとおりです」「はい、そうです」「いいえ違います、違います」だけで十分でした。それ以上に出ることは、ただの思い上がりであり、傲慢でした。
むしろ私たちは、今日こそ、生きて働いておられる神の御もとへと立ち返りましょう。なぜ、誓ってはならないと告げられたのか。「この私が ~をちゃんと成し遂げますから」と、なぜ言い張ってはならないのか。主なる神さまこそが私たちのための救いを約束し、誓い、誓った約束をご自身が成し遂げてくださるからです。例えば、救いの約束のそのしるしを見せてほしいとアブラハムが要求したとき、二つに引き裂いたささげものの間を通ったのは神さまだけでした。神は、アブラハムに裂いたささげものの間を通るようにとは命じませんでした。約束を破ったら、二つに裂かれたささげもののようにされても構わないという誓いだったからです。神ご自身だけが裂かれたものの間を通った(創世記15:7-21)。また例えば、ヤコブに対して救いを約束なさった時にも、「私はあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、決してあなたを見捨てず、あなたに語ったことを私は行う」と主なる神は誓ってくださった。「私は ~する。必ず行う。きっと約束を私は果たす」と仰るばかりで、「だからあなたも ~せよ」などとは一言も仰らずに(創世記28:13-15)。だからこそ、私たちが語るべき言葉は、「はい、そのとおりです」「はい、そうです」「いいえ違います、違います」だけで十分です。神さまの御心への信頼、信じて聞き従うこと。その信仰もまた神様こそが贈り与え、成長させ、成し遂げてくださる。当てにならない私であり、あなたであると知って、もし、神さまの御前に膝を屈めることができるなら、そのときこそ、神さまをこそ当てにし、神をこそ頼みの綱として、私たちもまた生きることをし始めるでしょう。
【礼拝後の改稿】語り終えた日曜の夕方、ぜひとも語る必要があったのに言いそびれていた一点に気づきました。以下――
「一切、誓ってはならない」と主イエスから命じられています。けれど主イエスの福音全体からは、「しかも! 誓ってもいい」と言い添えねばなりません。例えば結婚式での新郎・新婦の誓い、例えば牧師・長老・執事など主に仕える働き人の任職式での誓約。そして、もちろん『洗礼を受けるときの私たちクリスチャンの誓い』。それらすべてに共通する、はっきりした一つの本質があります。
神さまの御前に立って生きる者らの、神に向かう誓いだからです。「夫(妻)としての道を尽くし、常にこの人を愛し、これを敬い、これを慰め、これを助けて変わることなく、その健やかなときも、その病むときも、この人に対して堅く節操を守ることを誓いますか」と新郎・新婦らは誓います。「あなたがこの職につくのは、教会のかしらであり、また大牧者である主イエス・キリストの召命によるものと確信しますか。その恵みによって召された召しにかなって歩もうと決意しますか」などと問われ、主に仕える働き人らは誓います。「あなたは今後、神の民とされ、主の聖餐にあずかる者とされますが、これを重んじ、喜び、忠実に守ることを誓約しますか。主の日の礼拝を重んじ、主の体の肢々としてふさわしく生活することを誓約しますか」と、洗礼を受けてクリスチャンになろうとする決断した者たちは誓います。けれど、それらすべての中身と生命は、実は、『誓約』という形をとった『神さまへの切なる願い』です。『誓約』でありつつ、それを豊かに超え出て『神さまへと向かう祈り』なのです。その証拠に、誓約の直後につづけて、当人らも含めてそこに集った者ら一同はこう祈ります;「めぐみ深い父よ、感謝をいたします。どうか彼らを祝福し、聖霊をその上に豊かに注いでください。どうか、主の体なる教会の一員として、つねに、頭なるキリストのうちに留まり、キリストに向かって成長することをゆるされ、み国のための善き戦いをつづけ、終わりの日に至るまで、主とその教会に対して愛を保ち、感謝の奉仕をささげることができるようにしてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン」。
「一切、誓ってはならない」。けれどもし誓う場合には、それが『神さまへと向かう願い。祈り』であることを決して忘れてはならない。主である神こそが私共のためにも誓い、その憐れみの誓いをご自身の御手と真実をもって成し遂げてくださる。以上です。
祈り求めましょう。