◎こども説教 マタイ8:5-13
2015,8,10
『私も権威のもとにある!』 牧師 かねだせいじ
8:5 さて、イエスがカペナウムに帰ってこられたとき、ある百卒長がみもとにきて訴えて言った、6
「主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています」。7 イエスは彼に、「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われた。8 そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。9
わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。10
イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。11 なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、12
この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。13 それからイエスは百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた。
(マタイ福音書
8:5-13)
そのころ、ユダヤの国はローマ帝国の植民地にされていました。徴税人が人々から憎まれていたのもバカにされていたのも、その集めた税金がローマ帝国のために使われるからだったし、嫌々渋々に税金を収めさせられていたユダヤ人たちは、本当はローマ帝国やその皇帝を憎んだりバカにしたかった。それができなかったので、その代わりに徴税人を憎んだり、バカにしたり除け者にしたりしました。八つ当たりですね。で、人々から嫌われ見下された徴税人たちや、ローマ帝国の、外国人である軍人の中からも主イエスを信じる人々が一人また一人と起こされていきます。そもそもの最初から、主イエスは、ユダヤ人のためだけの救い主ではなく、この世界のすべての生き物たちのための救い主なのです。主イエスのもとにやってきた「百卒長」は大きな責任を持たせられた、まあまあ偉いほうの軍人です。どれくらい偉いかというと、この名前のとおりに、100人の兵隊に指図する隊長です。その上に、1000人の兵隊に指図する隊長や10000人、100000人の兵隊を指図する隊長などもいますけどね。
そんなことよりも、この百卒長の願いを聞いてその手下の一人の兵隊の病気を主イエスは治してあげました。そのとき、10節、「これほどの信仰を見たことがない」と主イエスは仰いました。ですから、何がどれほどなのか、どういうところが百卒長の信仰の良いところなのかと目を凝らしましょう。9節です。「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕(しもべ=手下、部下)に『これをせよ』と言えば、してくれる」。百卒長とこの部下の兵隊たちとの間柄は、神さまと私たちクリスチャンとの間柄とよく似たところがあります。兵隊が隊長に信頼して、「はい分かりました」と聴き従うように、私たちクリスチャンも神さまに信頼して、「はい分かりました」と聴き従うのです。それが神さまを信じて生きることの祝福だし、幸いの中身である(=神さまへの従順と信頼。ローマ手紙1:5,5:9,16:26,ピリピ手紙2:8)。さて、この箇所全体で最も大切なことは、主イエスが百卒長の信仰を喜びながら、同時に、この私たちを見つめていること。私たちの、いつもの信仰の有様に目を留めておられますことです。10-12節で、主イエスが百卒長のこの信仰の姿を、「これほどの信仰は見たことがない」とまで仰って非常に喜んだこと。多くの人が東から西から来て天国で救われた者たちのお祝いの席に着くが、この国の子らは闇に追い出され、がっかりしたり泣いたりするだろうと。神さまの心が分かりますか? 神さまに信頼して生きるはずのクリスチャンが、「はい分かりました」と神さまに聴き従う。ごく普通の、当たり前のはずのことなのに、このごろ滅多にそういう姿をみたことがない。ぜひ見たいのになあ、と。一人の外国人にあるべき信仰の姿を見て喜びながら、同時に主イエスは、そうではない、信仰のあるべき喜ばしい姿から遠く離れてしまったクリスチャンたちのために、この私たちのためにも悲しみ嘆いています。あの彼のように、この私たちも、神さまに十分に信頼し、また「はい分かりましたア」と神さまに聴き従う者たちにならせていただきたいものです。