2015年8月30日日曜日

8/30こども説教「主人の食卓の下の子犬として」マタイ15:21-28

 ◎こども説教 マタイ福音書 15:21-28       
 『主人の食卓の下の子犬として』           


15:21 さて、イエスはそこを出て、ツロとシドンとの地方へ行かれた。22  すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。23 しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。24 するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。25 しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。26 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。27 すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。28 そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。
(マタイ福音書 15:21-28)

  外国人の一人の女性が主イエスのところへやってきました。その娘が病気でとても苦しんでいて、主イエスに何としてでも助けていただきたいと願ったからです。もちろん救い主イエスは、その女性の願いをかなえてあげました。実はこの箇所も、間違って受け止めてしまいやすい、少し難しい箇所です――
 1.まず、主イエスの冷たい、とても意地悪そうに見える態度。初めには知ら~んぷりして、一言も答えません。次に、「私はイスラエルの家の失われた羊以外の者には遣わされていない。外国人のお前なんか助けてやるものか、シッシッ」と追い払おうとするような態度。そしてなお諦めずに食い下がってくるこの女性に、「子供たちのパンを子犬に投げてやるのはよくない」。なんて意地悪なんでしょう。親切心や憐れみのかけらもない。虫の居所が悪くて、ちょうど意地悪気分だったのでしょうか。いいえ、そうではありません。しつこく熱心に求められたので、根負けして、はじめは助けてあげないつもりだったのに、この女性のひたむきさや一途さに打たれて、考えを変えさせられたのでしょうか。いいえ、最初から助けてあげるつもりでした。少し前に外国人の兵隊の隊長の部下を助けてあげたことがありましたね。墓場につながれていた外国人の男を助けてあげたことも、井戸の脇で外国人の女性を信仰に導いてあげたこともありました(マタイ8:5-,8:28-,ヨハネ4:1-)。元々ユダヤ人のためだけの救いではなく、世界全部の人と生き物のための神さまであり、祝福でありつづけます。救い主自身が最初からちゃんと分かっていました。では、なぜ? ただ娘の病気を治してあげるだけではなく、彼女に主イエスを信じる信仰を贈り与えてあげようとしています。そのために 「主人の食卓の下の子犬である私も、食卓からこぼれたパン屑をいただきます」というへりくだった低い心を彼女の心に呼び起こそうとしています。
2.だからこそ、最後に、この女性のへりくだった低い心を見て、主イエスは大喜びに喜んでいます。ただ28節、「あなたの信仰は見上げたものである」は誤解されやすい言い方。こう言われたからといって、この外国人の女性やその信仰を誰も見上げたり、祭り上げたり、誉めたたえたりしてはいけません。拝んだり見上げたりしていい相手は、ただ神さまだけ。素敵で立派で正しいのも神さまだけです。またお互い同士で、「あなたは大きくて素敵な信仰ね。私のは小さくて粗末で」「いえいえ、あなたこそご立派よお」「いえいえ」「あらあら」などと人間同士で見上げたり見下したり、崇めたり誉めたり、足を引っ張りあいつづけるのもあまりに俗っぽくって、見当違い。しかもその度毎に、神さまの恵がすっかり水の泡です。ともかく、「主人の食卓の下の子犬である私も、食卓からこぼれたパン屑をいただきます」というへりくだった低い心を、主イエスが彼女の内に呼び起こしてくださり、それを大喜びに喜んだ。「よし。それでいい」と。むしろ最初から主イエスは主導権を握って、彼女をこの『主人の食卓の下の子犬』の場所へとグイグイと導いていきます。へりくだった低い心の、この幸いな場所へと。イエスの母マリヤも、「この卑しい女をさえ神さまが御心にかけてくださった」と喜びました。ひきつけを起こす息子を癒していただいた父親も「もし出来れば、というのか」と追い詰められて、「信じます。不信仰なわたしをお助けください」(ルカ1:48,マルコ9:23参照)主人の食卓の下の哀れな子犬たちよ、信じようとしてなかなか信じきれないあまりに不信仰な者たちよ。恵みに値しない犬っころとして、主人の食卓の下に集まりなさい。あまりに不信仰な父親として身を屈めなさい。神さまの憐れみのパン屑を、ご一緒にいただきましょう。憐れみ深い神さまと出会って、その神さまから憐れみを受け取るのは、いつもこのへりくだった低い場所(ローマ11:30-32,ペテロ(1)2:10,コリント(1)1:26-31)。いつもの待ち合わせ場所です。