2015年10月19日月曜日

10/18「復習してはならない!」マタイ5:38-42,ローマ12:16-21

                                       みことば/2015,10,18(主日礼拝)  29
◎礼拝説教 マタイ福音書 5:38-42,ローマ手紙12:16-21    
日本キリスト教会 上田教会
『復讐してはならない』 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

5:38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。39 しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。40 あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。41 もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。42 求める者には与え、借りようとする者を断るな。           (マタイ福音書 5:38-42)

 
どうぞ聴いてください。
38節。まず、昔から教えられてきたという「目には目を。歯には歯を」。この規則は、旧約聖書(21:23-25,レビ24:19-20,申命19:21)ばかりでなく、古代オリエント世界の「ハムラビ法典」にも登場します。「目には目を。歯には歯を」は残酷な復讐を勧めているのではなく、むしろ逆で、裁判が公正であることを求めています。それぞれの被害に応じた罰や弁償が支払われるべきこと、それ以上を求めてはいけないと刑罰の範囲を限定しようとしています。例えば創世記4章の後半に、レメクというとても傲慢な思い上がった人物が登場します。「誰かが私にちょっとした傷を負わせるなら、それだけで私はその相手を殺す。どこかの若者が私に小さな打ち傷を負わせても、私はその若者も殺してしまう。なぜなら、私こそが他人の何倍もとても重要な人物なのだから。カインのための復讐が7倍なら、私のための復讐は77倍だ。わっはっは」(創世記4:23-24参照)と、大きな権力を握る支配者でもあるらしい彼はうそぶきます。なんと思い上がった人間でしょうか。それに比べると、この「誰に対しても、自分がされたことと同じだけの復讐。それ以上はダメ」というルールは、残虐で野蛮というよりもむしろ、とても公正で慎み深い。
  39-42節。「悪人にも善人に対しても一切、手向かってはいけない。されるままにし、求められるなら何でもそのとおりに与えなさい」と主イエスは仰る。むずかしいことが語られていますが、まず1つ整理しておかねばなりません。個人的復讐や仇討ち、仕返し、恨みや憎しみを乗り越えて生きることが差し出されています。福音の寛大さによってこそ『神を愛し、隣人を自分自身のように愛し尊ぶ』という律法が成し遂げられてゆくと。それでもなお公正な裁判は求められねばなりません。公的な社会正義は踏みにじられてはなりません。そのことをどうでもいいとするわけではないのです。私たち自身も、キリストの教会もこの国全体としても、正しいことは正しい、間違っていることは間違っているとする私たち、教会、国家、裁判所とすべての「公けに立てられた者たち」と人々でありたいのです。ですから例えば、十字架にかかる前夜、大祭司の中庭で、大祭司からの取り調べを受けて主イエスが答えていたとき、受け答えが気に入らなかった下役人の一人が「大祭司にむかって、そのような答をするのか」と言って、平手でイエスを打った。イエスは答えられた、「もしわたしが何か悪いことを言ったのなら、その悪い理由を言いなさい。しかし、正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」(ヨハネ福音書18:22-23)。公的権力の横暴と不当なあり方に対して、はっきり抗議をなさっている。例えば主イエスの弟子が牢獄に囚われていたとき、「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも、あなたの家族も救われます」と告げて牢獄の看守と家族に洗礼を授けたあの夜の次の朝のこと、町の長官たちは事が表沙汰になるのを恐れて彼らをこっそり釈放しようとしたとき、主の弟子たちは抗議し、こっそり釈放されることを断りました、「彼らは、ローマ人であるわれわれを、裁判にかけもせずに、公衆の前でむち打ったあげく、獄に入れてしまった。しかるに今になって、ひそかに、われわれを出そうとするのか。それは、いけない。彼ら自身がここにきて、われわれを連れ出すべきである」(使徒16:37)。主イエスに従って生きる私共も、まったく同じです。下役人だろうか、上の上の、ずっと上のほうの官僚にも、権力者や最高裁判所裁判官や検察庁にも総理大臣にも、「もしわたしが何か悪いことを言ったのなら、その悪い理由を言いなさい。しかし、正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」と必要なだけ、精一杯に抗議をし、抵抗しつづけます。主の御心にかなって生きるためには。また例えば、主イエスの弟子二人が神殿の境内の入口で物乞いと出会ったとき、物乞いはお金を貰えるものと期待しました。お金や食べ物などではなく、その貧しい人も私たちも同じく最も必要としているものを、弟子たちは差し出しました。「わたしたちを見なさい。金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。手を取って起され、足とくるぶしとが立ちどころに強くなって、あの彼は踊りあがって立ち、歩き出しました。歩き回ったり踊ったりして神さまを讃美しながら、彼らと共に神殿に入って行きました(使徒3:4-8)
  「悪人に手向かうな」(39);これに対する最も適切な解釈は、聖書自身による解釈です。ローマ手紙 12:16-21

