みことば/2015,8,16(主日礼拝) № 20
◎礼拝説教 マタイ福音書 5:1-10 日本キリスト教会 上田教会
『心の貧しさ』 ~幸いである理由.1~
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)
(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。3
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。 (マタイ福音書 5:1-4)
この5章から7章の終わりまでは、『山上の説教』と呼ばれ慣れ親しまれてきた長い長いひと続きの、救い主イエスご自身による説教です。少しずつ区切りながら味わいっていきます。主イエスの教えの具体的な中身はここから始まりますが、その出発点は、4章17節です。「イエスは教えを宣べはじめて言われた『悔い改めよ、天国は近づいた』」。悔い改めは、腹の思いと在り方・考え方の大転換であり、グルリと180度、神さまへと向き直ることです。自分や周りの人間たちのことばかりああでもないこうでもないと思い煩いつづけ、「私は私は。今までこうやってきた」などと古い自分にしがみつき続けることを止め、その頑固さを投げ捨てることです。また、神ご自身のお働きと御心がどのような心なのかが、ここからいよいよ明らかにされていきます。
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主イエスは山に登り、座りました。弟子たちがそば近くに近寄り、主イエスと彼らを取り囲んで、おびただしい数の群衆も耳を傾け、目を凝らしています。弟子たちと、そして大勢の群衆に向かって、主イエスは教えはじめます。特に冒頭の、この3-10節はなんだか謎めいていて、分かりにくい。読んでスラスラ分かりましたか? なぜ、彼らは幸いなのか。どこがどう幸いなのか。「天国は彼らのもの」「慰められる」「地を受け継ぐ」「飽き足りる」「憐れみを受ける」「神を見る」「神の子と呼ばれる」とは何なのか。また、どうしてそうなのか。神さまから良い贈り物を受け取る善良で高潔な人々が列挙されている、かのように見えます。が、ただし最初の二つのグループ;「心の貧しい人たち」「悲しんでいる人たち」(3-4節)だけが灰色です。それが果たして良い性質なのか悪い在り方なのか、どっちでもないのか。何か価値があるのかどうかも分かりません。けれど、その後に並べられる「柔和な人たち」「義に飢え乾いている人たち」「憐れみ深い人たち」「心の清い人たち」「平和を造り出す人たち」「義のために迫害されてきた人たち」はまるでいかにも皆、清らかで心優しく、正義と平和を求める善人たちである、かのように見える。すると、もし仮に、その方向性で全体を読み取ろうとするならば、すっかり辻褄があって都合がいい。だから、「心の貧しい人たち」は何か素直な謙遜さをもつ、へりくだった人たちだろう。「悲しんでいる人たち」も、理不尽な扱いを受けて悲しむ高潔で心優しく思いやり深い人々に違いない。すると1-12節の全体としても、『清らかで心優しく正義と平和を求める善人たちが、憐れみ深く正しい神さまから良い贈り物を受け取る』ことになる。とても分かりやすくて、道理にもかなっていて、都合がいいじゃないかと。
5-10節に列挙されている高潔で素敵そうに見える人々の姿が本当にキリスト教会であり、私たちクリスチャンの実態でしょうか。それらの善人に幸いを贈り与えることが、神さまの、この世界と私たちに対する取り扱いでしょうか。ところで、この私たち自身は柔和でしょうか? 私たちはかなり憐れみ深いほうですか。……いいえ、違いますね。「まったく違う!」;ここから始めるのでなければ、すっかり読み間違えてしまいます。だって誰でも、自分自身を振り返ってみればすぐに分かります。この私たちは決して柔和ではなかった。心がとても頑固で、了見が狭く、意固地でした。今でもそうです。私たちは憐れみ深いでしょうか。この私たちは、他人の二倍も三倍も格別に心が清いでしょうか。平和を精一杯に造り出そうとして、日夜奮闘しつづけてきたでしょうか。神さまご自身の義に飢え乾いて、そのために迫害されてきましたのか。むしろ、正しさや正義や公平を求める小さな人々を迫害したり、押しのけたりして来なかったでしょうか。むしろ切に願い求めたのは、もっぱら自分自身の正しさであり、世間様や人々から「この人は正しい。立派だ」と認められ、評価されることでした。それは多くの場合、隣人の正しさや神ご自身の正しさを押しのけようとする自己中心とエゴと偽善に過ぎませんでした(ローマ手紙10:1-4参照)。では、どういうことになるでしょう。それらの良い行いのおかげで、私たち自身の心の清さと正しさのおかげで、神さまから良い贈り物を受け取りつづけてきたのでしょうか。当然の報酬や分け前のようにして。いいえ違います。しかも、聖書自身から教えられ、私たちが信じてきた神さまはどういう神さまでしたか? どういう救いの道筋でしたか。 罪人を憐れんで救う神さまだったはずです。救いは、正しい者たちへの当然の支払いなどではなく、罪のゆるしであり、ただただ恵みだったはずです。救われるに値しない、愚かで頑固で、我が強すぎる者たちが、にもかかわらず憐れみを受け、救われました。だからこそ、それはただ恵みの出来事であり、ただただ憐れみでした。聞き間違いのないようにクドクドと念入りに、聖書自身がこれをはっきりと断言してきました。ダニエルは祈りました、「われわれがあなたの前に祈りをささげるのは、われわれの義によるのではなく、ただあなたの大いなる憐れみによるのです。主よ、聞いてください。主よ、ゆるしてください。主よ、み心に留めて、おこなってください」。また主の弟子パウロも証言しました、「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」(ダニエル書9:18-19,ローマ手紙3:22-24)。差別も分け隔てもなく、ただ憐れみによって、価なしに、ただ神さまの恵みによってイエス・キリストを信じる信仰によってである。これが、聖書を読むときの「イロハのイ」であり、いつもの出発点です。
では、頭のスイッチをすっかり切り替えましょう。3-10節まで全部、心が清らかで高潔で心優しい善人たちのことを言っているわけではない、かも知れない。さて今日の課題は、「心の貧しい人たち」と「悲しんでいる人たち」。この「悲しんでいる人たち」の悲しみの中身や原因・理由について、何一つ明かされていません。なにしろ、ただ悲しんでいると。『自分の側に何一つ落ち度も原因も責任もなく、ただ理不尽な仕方で不当な扱いを受け、不当に苦しみを与えられた。それで悲しんでいる』とは書いてありません。そうかもしれないし、そうではなかったかも知れない。善良な人たちだったかもしれないし、あるいは逆に、かなり身勝手で自己中心で他者を虐待したり押しのけたりする悪者だったかも知れません。どちらの場合に対しても、善人にも悪人に対しても、神さまはその人たちに慰めを差し出しつづけておられる。私たち人間のいつものモノの見方からすれば! 理不尽な神さまであり、私たちの理屈や道理に合わない神さまです。だって私たちなら、そんな慰め方はしません。私たちの考え方ややり方とはずいぶん違う神さまです。「心の貧しい人たち」こそ、ピカイチに難しい言い方です。どういう人々のことを言っているのでしょう。月一回の佐久集会では、林勵三牧師の小説教集『マタイ福音書』(一麦社)を読み味わってきました。その中で林牧師は、「貧しい心を邦訳のあるものは『乞食』と訳している。乞食といえば仕事を失って明日の食べ物にも事欠く人のこと。そういう人は物乞いをします。乞食は施しを求めてもいい」(前掲書。p90-91)。自分自身のどうしようもない貧しさを隠さず、取り繕うこともせず、その貧しく低い場所から憐れみを求め、「罪人の私を憐れんでください。憐れんでください、憐れんでください」(ルカ18:13,マルコ10:47)と神さまからの施しを請い求めている。それこそがクリスチャンの姿であると。
さて、この1-10節がなぜ、このように謎めいているのか。どうして、人間中心の道徳のようにも受け取られやすいのか。ここで中心的で決定的な役割を担うはずの神ご自身の姿になかなか光が投げかけられないからです。まるで、わざと私たちの目を眩ませているかのように。けれど、神さまへと私たちの目も心も向けさせようとしています。3節と10節で、「天国は彼らのものである」。天国、神の国、共々に遠まわしな遠慮深い言い方で、神ご自身のお働きとご支配のことです。また8,9節でも、「神を見るであろう」「神の子と呼ばれるであろう」と。神ご自身がそれをさせ、神ご自身がそれをなさる。これこそが、1-12節を貫く唯一の答えです。乞食のように物乞いのように神さまに施しを求める者たちは、神ご自身のお働きの只中に招き入れられ、その恵みのご支配の中を生きる者とされる。また、その同じ憐れみ深い神さまこそが私たちに地を受け継がせ、正義と憐れみに飽き足りるほど満たす。憐れみ深い神こそが私たちに憐れみを与え、ご自身の姿を現して下さり、神の子たる身分を贈り与えてくださる。これが答えです。
