2015年9月13日日曜日

9/13こども説教「怒りんぼうで薄情で偉そうな、とても悪い召使いめ!」マタイ18:21-35

 9/13 ◎こども説教 マタイ福音書18:21-35           
 『怒りんぼうで薄情で偉そうな、
 とても悪い召使いめ    牧師 かねだせいじ


18:21 そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。22 イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。23 それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。24 決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。25 しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。26 そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。27 僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。28 その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。29 そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。30 しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。31 その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。32 そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。33 わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。34 そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。35 あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。       (マタイ福音書18:21-35)

  「仏の顔も三度まで」と言いました。いくら大人しくて優しい心の人でも、ひどいことを度々されれば怒ることがあるっていうんですね。だから3回もガマンしてあげたら、かなり優しい心の人だということになります。「何回くらい許してあげたらいいですか?」と弟子の1人が質問しました。主イエスは「770倍、つまり490回」とお答えになりました。数えきれませんね。何度でも何度でも、どこまででも、ず~っと許してあげなさい、という意味です。
  23節から、主イエスがたとえ話で説明してくださいました。たとえ話の中の「王様」は誰のこと? 神さまですね。じゃあ、「王様のしもべ」は? 私たち皆のことです。1人の男は王様に対して莫大な借金がありました。1万タラントは、およそ20万年分の年収6000日分の賃金×10,000÷300日。1人当たり40年くらい働けるとして、だいたい5000人分の生涯の労働賃金。アブラハムからキリストまでの系図(マタイ1:1-17参照)14代×351人分の、およそ50往復弱の借金です。返済などとうてい出来ません。自分自身も妻も子供たちも爺さん婆さんも一家揃って身売りして奴隷になり、家も土地も持ち物全部も売り払っても、それでも全然足りません。「どうか待ってください。待ってください待ってください」としきりに願い、すると王様は、少し待つどころか、借金をすべて丸ごと帳消しにしてくれたのです。何の交換条件もなく、ただただ彼を可哀そうに思ったからでした。ゆるされたその男は晴れ晴れとした気持ちで王様のもとから下がり、町の通りに出て、自分に借金をしている1人の友人に出会いました。ゆるされたその男は、自分に対するわずかな借金20万年分の労働賃金に対して、100日分の賃金)をゆるしませんでした。捕まえて首をしめ、「借金を返せ」。友人もまた彼に、「どうか待ってくれ。待ってくれ待ってくれ」としきりに願いました。あの時の彼とそっくり同じに。男は承知しませんでした。無理矢理に引っ張ってゆき、謝金を返すまではと牢獄に閉じ込めました。王はその男を呼び戻して厳しく叱りつけます。「怒りんぼうで薄情で偉そうな、とても悪い召使いめ お前が頼んだし、あんまり可哀そうだったから、借金を全部丸ごとすっかり帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を可哀そうに思ってやったように、お前も自分の仲間を、ほんの少しくらいは可哀そうに思ってやるべきではなかったのか」。
  ぼくもあなたも皆が、この召使いとだいたい同じでした。いいえ、もっと悪かった。山ほどの借金をゆるしてもらいました。ゆるしてもらえた理由は、ただただ王様がかわいそうに思ってくださったからでした。あなたも他の人からひどい目にあったことがあるんでしょう。意地悪されたり、冷たくされたり、邪魔者にされたり悪口言われたり。他人の欠点や貧しさは、まるで手に取るように、よく見えます。「なんて身勝手な、思いやりのない人だなあ」と私たちは他人の振りを見て渋~い顔をします。「そんなことがよく平気でできるものだ。どういう神経をしているんだろう」と呆れます。その一方で、自分がどんなふうに人を扱っているか、人に対して何をしているのかは、私たちはあまり気づきません。可哀そうに思っていただいて、20万年分の借金を丸ごとすっかり帳消しにしていただいたことを、あなたもすっかり忘れていましたね。それで 私たちは度々この男と同じことをし続けています。とても怒りんぼうで薄情で偉そうな、すごく悪い召使いに成り下がりました。そういう私たちに対して、神さまが腹を立てたり、心をとても痛めたり、ガッカリし続けています。ああ残念。ああ惜しい。可哀そうに思っていただいたことと、山ほどの借金をすっかり丸ごとゆるしていただいていることを思い出せさえすれば、そうしたら ものすご~く悪い召使にならずにいられたのに。

 とりなしの祈り
 天と地のすべて一切をお造りになった主なる神さま。造られたすべてのものが産みの苦しみを味わい、呻きつづけています。茨木、栃木、宮城県に及ぶ大雨災害で、今回もまた多くの人々の生命が奪われ、行方不明となり、住む家と地域を壊されました。4年半前の東日本震災からの復興もまだまだ滞っていますし、原子力発電所事故もまだまだ収束できませんし、その見込みもメドも立っていません。神さま、どうか私たちを憐れんでください。復旧には多くの困難があります。救助と復興支援にたずさわる人々、福祉と医療にたずさわる人々を励まし、勇気と忍耐とを与え続けてください。家族や家や仕事を失った人々をどうか支えてください。私たちも、彼らの苦しみと痛みを思い、精一杯に手を差し伸べることができますように。
しかも主よ、それは私たち日本人ばかりではなく、この日本のことばかりではありません。シリア、ウクライナ、コンゴ、ソマリア、中央アフリカなどの紛争地域から多くの難民が逃れて、生き延びるために心細い旅をしつづけています。逃げ延びる危険な旅の途中で、さらに多くの人々が生命を失いつづけます。その彼らに、世界各国が手を差し伸べようとしています。私たちもほんの少し目を上げ、ほんの少し視野を広げて、自分たちの同胞や家族のことばかりではなく、彼らのためにも手を差し伸べ、温かく迎え入れ、住む家と国を失った人々が安心して安全に暮らせるように、毎日の食べ物や着る物や住む家があるように、生命を脅かされずに眠ることができるように、明日への希望をもって生きることができるように、避難してくる人々と日本で暮らす外国人労働者とその家族を迎え入れる公正で思いやり深い心を、この私たちにも贈り与えてください。自分の家族や同胞ではなくても、肌の色や言葉や人種が違っても、自分たちとはほんの少し違う主義主張の人々であってもなお、その彼らを自分自身のように愛し尊ぶことができるようにさせてください。そのようにして彼らもまた、主なる神さまをほめたたえることができるようにさせてください。
  主イエスのお名前によって祈ります。アーメン