「互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである。むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい」。

「高ぶった思いを抱かずに。自分が知者だと思い上がってはならない」と、まず戒められました。兄弟同士や家族や隣人、また夫婦の間でも、争いといがみ合いの出発点はそれぞれに高ぶった思いを抱いてしまうことでした。そこから健全な関係が壊れていきました。つづいて、微妙な塩梅(あんばい=ちょうど良い味加減、サジ加減、バランス。かつては料理に使える調味料は色々は無かった。おもに塩と梅酢を用いた)で福音の道理へと導かれます。「誰に対しても悪に悪を報いず、善をなせ」ではなく「善を図れ。できればそうしたいと願いなさい」と。また、「すべての人と平和に過ごしなさい」ではなく、「できる限りでいいですが、なるべくなら……」と。そうそう心優しく忍耐深く、思いやり深く寛大になど出来ない私たちだと、神さまは百も承知で、腹の思いの奥深くまですっかり見抜かれています。それで、「~図れ。できればそうしたいと願いなさい」「できる限りでいいですが、なるべくなら……」と。復讐心や憎しみや妬みをついつい抱えてしまう私たちです。そのために誰か他の人々を傷つけるだけではなく、自分自身の心がどんどん澱んでいって、損なわれていきます。それで、神さまによって愛されている者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである。ついつい抱えもってしまった復讐心や憎しみや妬みを、なんと神さまが肩代わりをしてくださるというのです。ゴミ処理係のように、粗大ゴミ回収業者のように。その復讐心や憎しみや妬みや怒りの感情こそが、あなた自身を傷つけ、おとしめる。だから手放し、私に任せなさいと。末尾21節の「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」は、少し分かりにくい言い方ですね。飢えていたら食べさせ、その敵対者の喉が渇いていたら、おいしい水を飲ませてあげなさい。親切にしてあげなさいというのです。すると、「彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになる」。燃えさかる炭火は「聖霊なる神のお働き」を言い表すときの比喩的な言い方です(「聖霊と火によって洗礼を授ける」マタイ3:11,「舌のようなもの。炎のように~聖霊に満たされ」使徒2:3-4)。意地悪をしたのに、なぜ親切を返されたのか、何だろう何だろうと奇妙に思うことから、神ご自身の導きを受けてその人も神を信じる人になるかも知れません。それが、その人の頭に積まれた『燃えさかる炭火』です。
  マタイ5章に戻ります。40節「あなたを訴えて~」。借金に関する訴訟です。ここで、その相手に「下着ばかりでなく上着も与えよ」は、度を越した譲歩です。行き過ぎた、あまりに不合理な譲歩であり、憐れみ深さです。ユダヤ人の多くはとても貧乏でした。下着は何枚か持っていても上着は一枚しか持っていない貧乏人も多かった。そして夜は凍え死ぬほどにとても冷え込む独特な気候風土です。質草としてその貧乏人の上着を取り上げても、日が沈む前には返してやれと命じられました。未亡人からも上着を取り上げてはならない。なぜなら、その一枚の上着がなければ寒くて寒くて凍え死んでしまうからです。で、その「上着さえ与えよ」。貧乏人にとって一枚のなけなしの上着とは、決して奪い取られてはならない、生きてゆくための必要最低限の権利です。それをさえ明け渡してもいいと勧められます。自分の命と生きる権利さえ「はい、どうぞ」と相手に差し出そうとしている、どこにもありえないほどの徹底した、あまりに愚かなの自己放棄です。41節「1マイル行かせようとするなら2マイル行け」。ユダヤは当時、ローマ帝国の植民地でした。ローマ人には被占領国であるユダヤの人々に強制的に無理矢理に労働を強いる権利がありました。必要な場合には、占領者・支配者であるローマ人はユダヤ人の誰にでも、無理矢理に食事や、宿、馬や馬車などを提供させ、荷物を運ばせる権利があったし、ユダヤ人にはそれに従う義務が課せられました。通りすがりのクレネ人シモンが主イエスの十字架を無理に担がされたのも(マタイ27:32)、同じ事情です。42節「求める者に与え、借りようとする者を断るな」。自分は豊かに安楽に暮らしながら、目の前の他人の困窮や必要に目をつぶっていてよいのか、と問われています。「世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。それによって、わたしたちが真理から出たものであることがわかる。そして、神のみまえに心を安んじていよう」(ヨハネ手紙(1)3:17-19)