しかも兄弟たち。私たち自身について、先程質問いたしました。私たちは柔和でしょうか? 神さまご自身の義に飢え乾いて、そのために迫害されてきましたか。この私たちは憐れみ深いですか。この私たちは、人の二倍も三倍も格別に心が清いですか。平和を造り出してきましたかと。また、自分自身のどうしようもない貧しさを隠さず、取り繕うこともせず、その貧しく低い場所から憐れみを求め、「罪人の私を憐れんでください。憐れんでください、憐れんでください」(ルカ18:13,マルコ10:47)と神さまからの施しを請い求めたのかどうか。いいえ、そういう人々も中には何人か混じっていたかも知れません。けれど私たちの大多数は、必ずしもそうでもありませんでした。それでもなお、私たちは憐れみを受け、神ご自身のお働きの只中に招き入れられ、その恵みのご支配の中を生きる者とされました。なんということでしょう。悲しむことは、それぞれにしてきました。けれど、悲しみを味わったおかげで慰めの神さまの御もとへと私たちが招き入れられたのかというと、どうでしょうか。そういう人もいたでしょう。そうではなかった多くの人々もいました。悲しみは二種類ある、と聖書は証言します。私たちを神さまへと向かわせる悲しみと、そうではない悲しみと。「たとい、あの手紙であなたがたを悲しませたとしても、わたしはそれを悔いていない。あの手紙がしばらくの間ではあるが、あなたがたを悲しませたのを見て悔いたとしても、今は喜んでいる。それは、あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めるに至ったからである。あなたがたがそのように悲しんだのは、神のみこころに添うたことであって、わたしたちからはなんの損害も受けなかったのである。神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる」(コリント手紙(2)7:8-10)。悲しみや嘆き、失望、落胆、苦しみ、それらのものがその人を神さまへと向かわせる場合がありました。けれど逆に、神さまからいっそう離れ去らせ、背を向けさせることもあったのです。それでもなお、どうしたわけか、この私たちはここにいます。驚くべきことが、神さまご自身の手で成し遂げられました。私たちは、心の貧しい幸いな人とは正反対でした。貧しさを隠し、見栄と虚勢を張り、自惚れて体裁を取り繕っていました。思い上がって、ずいぶん傲慢でもありました。どこに真実があるのかも知りませんでした。立ち帰るべきところがどこにあるのかも知らず、さまよっていました。心はしばしば頑固になりました。了見が狭く、意固地でした。今でも、まだまだそうです。神さまご自身の義に飢え乾いて、そのために迫害されてきたのか。いいえむしろ、正しさや正義や公平を求める小さな人々を迫害したり、押しのけていました。私たちは憐れみ深いでしょうか。この私たちは、他人の二倍も三倍も格別に心が清いでしょうか。平和を造り出そうとしてきたでしょうか。そうではありませんでした。まったく違いました。にもかかわらず、そうでありますのに、どうしたわけか私たちは神さまを見、神さまご自身からの親しい語りかけを聞きつづけました。神の子としていただきました。「信仰のない、あまりに不信仰な私を憐れんでください」と、神さまからの施しを請い求めることも、あまりしませんでした。それなのに、神ご自身のお働きの只中に招き入れられ、その恵みのご支配の中を生きる者とされました。もともと怒りの子らであった私たちに、憐れみ深い神こそが憐れみを与え、ご自身の姿を現して下さり、神の子たる身分を贈り与えてくださいました(エペソ2:3,ガラテヤ4:5,ローマ8:15)。私たちの側に恵みを受け取る準備が整っていたのではなかった。にもかかわらず神さまの側で、恵みを施し与える準備が整っていました。憐れみ深い神さまは、あなたのためにもこの私のためにも救いを施そうとして準備万端でありつづけました。
本当に、なんという恵み、なんという驚きでしょう。