2015年8月10日月曜日

8/2 「天の国は近づいた」マタイ4:12-17

 みことば/2015,8,2(主日礼拝)  18
◎礼拝説教 マタイ福音書 4:12-17         日本キリスト教会 上田教会
『天の国は近づいた』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)

  ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


4:12 さて、イエスはヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤへ退かれた。13 そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海べの町カペナウムに行って住まわれた。14 これは預言者イザヤによって言われた言が、成就するためである。15 「ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ、16 暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。17 この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。 (マタイ福音書 4:12-17)



  12節。洗礼者ヨハネがヘロデ王に捕らえられ、その働きの場所から退いていきました。ヨハネは、私たちが救い主イエス・キリストを迎え入れ、このお独りの方を信じて生きはじめるための道備えをしました。洗礼者ヨハネの退場と入れ替わりのようにして、ここからいよいよ、救い主イエスご自身が本格的に働きはじめます。旧約聖書(イザヤ書9:1-2)は、やがて来る救い主の登場を預言していました。15-16節;「ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ、暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。その約束どおりに、主イエスはガリラヤ地方の湖のほとりで教えを宣べ伝えはじめます。とくに、暗黒の中に住んでいる民、死の地、死の陰に住んでいる人々が大いなる光を見たのですし、その彼らのためにこそ光が昇ったのです。その闇、死の土地と死の陰は、その時代状況としての闇であり、死の陰でもあります。また、私たち自身が根深く抱えもってしまった罪と悲惨の事柄でもあります。そこにこそ、格別な光が射し込みました。だからこそ今日でも、死の陰の谷に暮らすこの私たちのためにも、まったく同じことが起こります。
  まず、救い主イエスの先駆けの使者である洗礼者ヨハネが「悔い改めよ、天国は近づいた。悔い改めにふさわしい実を結べ」と呼ばわり、悔い改めの洗礼を授けました(3:1-2,8,11)。続いて、救い主イエスご自身が同じく、(4:17)「悔い改めよ、天国は近づいた」と。さらに主イエスの弟子たちも同じく、(使徒2:38-39)「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマ(=洗礼.せんれい)を受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」。この通りの教えをキリストの教会は宣べ伝えてきました。これからもそうです。さて、「悔い改めよ、天国は近づいた」とは、いったいどういうことなのか。まず『天の国。神の国』についてお話します。もう充分に分かっているという人たちのためにも、まだまだあまり分かっていないという人々のためにも、やはり天の国について話しましょう。聖書の神を信じる人々は、とくに神さまに対しては深く慎む人々だったのです。神さまの名前を簡単にみだりに直接に言い表すことを差し控え、口も心も慎みました。「みだりに主の名を唱えてはならない」(出エジプト記20:7)と指導されてきたからです。だから、しばしば遠まわしな間接的な言い方を用いました。「天の国。神の国。主の御使い。神の指先」などと。けれどそれは、国や領土や使いや指先のことではなく、むしろ、そういう言い方によって神さまご自身、神さまのご支配、神さま自身のお働きをこそ言い表そうとしたのです。例えば上田、塩田平、小諸、佐久、千曲市周辺のそれぞれの住民が安心して、希望を持って暮らしていけるためには、市議会と市役所職員が十分な心構えと見識をもって、誠実に職務に取り組んでいる必要がありました。そのためには、十分な県知事・市長・町長らが立てられて、各方面にちゃんと目を光らせ、手綱を十分に握っていることが大事でした。例えばこの国の国民11人が安心して晴々としていきてゆけるかどうか。