2015年8月10日月曜日

7/19 「私を支えるどうか」(荒れ野の誘惑2)マタイ4:1-7

 みことば/2015,7,19(主日礼拝)  16
◎礼拝説教 マタイ福音書 4:5-7                日本キリスト教会 上田教会
『私を支えるかどうか?』  
 
             ~荒野の誘惑.2~     牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)
                        (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
4:5 それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて6 言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。7 イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。 (マタイ福音書 4:5-7)








救い主イエスは荒野を4040夜さまよい、悪魔から誘惑を受けました。その二番目の誘惑です。5-7節。あの彼は私たちの救い主をエルサレムの聖なる都に連れて行き、その神殿の頂上に立たせて、そそのかします。「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛び降りてごらんなさい。『あなたの足が石に打ちつけられないように、御使いたちはあなたを手で支えるであろう』と聖書にちゃんと書いてありますから」(6節参照,詩91:11-12)。なるほど。確かに、もしそのとおりになれば、主イエスが神から送られた正真正銘の救い主であると公けに証明できたことになる。もし神殿の庭に見物人たちが大勢いたら、みな拍手喝采して救い主を誉めたたえる。テレビやインターネットで生中継でもされたら、世界中の人々がいっぺんにこの方を信じて、キリスト教の黄金時代が到来するでしょう。
  どうぞ考えてみてください。例えば、あるとき洗礼式が執り行われ、一人のキリスト者がそこに誕生します。その人のための祝福と幸いは、どんなものでしょうか。また、すでに洗礼を受けてキリスト者とされている私たちのための祝福と幸いは、どんなものだったでしょう。「おめでとう。これからは災いや困難が何一つなく、苦しむことも辛い思いをすることも一切ない」と言いたい。けれど、軽はずみにそんなことは言えません。だって、神さまから祝福された幸いなそのクリスチャンでさえ重い病気にかかることがあるかも知れません。交通事故にあい、信頼していた友人から騙されて数千万円もむしり取られるかも知れません。陰口をきかれたり、仲間はずれにされたり、家に泥棒が入り、うっかりして財布を落とすかも知れません。やがて年老いて衰え、弱り、物忘れもひどくなって誰でもみな、あっという間に死んでゆくのです。では、信仰をもって生きることに、私たちは何を期待できるでしょう。この聖書の神は、私たちに何をしてくださるのでしょう。ところで、人間にそれぞれ値段がつけられて店先で売られるようになってから、長い長い歳月がたちました。八百屋の大根や白菜のように、高級で上等な300円くらいの人間。150円の中くらいの値段の人間。一山幾らの安い値段の人間たちと。ずいぶん前から、資本主義の競争社会のやり方と俗っぽいモノの見方や考え方が、この世界をすっかり覆い尽くしています。あろうことか、キリストの教会の中でもクリスチャンたちの間でさえ、例外ではないらしいのです。それは冷徹で非常な、弱肉強食の論理によって成り立っています。八百屋の大根や白菜のような労働者たちはその働きを半年毎に細かく評価・査定されてボーナスと給料が上がったり下がったりし、よく働く役に立つ者はよい地位につき、昇進し、働きの悪いあまり役に立たない者は窓際に追いやられ、クビにされていきました。『会社と国家』の普通のやり方です。だってその会社も国家自体も、良い成績をあげ売り上げを伸ばす強くて良い会社や国家は生き残り、そうでない会社や国家は敗れ去っていったのですから。その仕組みの中では、『会社や国家が私を支えるかどうか』と問う者は誰もいなくて、もっぱら『私が会社と国家を支えるかどうか。お前は、会社や国家にとってどれくらいお役に立つ有益な人材か。お前の値段はいくらくらいか』とだけ問われつづけました。それが、数百年あるいは数千年つづいているこの世界の基本ルールです。うっかりすると教会の中でさえ「あの役に立つ、お偉くて御立派な方々は250円。この人は120円くらい。それに比べて私なんかは65円」などと。皆さんはどうでしょうか? もしかしたら「どうせ私なんか。惨めでつまらない、あわれな私」と朝から晩まで口癖のようにつぶやいていないでしょうか。よく観察してみると、この『どうせ私なんか』という劣等感と『私こそは』という自尊心は実は10円玉の裏と表のように一組です。つまらない惨めな私と劣等感に悩んでいるあなたは、同時に、すごく負けず嫌いで自尊心も人一倍強かったのです。そこから抜け出すことは出来ます。肩の荷を降ろして晴れ晴れ広々とすることができます。あなたがもし、そうしたいと望むなら。劣等感と自尊心を、その両方をいっぺんに捨てちゃうのです。後生大事に抱えてきたそれは、昼間の明るい光のもとでつくづくと眺めるなら、そんなに素敵なものではありません。「自尊心や誇りや自信がなくて、どうやって生きていけるか。惨めじゃないか。それで、生きている甲斐があるのか?」と腹を立てる人もいるでしょう。いいえ、そんなものなくても生きてゆけます。だって、せっかくクリスチャンになったのですから。『「価なしに神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって、なんらの差別も区別もなく義とされ」たので、その当然の結果として 人のそれぞれのつまらない値札と薄汚れた誇りは取り除かれた。それが信仰の法則だ、これこそ私たちの信仰の中身だ』と、ローマ人への手紙 3:21以下は証言します。どうです。心にポッカリ穴があいて、広々した場所が出来たでしょう。『私が~を支えるか。私が~を担えるか。私が~を持ち運べるか』という荷物が無くなった場所に、『神さまがこの私を担ってくださる。神さまが私を支える。神こそがこの私をきっと必ず持ち運んでくださる』と。『この私が働いて、私こそが世間様と皆様のお役に立って、この私こそがよくよく背負って』というかえって邪魔なだけの余計な荷物が無くなった空っぽの場所に、『神さまこそが生きて働き、神さまが私を最後の最後まで背負いとおしてくださる。神さまこそが、飛びっきりの良い贈り物を与えてくださり、この私は受け取って、感謝し、大喜びに喜ぶ』と、神さまの恵みをそこに据え置きましょう。
 洗礼のことを語りつづけてきました。クリスチャンになったからといって、生活が大きく変わるわけではありません。昨日まで付き合ってきた同じ人々と今日からも同じく付き合い、同じ場所に今日も私たちはいるでしょう。兄弟姉妹たち。私たちの信仰と、信仰をもって生きる私たちの日々について、よくよく知っていていただきたいのです。それは、「天の父の御心なしには髪の毛一本もむなしく地に落ちることはない」(ハイデルベルグ信仰問答の第1問, ルカ21:16-18)という信頼。そういう人生が保障されている。天の父の御心なしには髪の毛一本もむなしく地に落ちることはない。すると、どういうことになるでしょうか? 現に、ぼくの髪もあなたの髪も白髪が混じり、頭のテッペン辺りもはげあがり、顔にシワやしみが増え、手首や肘や足腰が痛むようになってきました。階段を降りるときやちょっとした段差にも、私たちの足もとは怪しくなってきました。小さな石ころやちょっとした凸凹道にも簡単につまずくようになりました。「情けない。こんなあわれな私になって」と。けれど待ってください。何十年もクドクドと教えられ、よくよく習い覚えて腹に据えてきたはずのことを、うっかり忘れてしまったのですか。それら一切は、髪の毛一本にいたるまで『天の父の御心』の中で、その恵みとゆるしの中でこそ取り扱われているのです。髪の毛が一本また一本と地に落ちてゆくように、私たちもやがて地上の生涯をそれぞれに終えて、やがて間もなく 土に還ってゆきます。それら一切は天の父の御心の只中で、決してむなしくはなく取り扱われる。それが、私たちのための約束。その約束を信じ、そこに私たちは望みをおいています。だから、私たちはクリスチャンです。
 悪魔が屋根の上で引用したあの詩編の末尾は、こう告げていました;「彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう」(91:15-16)。すべてのクリスチャンたちは、この同じ約束を受け取っています。洗礼を受けた最初の日に告げられた約束も、まったく同じです。例えば、誰かの洗礼式を覚えておられますか。また、そのときに交わされた約束を。あなた自身の洗礼式の祈りを。誓約の後で『どうか、この志と決心を与えてくださった方が、これを成し遂げる力をも与えてくださるように』と皆で共々に祈りました。また、『この務めを果たすのに必要な知恵と力を主が与えてくださいますように。慰めと励ましをも与えて、その行うところをすべて祝福してください』と祈りました。主が与え、主が成し遂げ、主が祝福を与えてくださる。それをこそ、私たちは祈り求めつづけます。あなたに対しても主なる神さまご自身が、「共にいて助け、名誉を与え、満ちたらせ、救いを見せよう」と約束されていることをはっきりと腹に据えたい。一人の人間であり、一個のクリスチャンであるとは、どういうことでしょう。私たちは願い求めます、「世の中や国家のために、この私も何か少しでも良いことをしたい。この地域のため、この職場のため、この大切な家族のために、私も何かほんの少しでも良いことをし、役に立ち、その助けや支えとなりたい。このキリスト教会のためにも神さまのためにも、私に出来る何か良いことをしたい」。それはとても尊い気持ちですし、大切な考え方です。また私たちの喜びや生きがいにもなります。それでもなお、それよりも千倍も万倍も、もっと遥かに大切なことがあります。とりわけ特にクリスチャンにとって最優先の腹の据え方があり、それなしにはすべてが無駄になってしまうほどの基本中の基本の心得があります。『~していただいている。うれしい。ありがとう』という心得です。これが案外むずかしい。『自分に何が出来るか。何をすべきか』という前に、なによりまず『神さまが、この私に、いったい何をしてくださったか。これから何をしてくださるのか』と、よくよく目を凝らしたい。そうでなければ、感謝と喜びから始まったはずのものが、『~しなければならない。それなのに』という恐ろしい強迫観念に成り下がってしまうからです。あまりに簡単に、重苦しい責任や義務やただやたらに重いだけの重荷に成り下がってしまうからです。「すべて重荷を負って苦労している者は私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と招かれたその招きを嘘偽りにしてしまっていいのでしょうか。主イエスは仰いました、「私のくびきを負うて、私に学びなさい。そうすれば(マタイ11:27-30)と。どっちが契約違反で、どっちが嘘つきですか。主イエスか、それとも私たちのほうか。うっかりして主イエスのものではない、別の誰かのくびきを間違って負わされてしまったかも。主イエスに学び、主イエスにこそ聞き従うはずだったのに 別の誰彼や、自分自身の腹の思いにばかり、せっせと聞き従いつづけているのかも。それでは、やたら重いばかりの重荷を下ろせません。40年たっても5060年たっても、主イエスからの格別な休みと安らぎを受け取り損ねつづけます。
 まとめに入ります。あのとき主イエスは「主なるあなたの神を試みてはならない」(7,申命記6:16)とお答えになりました。この答えに対して、熟慮が必要です。なぜなら素直に素朴に、やすやすと主を堅く信じることのできる者など一人もいないからです。疑い深く、心が頑固な私たちです。確信を持って信じるためには、しるしが必要でした。疑い、戸惑い、主の救いの約束を虚しく聞き流そうとする者たちに対して、主はしるしを差し出し、保証を与えつづけました。士師ギデオンのためにも、疑い深いトマスのためにも、アブラハムやサラや私たち一人一人のためにも(士師6:17-40,1ヨハネ20:24-29,創世記17:17-18,18:12-15)「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と命じられ、「見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ私たち」とされました。たしかに見えにくいけれど、まったく見えないわけではなく、現に確かにあり、目で見て手でふれて、私たちのこの耳で確かに聞いてきたものを信じる者へとだんだんと変えられてきました。だからこそ私たちは落胆しません(ヨハネ20:27,コリント手紙(2)4:18)。私たちが目を注いできたもの、見えにくいけれど見えるし、現に確かにあるもの。なぞなぞのようですが答えを申し上げましょう;『あなたのためにもこの私のためにも、主なる神さまが生きて働いておられますこと』です。私たちは忘れてはなりません。あなたが何をしてもしなくても、何ができても出来なくても、他人様や世間様が認めてくれてもそうでなくても、自分の思い通りや計画どおりになってもならなくても、なにしろ慈しみ深い神さまはそんなあなたに対してさえ、飛びっきりのとても良い贈り物をくださっています。これまでもずっとそうだったし、今もこれからも。「あなたがたのうちに良い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を完成してくださるに違いないと、確信している」(ピリピ手紙1:6)。僕も同じく確信しています。あなた自身は、いかがですか?