        ◇

  さて、ここまで読んできて何が理解できたでしょうか? 「下着ばかりか上着まで差し出せ」と命じられたとき、それは自分の最低限の権利や生命さえ差し出すに等しい、あまりに理不尽で不合理すぎる要求でした。はっとして、思い出すことがありました。また同様に、「右の頬を打たれたら左の頬も」と命じられて、そんなことをしているクリスチャンなどただの一人も会ったことがないなどと、正直なところ呆れ果てました。ただの、気高い倫理が語られていたのではありません。キリストの教会とクリスチャンのあるべき理想像が高らかに歌われていたわけではありません。絵空事の理想像を教会と私たちの間に持ち込んではいけないと、口を酸っぱくして語り続けます。「キリストの教会。一人一人の、生身のクリスチャン。それは罪人の集団にすぎない」;このことをよくよく覚えておきましょう、と。つい先々週も、キリストの教会とクリスチャンについての2種類の両極端の、とんでもない誤解がキリストの福音を歪ませつづけていると報告しました。1つは、「いいんだいいんだ罪深いままで」と罪の中になお留まりつづけようとする誤解。もう1つは、素敵な理想像を教会とクリスチャンに無理矢理にあてはめようとする誤解。しかも両方共が、聖書と神さまご自身をそっちのけにしています。『クリスチャン、キリストの教会。罪人の集団にすぎない』;それを、よくよく分かっている必要があります。『罪をゆるされ、けれどなおまだまだ罪深い罪人』として私たちは生きる。ゆるされた後でもなお罪深い。けれどなお、「下着ばかりか上着まで、名誉も権利も尊厳も生命さえ差し出た」ただお独りの方がおられることを、私共は知っています。右の頬を打たれ、両頬どころかツバを吐きかけられ、茨の冠をかぶせられて嘲笑われ、「他人は救ったのに自分は救えないのか。十字架から降りてこい。それを見たら信じてやろう」と侮られ、鞭打たれ、生命を取られてくださった、ただお独りの方、救い主イエス・キリストがおられたことを知っています。この後歌います讃美歌204番はこう歌いました;「私たちが驚いたり、誉めたたえたりする偉大な業績や働きは世の中に山ほどある。見比べ合って、誉めたりけなしあったり、自惚れたりひがんだりして暮らす私たちだ。それでもなお、神の独り子イエス・キリストが私たち罪人を救うために生命を贈り与えてくださった、その愛には遠く及ばない」(讃美歌2042節の現代語訳)。ああ本当だ、本当だ。だからこそ、ここには薄暗い約束事や慣習やしきたり、作法、体裁、一般常識、細々した四角四面のルールもすっかり消え果てて、神さまの恵みと真理こそが真昼のように、朝も昼も晩も明るく照り輝いている(同讃美歌、4節を参照)
 安心し、期待して、祈り求めましょう。