それは、役人たちも政府も内閣総理大臣も、自分たちの分を弁えて深く慎みながら精一杯に働き、その国の政府が国民の幸いを願って誠実に仕事をしていることが肝心要です。つまりは神の国があり、その国の領土があり、そこに暮らす人々が安心して晴々と生きてゆくことができるかどうか。それは、その国の王さまがどんな王さまなのか、なにを考え、どんなふうに心を配り、その手腕を存分に精一杯にふるってくださるのかどうか。それこそが肝心要です。神の国が近づいた。つまり、神ご自身が近づいて来て、その力とお働きを私たちの生活領域に強く及ぼしてくださるということ。神の独り子であり神ご自身であるお方が私たちの救い主イエス・キリストがこの世界に、私たちの生活の只中へと降りてきてくださった。これが天の国が近づいたことの現実的な中身です。だから、あなたは悔い改めて、あなたの在り方と腹の思いの全部を180度グルリと神へと向け返して、今日こそ主イエスの福音を信じなさい。信じて生きることをしはじめなさい。あの救い主イエス・キリストは何を語り、どう願い、この私たちのためにも何を成し遂げてくださったのかと目を凝らしましょう。
  闇は深まり、死の土地、死の陰の谷は領土を拡大し、その勢いを強めています。世俗化の波に、キリストの教会も激しく襲われ続けています。教会の世俗化とは、キリストに聴き従うことを私たちがすっかり止めてしまうことです。神さまに信頼を寄せ、神さまの御心を第一として、そこに心から服従して生きようとすることを捨て去ってしまうことです。そこから、キリスト教会の衰弱が始まり、私たちはますます衰え弱っていこうとしています。まただからこそ、キリストの教会は「悔い改めよ。あなたは悔い改めて、あなたの在り方と腹の思いの全部を180度グルリと神へと向け返して、今日こそ主イエスの福音を信じなさい。信じて生きることをしはじめなさい」と語りつづけます。まず自分自身の魂に向けてです。やがて、この後しばらくして、主イエスの弟子たちは町々村々へと遣わされていきました。「天国が近づいたと宣べ伝えよ」「悔い改めさせるために宣教した」(マタイ10:7,マルコ6:12)。主イエスの福音を伝え、イエスの弟子とする。神の国を宣べ伝える。あるいは、いつも私たちが言っているように、『伝道する』と言い換えてもよいでしょう。なぜ、それをするのか。なんのためか。その理由とその目的とが、ここで、聞き間違えのないようにはっきりと告げ知らされました。悔い改めさせるために、と。初めに、救い主イエスご自身が仰っていました。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信ぜよ」と。また、「罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう」と。罪深い、あまりに自己中心の身勝手な者であっても、なおその1人の人が神へと立ち返って生きるならば、それをこそ大喜びに喜んでくださる神さまです(マルコ1:15,ルカ15:7,10,24,32,エゼキエル18:23,31-32)『悔い改める』。それは、心の在り方や生き方そのものの方向転換です。180度、グルリと向きを変えること。目の前の楽しいことや嫌なこと、嬉しいことや辛いこと、自分がやりたいことややりたくないこと、してほしいこと、ほしくないことなど心を奪われ、一喜一憂して生きてきた者たちが、自分自身の腹の思いと人間のことばかりに目を奪われていた者たちが、180度グルリと向きを変え、さまへと思いを向け返して生きること。そのために、この私たち1人1人も主イエスの弟子とされました。
  とても物分りがいい神さまの姿が、あちこちで物語られつづけています。あまりに優しくて、耳障りも口当たりもいい神。「いいんだよいいんだよ。罪深くてあまりに頑固で強すぎて身勝手なあなただけれど、そのままですっかり愛している。だから、ず~っと罪深くてあまりに頑固で強すぎるままでいていいんだからね」。どうなんですか? もし本当に神さまがそう仰っているとしたら、それで嬉しいですか。もちろん、罪深くて頑固で強すぎる、あまりに身勝手なままで招かれました。そのままの自分で、すでに受け入れられている。その通りです。けれど愛する神さまは私たちに「いいよいいよ。どうでもいいよ」とは決して仰らない。罪をゆるす神さまは、私たちを罪の中から救い出して、もう罪の奴隷になったり言いなりにされない私としてくださる、はずでした。罪のゆるしは罪からの解放です。罪と悲惨さの只中から、「とても広々した場所へ連れ出して、憩わせてくださる」(讃美歌122節を参照)こと。人間にはそれは難しい。その通り。だから神さまご自身が、あなたのためにもこの私のためにもそれを成し遂げてくださる。必ず、きっと。

 ローマ手紙6章を、あなたは読んだことがあるでしょ。もしないなら、大急ぎで、今晩から読み始めましょう。クリスチャンになった最初の日から死ぬまでつづく『生涯の生活設計』(412日,礼拝説教を参照)がそこにあります。こう書かれています。ローマ手紙6:3-11;「それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマ(=洗礼.せんれい)を受けた私たちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、私たちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、私たちもまた、新しいいのちに生きるためである。もし私たちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。私たちは、この事を知っている。私たちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、私たちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。……このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである」。罪の奴隷とされつづけて人生を無駄遣いしつづけてやがて死に至るか。それとも、神さまの御心に従順に仕え、神さまからのの義と生命に辿り着く道を歩むのか。いいえ、どちらの道を歩むのかを、私たちはすでにはっきりと選び取り、その一本道を着々と歩みつづけているあなたであり、私です。「善かつ忠実なしもべよ。よくやった。主イエスを信じて歩み通した、おめでとう」とやがてお誉めにあずかるはずのあなたであり、私です。だから嫌だ嫌だとそっぽを向いていないで、あなたも認めなさい。そうするのが当然であるし、強情を張って拒んでいた強すぎるあなたでさえも、「キリスト・イエスにあって神に生きる私である」と認めることができるから。「はい、分かりました」。じゃあ今日こそ、はっきりと認めて、私たちは腹に据えましょう。私たちのための救いがすでに決定的にはじまっています。私たちは罪から救い出されたし、これからも救い出されつづける。古い罪の自分と死に別れ、それを葬り去っていただき、一日また一日と新しい自分に生きはじめている私たちです。あなたもこの私も。神さまの御前で、その御心に従うことをこそ心から願って生きる私たちです。

 「悔い改めよ、天の国は近づいた」と呼ばわりながら、主イエスの弟子たちは町や村へと遣わされつづけます。あるいは、それぞれの家庭と家族の只中へ、いつもの職場へ、町内とご近所さんたちの間に。これまでもそうでした。今も、これからも同じです。神の御前で、神さまに向かって生きる者たちが、その活動の中で1人また1人と生み出されていきます。悔い改めさせるための宣教。神さまに背を向けて生きていた者たちがグルリと180度向きを変えて、神さまに向かって、神さまの御前に据え置かれて、そこで精一杯に生きはじめる。その、まったく新しい『方向転換』は、いつどこで、誰から始まるでしょう。例えばあなたの夫や、あなたの息子たち娘たち、孫たちは、大切な友人たちやあなた自身は、いつ、どこで、どんなふうに方向転換し始め、神さまからの祝福と幸いを受け取りはじめるでしょうか。――主なる神さまへと本気になって思いを向け返すあなたを、そのあなたを まざまざと見たときに。悩みや辛さの只中で、「けれど私の願い通りではなく、あなたの御心のままになさってください」と願い求める1人のクリスチャンの生き様にふれたときに。そのようにして、神さまへと向かうあなた自身やこの私を見たときに。ついさっき聞いたばかりです、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」(マタイ7:7-8


 ◎とりなしの祈り
 イエス・キリストの父なる神さま。神さまの御心によくよく信頼を寄せ、素直に聴き従って生きる私たちにならせてください。自分自身ではとても難しいですが、あなたにはできます。そのことを、私たちにも今日こそ信じさせてください。へりくだった、低くてやわらかい心と聞き分ける耳を、この私たちにもぜひ贈り与えてください。あなたに聴き従うより他人に聴き従ってしまう臆病さとズルさを、また、「私は正しい、正しい」と言い張る頑固さを、私たちから取り除いてください。自分の考えややり方に相手を無理矢理にも従わせようとするとき、その自分勝手さを、自分で恥ずかしく思えますように。
 なぜなら神さま。闇が世界を覆い、死の陰の土地に私たちは住んでいるからです。この国はわがままで無責任な、とても悪い国になろうとしています。自分たちさえよければ、力づくて他の人たちを押しのけていいと思い込み、自分たちと違う考え方やあり方に心を開き、耳を傾けることが難しくなりました。おびただしい数の人々が置き去りにされ、片隅に押しのけられ、排除されつづけています。70年前とそっくり同じに。とても恥かしいことです。困りました。ですからまず私たちこそが ただ自分自身と家族のことばかりではなく、隣人を心から愛し、尊ぶ者とならせてください。どうか今日こそ、自分自身を愛する以上に、その千倍も万倍も、神さまの御心をこそ尊ぶ者たちとならせてください。神さまの十分なご支配(=国)とその正しいお働きをこそ願い求め、あなたの慈しみの御心にこそ従って生きる私たちであらせてください。手を差し伸べて、心細く暮らす隣人たちを助け、支え、その1人1人の幸いな暮らしを願い求めて生きる私たちにならせてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン




◎付録/上田駅前アピール (731日、夕方)

♪ この国をゥ歩けば、原発が54基ィ。教科書もCMも言ってたよ「安全ですゥ」。俺たちを騙して、言い訳は「想定外」。なつかしいあの空、くすぐったい黒い雨~。
 ずっと嘘だったんだぜェ、やっぱバレてしまったな。ほんと嘘だったんだぜ。原子力は安全です。ずっと嘘だったんだぜ、ホーレン草喰いてえなあ。ほんと嘘だったんだぜ。気づいてたろう、この事態。風に舞う放射能はもう止められな~い。何人が被爆すれば気がついてくれるの? この国の政府。()

 こんにちは。大手町1丁目の上田教会の牧師、金田です。
 斉藤和義があの替え歌をユーチューブ上に公開したのが201147日でした。あれから4年4ヶ月たちました。彼のあの替え歌は衝撃でした。鳥肌が立ち、心が震えました。今もそうです。しかも斉藤和義の前には忌野キヨシロウがいて、「♪原子力は余っている。要らねえ、もう要らねえ」()と歌いつづけていました。その前にも、またその前にも誰かがいたし、やがて力尽きて倒れる僕らの後にも必ずきっと誰かがつづきます。バトンが次々に手渡されていき、生命のリレーがつながれていきます。この国が好き放題に戦争をする国になっていいはずないからです。若者たちや子供たちの生命を使い捨ての便利な道具にして、アメリカ合衆国と一緒になってやりたい放題にどこへでも出かけていって武力行使していいはずないからです。意味もなく、あなたたちや、その子供や孫たちが、鉄砲担いで出かけていって、殺したり殺されたりして生命を粗末にしていいわけないからです。「もったいないもったいない」って、それが美しい国の文化だって宣伝してたじゃないですか。それらの、何の意味もなく、ただただ無駄に使い捨てにされる生命は、もったいなくはないんですか。父さん母さんも爺さん婆さんもそれで大喜びに喜びますか。「天皇陛下ばんざーい」って晴れ晴れして、ニコニコして死んでいきなさいよと、ご家庭でも学校でも、もう一度、嘘っぱちのデタラメを教育しはじめるんですか。そんなことをしていいんですか。ここに集まってプラカードを掲げ、声をあげる爺さん婆さんたちが皆すっかり死に絶えて、誰も彼もが1人残らず退場していったとしてもなお、それで十分です。十分に希望が残っています。70年前には、「竹槍をもって最後の1人までも戦う」とこの国の当時の政府は宣言していました。それは嘘っぱちのデタラメでした。けれど、今度は本当です。プラカードをもって、鉛筆1本を振りかざして、自分が今できること、すべきことをします。じゃあ、「戦争させるな、わっしょいわっしょい」ってやりましょうか――

I  SAY  わっしょいわっしょい。YOU SAY わっしょいわっしょい。ご唱和よろしくお願いいたします)
 わっしょいわっしょい、  わっしょいわっしょいわっしょいわっしょい わっしょいわっしょい、わっしょいわっしょい、がんばっていきまっしょい、わっしょいわっしょい、がんばっていきまっしょい 憲法守れ 憲法守れ 勝手に決めんな 勝手に決めんな強行するな 強行するな       
 ()斉藤和義「♪ずっと嘘だった」                           ()忌野キヨシロウ「♪サマータイム・ブルース」