◎こども説教 マタイ7:7-12 2015,8,2
『求めよ! 捜せ! 門を叩け!』 牧師 かねだせいじ
7:7 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。8
すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。9 あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。10
魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。11 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。12
だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。 (マタイ福音書7:7-12)
「ちょうだい」と手を差し出して求めなさい。そうすれば貰える。「どこにあるかなあ」と捜しなさい。そうしたら、あなたは自分が捜しているものをきっと見つける。「開けてちょうだい。コンコンコンコン」とドアをノックしなさい。そうしたら、ちゃんと開けてもらえる。求める者は、それを貰って受け取る。捜す者は、自分が捜しているものをきっと見つける。「開けてちょうだい。コンコンコンコン」とドアをノックする者は、ちゃんと開けてもらえる。だれでも必ずそうしてもらえる。聖書に書いてあるとおりですし、とても分かりやすい。子供には、「ああ本当、本当」とすぐに分かります。けれど、大きな大人や70歳80歳90歳くらいのお年寄りには、ほんの少~し難しいかも知れません。ですから、ていねいに説明しましょう――
1
一番大切なことは、「ちょうだい」と手を差し出している相手は天におられる父なる神さまだということです。あなたが捜しているものを持っているのは神さまだ、ということです。「開けてちょうだい。コンコンコンコン」とドアをノックしている、そのドアの向こう側でニコニコしながら待ち構えているのは、天におられる私たちの父なる神さまだということです。
2 どういう神さまだったのかを、あなたはよ~く知っていましたね、ってことです。その神さまは親切で、心優しくて、あなたにも私にも良いものをぜひ贈り与えてあげたいとニコニコして、ワクワクしながら待ち構えていてくださるってことです。
3 それでも、神さまがいくら親切で心優しくて、ぜひ良いものを贈り与えてあげたいと願ってくださっているとしても、ちっとも欲しいと思っていない人にはあげられない。もしあげても、「わあ嬉しいなあ」と受け取れないし、喜ぶこともできないからです。「なんだ。こんなもの」と、迷惑そうにポイとゴミ箱に投げ捨ててしまうかも知れません。だから、欲しいなあと思って手を差し出した人しか貰えません。たとえすぐ目の前に置いてあっても、「欲しいなあ」と捜した人しか目に入りません。ドアに鍵なんかかけてありませんでしたよ。それでも、中に入れてもらいたくて楽しみにして、「開けてちょうだい。コンコン」とドアをノックしてみる人だけが、「いらっしゃい。待ってましたよ」とドアを開けてもらって、中に入ることができます。本当です。
4 その証拠に、「必死に求めなさい」とか、「しつこく一ヶ月でも半年でも何年も何年も、本気になって全力投球で捜しつづけなさい」とか、「そんなノックの仕方じゃダメ。生ぬるい。血がにじむまで、指の骨が折れて整形外科に通院したり、痛み止めの薬を朝昼晩と飲まなけりゃならないほど、ガンガンガンガンとドアをノックしなさい」などとはほんの一言も書いてありません。ね。「書いてあることを書いてあるままに素直に読む」とは、そういうことです。しかも私たちは、『どんな神さまなのか』をよく知っています。
5 9-11節。子供の父さん母さんたちも、だいたいは同じようにしていたでしょと思い出させています。自分の子供を愛して、欲しがっている良いものをなんとかして与えてくれようとしたはずです。ときどき薄情な気持ちや意地悪な気持ちになって、あるいは何となくイライラして、冷たくしてしまうこともありました。ごめんなさいね。でも、だいたいは、良いものをあげようと精一杯に努力してくれたはずです。私たちの天の父なる神さまは、それより千倍も万倍も良いお父さんなので、私たちに良いものをくださらないはずがない。
6 最後、12節のところは、少しだけ分かりにくい。「律法であり預言者だ」とは旧約聖書を呼ぶときのあだ名です。つまり聖書のことだし、神さまの御心はそういうことですよと言っています。あなたがしてほしいことは何? 親切にしてもらったり、悪いことをしてもゆるしてもらったり、助けてもらったり良いものを貰ったり。あなたも、神さまからたっぷりと良いものを貰ってきたでしょ。そしたら、同じように良いものをあげることができます。「ああ嬉しい。この人も、親切な心温かい人間に少しずつなってきた。ずいぶん優しくしてあげてきたけど、その甲斐があったなあ」と神さまも喜んでくださいます。では、あなた自身は、神さまに喜んでもらえることが好きですか? あなたに対して、神さまが心を痛めてガッカリなさるとき、どんな気持ちがしますか?悲しくなる? それとも別に何とも感じない?
(* 説明項目「3」「4」が同意しづらいかも。読み手の側に、それぞれ先入観があるからです。同じたとえ話を報告するルカ福音書11:9-13も同じ心ですが、その5-8節で「諦めず執拗に。しきりに」とあるため、9節以下も同じかと誤解しやすい。けれど違う! 鍵は、「親心」)