◎とりなしの祈り

 イエス・キリストの父なる神さま。神さまの御心によくよく信頼を寄せ、素直に聴き従って生きる私たちになれますように。私たちの口から出る1つ1つの言葉によって、心の中の思いや私たちの態度や行いによっても、神さまから愛されて、良い贈り物をたくさんいただいていることが、自分自身にも周りの人たちにも、よく分かるようにさせてください。へりくだった、低くてやわらかい心と聞き分ける耳を、この私たちにもぜひ贈り与えてください。あなたに聴き従うより他人に聴き従ってしまう臆病さとズルさを、私たちから取り除いてください。自分の考えややり方に相手を無理矢理にも従わせようとするとき、その自分勝手さを、自分で恥ずかしく思えますように。
 なぜなら神さま。この国はわがままで無責任な、とても悪い国になろうとしています。自分たちさえよければ、力づくで他の人たちを押しのけていいと思い込もうとしています。70年前とそっくり同じです。政治家たちだけではなくて、お金持ちや電力会社だけではなく、ごく普通の大人たちも子供も私たちの多くが。この私自身も。とても恥かしいことです。困りました。ですからまず私たちこそが ただ自分自身と家族のことばかりではなく、隣人を心から愛し、尊ぶ者とならせてください。どうか今日こそ、自分を愛する以上に、その千倍も万倍も、神さまの御心をこそ尊ぶ者たちとならせてください。この上田教会や日本キリスト教会のことばかりではなく、ただ日本人のことばかりではなく、日本に暮らす出稼ぎの外国人労働者とその家族を大切に思わせてください。たとえ自分の家の子供でなくても、自分と同じ国の同じ民族の子供でなくたって、どの一人の子供も若者たちも、必要で十分な愛情と保護をたっぷりと受け、将来への希望と喜びをもって毎日を安心して暮らせるようにさせてください。手を差し伸べて、心細く暮らす隣人たちを助け、支え、その1人1人の幸いな暮らしを願い求めて生きる私たちにならせてください。
 主イエスのお名前によって祈ります。アーメン