2015年8月17日月曜日

8/16こども説教「飼う者のいない羊のように弱り果てて」マタイ9:35-10:4

/16こども説教 マタイ福音書9:35-10:4            2015,8,16

 『飼う者のいない
羊のように弱り果てて』  牧師 かねだせいじ


9:35 イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。36 また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。37 そして弟子たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。38 だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。   (マタイ福音書 9:35-38


 主イエスはたくさんの弟子たちの中から12人の弟子たちを特別に選び出し、その彼らを使徒として、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒す権威をお授けになりました。ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモンとイスカリオテのユダという12人です。やがてその彼らを町々村々へとお遣わしになります。
  さて、その前に、主イエスは町や村を巡り歩き、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、病気と患いを癒しました。そこで、飼う者のいない羊のように弱り果てて倒れている多くの人々をご覧になりました。その彼らを深く憐れまれました。とても可哀想で可哀想で、心が張り裂けそうにお感じになったのです。これが、神さまが私たち人間に手を差し伸べて救おうとなさることの出発点です。もう忘れてしまったかも知れませんが、ここにいるこの私たち一人一人もこの群衆のようでした。弱り果て、倒れていました。飼う者のいない羊そのものでした。私たちのその姿を神さまはご覧になりました。その私たちを憐れみ、神さまはとても可哀想に思いました。手を差し伸べ、助け起こしてくださいました。37-38節をご覧下さい。主イエスは弟子たちに言われました、「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。今でも、世界中あちこちに、弱り果て、倒れている多くの人々がいます。それは困った事態ですし、心痛む悲しむべき有様です。けれどその弱り果て、途方に暮れて、倒れている人々が、その一人一人が、神さまご自身の目にはよく熟れて実がすっかり熟した、今か今かと取り入れを待つ果物のように見えています。どうしてでしょう。憐れんでくださる救い主イエスがすでにその人々に目を留め、彼らを憐れみ、すでにその彼らに向かって手を差し伸べておられるからです。働き人を求めよと命じられましたが、そうすると、どんな働き人でもよいわけではなく、どういう働き方でもいいわけではありません。私たちの勝手ではないのです。「神さまの憐れみを伝え、差し出し、その人々に手渡し、受け取らせる働き人をこそ送り出してください」(38節参照)と収穫の主に願いなさいと主イエスはおっしゃいます。願い求めるなら、主はその願いをかなえてくださいます。あるいは、「この自分自身をその神さまの憐れみを差し出し、受け取らせる働き人にならせてください」と願い求めることもできるでしょう。弱り果て、バッタリと倒れている人たちや、今にも倒れそうになっている沢山の人々がいます。私たち自身も、度々そうなりました。どうして? どんなふうに弱り果てたり、倒れそうになったでしょうか。良い羊飼いからはぐれてしまうからです。自分自身が、主に養われる羊の群れの一匹一匹であることをうっかり忘れてしまうからです。迷子になって、羊飼いからも羊の群れからも度々遠く離れてしまったからです。そのとき、とうとう神の国はその人に近づきました。弱り果て、すっかり疲れ果てて、けれどその人は良い羊飼いのことをついにようやく思い出し、その声を聞き分け、差し出されつづけていたその憐れみを受け取って、大切にギュッと掴み取って、羊飼いのもとへと帰ってくることができるかも知れません。この自分自身が主に養われて生きる羊であることを、その人も私たち自身も、はっきりと思い起こすことができるかも知れません。そのとき、ついにあなたのためにも 天に大きな喜びがあるでしょう。しかも良い羊飼いである救い主イエス・キリストが、その迷子の弱り果てた羊を憐れんで、そのあなたを憐れに思って、探し回りつづけておられます。
(☆☆『羊飼いである神,その羊飼いに養われる羊である私たち』,23:1-4,100:1-3,イザヤ53:6,エゼキエル34:1-31,ルカ15:1-7,ヨハネ10:10-18,ペテロ手紙(1)2:21-25参照)




                                            
◎とりなしの祈り

 イエス・キリストの父なる神さま。神さまの御心によくよく信頼を寄せ、素直に聴き従って生きる私たちにならせてください。自分自身ではとても難しいですが、あなたには私たちにもさせることができます。そのことを、私たちにも今日こそ信じさせてください。
  御父よ、どうか平和を願い求め、平和を造り出し、建てあげてゆく私たちとならせてください。「平和のため」「平和貢献」などとただ美しいだけの言葉を並べ立てながら戦争を仕掛けていこうとする人々に、「それは間違っている。してはいけない」と立ち向かい、立ち塞がる勇気をこの私たちに、どうか今日こそ与えてください。なぜなら主イエスが、「私の平和をあなたがたに与える」「その平和があなたがたにあるように」と仰ったからです。罪の責任を問うことなく、私たちをゆるし、私たちを主イエスの平和の使者としてくださったからです。「神さまと和解させていただきなさい」と、この私たちのためにも何度も何度も仰ったからです。ですからまず私たち自身に、神さまとの平和を取り戻させてください。それから、私たちと身近な隣人たち、家族の一人一人と、友人たちと、学校や職場の仲間たちとの間に平和を造り出させてください。相性の悪い、付き合いづらいと内心苦手に思っている隣人たちとも、心安らかに付き合うこともできるようにさせてください。ほんのささいなことにも一つ一つ目くじらを立て、頑として言い張ったり、ついついトゲトゲしく振舞ってしまう私たちの貧しさと心の狭さを、どうか憐れんでください。主イエスからの平和を、私たちの頑固さや臆病さにこそ十分に注ぎかけてください。そのためにぜひ、へりくだった、低くてやわらかい心と聞き分ける耳を、この私たちにもぜひ贈り与えてください。そのあとで、広い世界にも私たちの目を向けさせてください。なぜなら主よ、おびただしい数の人々が置き去りにされ、片隅に押しのけられ、排除されつづけているからです。70年前とそっくり同じに。とても恥かしいことです。困りました。ですからまず私たちこそが ただ自分自身と家族のことばかりではなく、他の国や民族の隣人を、自分たちとは違う信仰や主義主張の隣人たちの在り方を尊ぶ者とならせてください。どうか今日こそ、自分の国や民族や自分自身を愛する以上に、その千倍も万倍も、他の国と他の民族を尊び、隣人を尊び、神さまの御心をこそ心を尽くし、力を尽くし、精神を尽くして愛し尊ぶ者たちとならせてください。神さまの十分なご支配(=国)とその正しいお働きに信頼し、それをこそ願い求め、あなたの慈しみの御心に従って生きる私たちであらせてください。手を差し伸べて、心細く暮らす隣人たちを助け、支え、その1人1人の幸いな暮らしを願い求めて生きる私たちにならせてください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン