2015年8月10日月曜日

7/26 「悪魔を拝むなら」(荒れ野の誘惑3)マタイ4:1-11

  みことば/2015,7,26(主日礼拝)  17
◎礼拝説教 マタイ福音書 4:8-11                日本キリスト教会 上田教会
『悪魔を拝むならば』   
~荒野の誘惑.3~     牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)
                      (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


4:8 次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて9 言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。10 するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。11 そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。 (マタイ福音書 4:8-11)










8-11節。救い主イエスが荒野で受けた三つ目の誘惑です。悪魔は、世界のすべての国々とその栄華を見せて、こう誘います。「もしあなたが、ひれ伏して私を拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」と。ところで、この世界の国々と権力と繁栄とは悪魔に任されているのでしょうか。本当に? (ブッ、ブー! なぜなら、主の祈りの末尾で繰り返し念を押され続けてきたでしょ。「(天の父よ。)国と権力と栄光は限りなくあなたのものだからです」と。日曜学校の小さな子供達でさえよく分かっているはずの、この基本中の基本が、わざと悪魔によって見落とされています)もしそうであるならば、私たちは、この世界で豊かさや喜びを手にしようとするなら、よい評判や地位をえたいと願うならば、悪魔に魂を売らなければならないことになります。あるいは妥協して、ほんの少しは、悪魔やほかの様々な大先生やお偉方たちや大小様々なボス連中のご機嫌をとったり、拝んだりひれ伏して、誰彼の言いなりにされたり、人の顔色をうかがってビクビクすることも我慢しなければならないことになりますね。そうでしょうか? そういう『親分子分、ボスと手下、支配者と奴隷の』意識や気分は、職場にも、一軒の家の中にも小・中学校の子供たちの間にも、そしてキリストの教会の現実的な営みの中にも忍び込んできます。けれど、キリストの教会よ。主イエスの弟子たちよ。ここに 小さな親分たちや小さな小さな子分たちを二度と決して作ってはいけません。誰も、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶったりいじけたり、恥じたり恥じ入らせたりしてはなりません。もちろん、あなたは今ではとても優れているし、とても強くて大きい。なかなか賢い。いろんなことを習い覚えて、たくさんのことを知っています。けれどなにしろ、コリント人への第一の手紙46節以下自身が、そっくりそのままこう語っています;「あなたをほかの者たちよりも優れた者としたのは誰です。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もし、神さまからいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして、高ぶったりいじけたりできるのですか」。例えば、「そっちは上座でオカミの場所で、お偉い方々。我々、下々の者はこっち」という一見へりくだっているように聞こえる分け隔てや区別に、僕はその都度その都度目くじらを立ててきました。「そういうモノの考え方やしきたりは止めてください」と。なぜなら、それはとても汚れた、あまりに邪悪な考え方だからです。ただ単に座席やイスを格付けするだけではなく、人間そのものを互いに格付けし、値踏みしあっています。「ご立派なお偉い方々。中くらいの者。レベルも格式も低い下々の者たち」というふうに、人を見上げたり見下げたりするのは愚かなだけでなく、あまりに俗っぽくて生臭いだけではなく、なにしろ主イエスの福音に背いているからです。神さまの御心に、はなはだしく反逆しているからです。私たちの主イエス・キリストは、「仕えられるためではなく仕えるために来た」「誰でも偉くなりたい者は皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は皆のしもべになりなさい」と仰ったではありませんか。「自分を低くして、この子供のようになる人が天の国でいちばん偉い。このような一人の子供を受け入れる者は私を受け入れている」(マタイ20:26-,18:3-)と仰ったではありませんか。他の誰でもなく、救い主イエスご自身が直々に。例えば牧師や長老や執事たちは、任職式の際に、「主イエスこそがこの務めに召してくださった」と確信するのかと問い、彼らは「はい」と答えました。だから、他の誰のためでもなく誰の考えや意見に従ってでもなく、ましてや自分の腹の虫や腹の思いや好き嫌いに従ってでもなく、ただただ主イエスの御心にかなう歩みをしようと腹を据えました。確か、そうでしたね。すると、もちろんそれは具体的な、いつもの、一つ一つの判断です。例えば、「なにしろ畏れ多くもかしこくも、うちの教会の牧師先生様がこう仰る。それで私たちは」。大間違いです。「教会員の皆様がこう言う。信仰歴何十年の大先輩たちがこう仰る。だから私は」。それも大間違い。「こうだ。これこれこういうふうに私はやりたい」とどこの誰が強く主張しても、熱心に勧めてもそうでなくても、それが主の御心にかなうことなら従う。かなわないなら、決して従ってはなりません。例えば仮に教会員のほとんど皆が「こうだ。こうしたい」と一致団結しても、それが主の御心にかなうなら従う。かなわないなら、「いいえ。違います」とたとえたった一人でもしぶとく反対し続けねばなりません。なぜ? ここは囲碁や将棋やコーラスなどの会員制のクラブや同好会などではなく、キリスト教会だからです。神さまの御心にこそ第一に従って生きるはずの、キリストの教会。しかも誰もが皆、生身の人間にすぎないからです。たとえ高潔で優れたリーダーであっても、御心にかなう正しいことを言うときもあれば、はなはだしく主に背く悪いことを好き勝手に心に思うこともしばしばあります。もちろんです。合言葉は、いつもの例の相田みつお。また練習してみましょう。321、ハイ! 『だって、ただの人間だもの』。いいですか。よくよく目を見開いて、心を鎮めて見てください。そのお偉方や大先生たちは、よ~く見ると、ただの人間であって神ではありません。なんとなくまぶしくて、後光が射しているように見えたんですか。目の錯覚ですよ。ハゲ頭が、たまたまピカピカ光っただけです。ですから、自分や誰彼がぜひしたいと思っても、主の御心にかなわないなら、それをしてはいけない。気が進まなくても渋々嫌々でも、それが御心にかなったことなら、それをすべきです。難しいことですし、苦しいことです。でも、ぜひそうありたいと願い求めて生きる価値がある。執事や牧師や長老の腹の据え方であるだけでなく、これは一個のクリスチャンの腹の据え方です。教会の中だけでなく、家に居ても学校にいても職場でも。妻のためにも夫たちのためにも、ここに来てもう三回くらい申し上げています。例えば妻は、自分の連れ合いを「主人」と呼んでもかまいません。ただ口で言うだけならば。けれど、主人としもべ、主人と召使や使用人、ではありません。主人と手下や部下、でもありません。夫や父親に何を言われても、その妻や子供たちが「はいはい。ご主人さま。ご無理ごもっとも、何でもかんでも、あなたさまの言うと~おり」と従うならば、「天に主人がおられると弁える」ことを、そのクリスチャンはもう止めてしまったのでしょうか。その目の前の主人を尊び親しんで、その分だけ、天の主人を遠ざけ、軽んじることに、あなたは決めてしまったのでしょうか(コロサイ4:1,マタイ6:24参照)。なんということでしょう。そんなことでは、あなた自身もあなたの家族も決して救われませんし、幸せにもなれません。地上のボスや目の前の気難しい主人の言いなりにされるとき、強い者や大勢の声に押し流されてゆくとき、「ここでもどこでも、やっぱり上意下達(=じょうい・かたつ。上に立てられた者の意志や命令が下位の者によく伝わり、従われること。クリスチャン以外では、いかにも道理にかなっているかのように誤解されるかも知れない。全体主義の独裁国家では特に。けれど聖書は、「天に主人がおられる」コロサイ4:1と明瞭に釘を刺す。たしかに上意ですが、生身の人間様程度の、あまりに低~い、地を這うような生臭い「上」ではなく、天にある上意 ダントツに上位の絶対者である神を見失うなら、天の主人の意志と命令とが軽んじられ、無視されるならば、そこで神の恵みは丸つぶれ、すっかり水の泡。そのとき、そこはもはやキリストの教会でさえない。よくよく心得よ)。仕方がない、仕方がない」と渋々従いつづけるとき、「天に主人がおられる」ことは片隅に押しのけられる。「二人また三人が集まるとき、私もその中にいる」という主の約束は踏みつけにされている(コロサイ4:1, マタイ18:20)
 こう書かれています;「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、食べる物、着る物、住む家など生きるに必要なものすべて一切は添えて与えられる」(マタイ6:33参照)。私たちはしばしばあまりに中途半端であり、どっちつかずであり、神さまを信じる信仰がすっかり骨抜きにされました。「なによりまず 神の国と神の義を求めよ」です。本気で語りかけられています。「ええと。私の面子と体面と体裁と、好き嫌いと腹の虫と、そのいくつか後で20番目か30番目くらいに神の国と神の義かな」。いいえ それでは、求めてることになりません。全然求めていません。そうではなく最優先の緊急課題として、「なによりまず神の国と神の義を求めよ」と。文字通り額面通りに、本気で聴き従うに値します。数週間前の礼拝説教で、「何番目くらいに神さまに信頼していますか?」(『石をパンに~』7/12,礼拝説教)と失礼なことを質問しました。同じことです。「なによりまず」と命じられたのなら、「なによりまず。他すべて一切を差し置いて」という意味です。頭でも心でも、ちゃんと十分に分かりますか? 自分の腹にもよくよく据えて、命じられたとおり「なによりまず」となっているかどうか、朝昼晩と自分の腹を覗いて確かめてみましょう。違ってたら一大事、神さまを信じるあなたの信仰の生き死にがかかっていますから。さて、『ほか一切は添えて与えられる』;例えば、皿の上の肉やハンバーグの脇に添えてある人参やポテトフライのように。また例えば、焼き魚の脇に添えてある大根おろしのように。なにしろ私たちの天の御父は、これらのものが皆私たちに必要なことをよくよく知っていてくださり、ぜひ与えたいと願い、備えていてくださるのですから。例えば子供たちや孫たちは、今の社会がとても不安定な危うい土台の上に築かれていることを見て取って、それで、がむしゃらに必死に受験勉強に励んでいるでしょうか。学歴や成績の優秀さやさまざまな能力、特技、取り柄こそが自分を最後のところで支えてくれることを期待して、それで、不安に思いながら恐れながら、励んでいるのでしょうか。例えば年老いたものたちは、だんだんと目がかすみ、足腰が弱り、体力が衰えてゆくことを嘆き恐れているでしょうか。体の弱い人々は、「よい医者とよい薬さえあれば」と心配そうにあたりを見回しているでしょうか。あるいは私たち自身は? 実は、同じ一つのことが問われています。この私たち自身は、いったい何を支えとして、なにを頼みの綱として、日々を心強く生きることが出来るだろうか。いったい何があれば十分だろうか、と。
 『喉もと過ぐれば熱さを忘るる』と昔の人は言いました。辛かったことや苦しかったことをすぐに忘れてしまうだけではなく、喜びも感謝も驚きも、私たちはすぐに簡単に忘れてしまうのです。申命記8:17-18、「あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである」。この戒めの言葉は、聖書の信仰に生きる人々のお茶の間の食卓テーブルの祈りとされました。私たちも、これを自分の家の茶の間のいつもの食卓テーブルに置きたいものです。冷蔵庫のドアにも貼っておきたい。せっかく主なる神さまを信じて生きることを積み重ねてきた私たちです。あれから何年たちましたか? 5年、10年、405060年。じゃあ準備運動はもう十分です。今日からは、本気になって心底から、主なる神さまを信じて生き始めましょう。十分な食事をして満ち足りたときに、主を思いたい。お茶を飲んで、暖かい家でくつろいでいるときに、そこで何としてでも主をこそ思いたい。毎月の給料がいつも通りに通帳に振り込まれているのを見たとき、そこで主を思いたい。家族がいつものように平穏に安心して暮らしているのを眺めて、そこで、主なる神さまを思いたい。苦しむとき、悩みの日々にはなおさらです。だからこそ、主イエスは仰った;「あなたの神である主を拝み、ただ主にこそ仕えよ」(マタイ4:11,申命記6:13,10:20)。拝むことも仕えることも、それは第一に礼拝を意味しました。しかも、拝むことは『それを頼みの綱とする』ことです。主に仕えることも、主を拝むことも、一回の祈りから始まり、一回の礼拝から、ここから始まります。主に仕え、主を頼みの綱とする生活は月曜日から土曜日まで、自由に、のびやかに広がってゆくでしょう。いつでも誰と一緒のときにも、どこで何をしているときにも何もしていなくたって、そこでそのようにして 主に仕えて生きる私たちです。見なさい。あなたにも、天に主人がおられます(コロサイ手紙3:22-4:1)



【付録】上田駅前アピール 724()

 こんにちは。大手町1丁目の上田教会の牧師、金田です。さて、一緒に集会しているおばさんの1人が「シールズって知ってる。ね、知ってる。見たことある。シールズシールズ(*)、見てみて」って盛んに繰り返していました。若い学生たちの政治活動だからです。それはNHKでも民放各局TVでも大手新聞でも、ほとんど取り上げられない動きだからです。彼らだけじゃなくて、国会議事堂前でおじさんおばさんお爺さんお婆さんたちの大きな抗議活動が毎日毎日つづけられていることも、沖縄での切羽詰った必死な基地反対運動も、日本本土のTVでも新聞でもほとんど取り上げられません。だから知ってる少しの人たちは知ってるし、知らないほとんどの人たちは知らないままです。でも、パソコンとか携帯とか使ってるんでしょ。シールズ、なんだっけ、SEAか、ええと、つづりが分からんなあと思いながら、カタカナで「シールズ」って検索したら出ました。簡単便利だあ。これなら、中学高校生はもちろん、小学生の高学年くらいから、彼らの活動のナマの姿や声を動画で見ることができます。「シールズは悪者だ。ひどい暴力組織だ」って記事も出てました。本当かな? 自分の目で見て、自分の耳で聞いて、それであの彼らや、ここに集まったお爺さんお婆さんたちが、僕らが本当のことを言っているのか、それとも嘘やデタラメを言っているのか、誰でも自分で判断できますよ。
 例えば、TV朝日の報道ステーションで元官僚の古賀なんとかさん()が何を必死に語りかけていたのか、どうしてその番組をクビにされたのかもユーチューブの動画で誰でも簡単に確かめることができます。クビにされた3月27日の最後の番組で、古賀なんとかさんはマハトマ・ガンジーの言葉を引用して視聴者に別れを告げました。こういうのです;「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」。ここに毎週毎週集まっているおじさんおばさん、お爺さんお婆さんたちはいつもどんな気持ちなんだろ。がっかりしたり、はらわたが煮えくり返ったり、惨めな心細い気持ちになったり、すっかり心が折れて諦めてしまいそうになったりしながら、それでもここに立って声をあげ、プラカードを掲げています。どうして? ほんの少しの小さな小さな希望があるからです。自分はしなくちゃいけないと、はっきり知っているからです。そういえば 明日から上田はお祭りで「わっしょいわっしょい」と賑やかにやります。とても素敵で、元気が出ます。嬉しい気持ちになりますね。同じようにして、ここでぼくらも「わっしょいわっしょい」と、元気な明るい声をあげることもできます。もしかしたら未来を切り開くことも、できるかもしれません。じゃあ、「戦争させるな、わっしょいわっしょい」って、やってみましょうか――

I  SAY  わっしょいわっしょい。YOU SAY わっしょいわっしょい。ご唱和、よろしくお願いいたします)
♪ わっしょいわっしょい、  ――――
わっしょいわっしょい、――――
わっしょいわっしょい、がんばっていきまっしょい、――――
憲法守れ ――― 勝手に決めんな―― 強行するな―― 子供を守れ―――  平和を守れ―――  憲法守れ――― 集団的自衛権はいらない  ―――      集団的自衛権はいらない  ―――戦争反対  戦争反対   ―――   戦争反対、反対、反対、絶対反対  ――――
わっしょいわっしょい、  ――――――――
わっしょいわっしょい、――――
わっしょいわっしょい、
がんばっていきまっしょい、 ――――
  (*)SEALDs(シールズ:Students Emergency Action
for Liberal Democracy - s
;自由で民主的な日本を守るための、学生による緊急行動。
  ()古賀茂明「国家の暴走」,鈴木哲夫「安倍政権のメディア支配」など。