2015年8月10日月曜日

7/12 「石をパンに変えよ」(荒れ野の誘惑1)マタイ4:1-4

  みことば/2015,7,12(主日礼拝)  15
◎礼拝説教 マタイ福音書 4:1-4                 日本キリスト教会 上田教会
『石をパンに変えてみせろ』   

~荒野の誘惑.1~        牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)
       
 (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


4:1 さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。2 そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。3 すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。4 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。  (マタイ福音書 4:1-4)




 ヨルダン川で洗礼をお受けになった後、主イエスは荒野を4040夜さまよい歩き、疲れ果て、空腹にもなり、そこで悪魔から誘惑をお受けになりました。主イエスに対して、「あなたは私の愛する子」(3:22)と、まず父なる神ご自身からの証言が鳴り響きました。つづいて直ちに、それをあざ笑うかのように悪魔が問いかけます;「もし、あなたが本当に神の子であるなら」(3,6)と。このとき、そこに悪魔と主イエスしかいません。悪魔と主イエスしか、この出来事を知りません。ていねいに報告されているのは、主ご自身が伝えてくださったからです。あの弟子たちと、そして私たちのために。主に従って生きる私たちにも、折々に悪魔が忍び寄り、同じように耳元でささやきかけます;「もし、お前が本当に神の子供たちの1人だというのならば。神さまから十分に愛されている、と信じるのなら」(ガラテヤ4:5,ローマ8:14-)と。しかも1節を見てください。「イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである」。救い主が誘惑と試練にあうことは、なんと神ご自身のご計画のうちであり、神さまの取り計らいの只中でなされています。
  ところで、あなたは神さまを信じているのですか? かなり本気で信じているんですか。それとも、だいたいなんとなく? 親兄弟や連れ合いや子供たち、親戚の叔父さん叔母さんなどにかなり信頼を寄せ、頼りにもしているでしょう。尊敬する先輩や先生、仲間たちにも。かかりつけの医者にも。アレコレといくつか信じたり信頼を寄せているモノがあり、その中の何番目くらいで、神さまに信頼していますか? こんなことを言われて腹が立つかも知れません。勘弁してください。けれど、「この私は、もちろん神様に信頼している。けれどそれは何番目くらいにだろうか」と、つくづく思いめぐらせてみましょう。試練や悩みにさらされる日々には特に、そうする価値があります。なにしろ兄弟姉妹たち、主イエスご自身が誘惑を受けたのです。主に従って日々を生きる私たちもまた、悪魔の誘惑にさらされます。恐るべき悪巧みと策略にまんまとからめとられそうになります。嵐の日々がすぐ目の前に迫っているからです。強い風が吹き渡り、「大丈夫、大丈夫。ただの風評風評」となだめ合い、安心し合っているうちに近くの山が大噴火を起こすからです。各地の原子力発電所がさらに三度四度五度と、福島原発をはるかに上回る、致命的で壊滅的な爆発事故を起こし放射能の灰と雨と泥水を撒き散らし、すると、あなたの家や町内もどこもかしこも、それどころか日本全土がはなはだしく生命を蝕む死の国となり果てるからです。しかも早々と「収束」宣言されてしまったあの原発事故は4年以上たった今でも、まったく「収束」していないし、「収束できる」見込みさえ立たず、高濃度の放射性汚染水を海にただただ垂れ流しつづけているからです。「高濃度のとても危険な放射性汚染水を海にジャバジャバジャバジャバと垂れ流してもいいでしょうか?」と誰の許可も得ていない。誰に詫びるわけでもなく、やりたい放題だ。だって貯水槽が満杯になってしまうし、仕方がないじゃないかと、涼しい顔をして開き直っているのだろうか。「粗大ゴミや廃棄物を勝手に捨ててはいけません」などとあちこちに偉そうに立札を立てているくせに、国家や政府や電力会社が不法投棄をするなら罷り通る(まかりとおる=通られては困るモノが我が物顔に通る。やってもらっては困る行為がおおっぴらに行われる)のか。さらにこの国は、かつて70年前にそうだったように、したい放題に好き勝手に戦争をする国に今にもなろうとしているからです。「お国のため。絆。愛国心。国益。世界平和、美しい国日本。アジアの諸民族が共に助け合って栄えるため」などと美しいデマカセに踊らされながら、侵略し、略奪し、他国と他の民族どころか同胞たちをさえ使い捨てにし、利用するだけ利用し、踏みにじる獣(けだもの)の国に、もう一度なろうとしているからです。本当。けれど今ならまだ間に合うかも知れません。私たちは十分に長く生きてきた年長の者たちだからです。後から来る世代に対して大きな責任があります。もし見て見ぬふりをし、しらんぷりをして黙って放置するならば、そのとき私たちは、子供たち孫たちやその彼ら全員に対して申し訳が立ちません。お詫びのしようもありません。そのとき私たちはただ被害者であるだけでなく、加害者であり、大きな悪事の共犯者となってしまうからです。十分に長く生きてきた年長の者である私たちには、少なくとも40代、50代、60代、70代、80代の私たちには 果たすべき義務があり、なすべき大きな責任があるからです。
  さて、主イエスに対するその最初の誘惑。「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。父なる神さまは私たちに何が必要なのかをよく知っていてくださり、その必要なものの一つ一つを用意して、贈り与えてくださいます(マタイ,6:11,31-,121:1)。私たちのための助けと備えは、この慈しみの神さまから来ます――悪魔の攻撃は、まず第一に、神さまへのこうした信頼に向けられます。『神さまに信頼できない私たち』にさせたいのです。「何に聞き従い、誰に信頼したらいいだろう。いったい何を頼りとできるだろうか」と、悪魔は私たちにアタフタオロオロさせたいのです。周囲の人々の顔色を窺って、その場その場の空気を必死に読んで、空気にも従うようにさせたいのです。人様の顔色やご機嫌ななめらしいとか、空気にまで脅かされつづけるようになってしまったら、その恐がりで臆病な人はどうやって生きていけばいいんですか。おっかなくて心細くて惨めで、朝から晩までビクビクビクビクしつづけて、心の休まる暇がないでしょう。4,7,10節「~と書いてある。~書いてある、書いてある」。主イエスは悪魔の攻撃に抵抗して、『聖書にこう書いてある。聖書は、こう語っている』と断固として仰います。それこそが唯一最善の武器です。「聖書が こう語っている」。それだけは別格です(ヨハネ5:39-40,20:30-31,テモテ(2)3:15-17コリント(1)15:3-)。誘惑と試練に立ち向かうための最善最大の武具は神の言葉です。神の言葉に一途に信頼を寄せ、本気になって聞き従いつつ生きはじめること。
 けれどなぜ、主イエスは悪魔から誘惑を受けたのでしょうか? 救い主には、悪魔の誘惑を受け、それを受けとめ、打ち破る必要があったのです。なぜならこの救い主は、罪人を救うために世に来られました(テモテ(1)1:15)。もっぱら、そのためにこそ来てくださったのです。弱い者、貧しい者、ついつい神に背き、敵対さえしてしまう愚かでかたくなな者たちのために、それら罪深い者たちをあわれむ神です(ローマ5:5-,コリント(1)1:25-)。この世界では、多くの場合、取り柄や特技や見所があって、そこではじめて人は愛され、受け入れられ、認められます。ほとんどの場合がそうです。子供の頃からそういう扱いを受けてきた私たちには、そうではなく、まったく違うやり方で愛してくださる神だといくら説明しても、なかなか受け入れられません。神さまが私たちを愛する愛し方は、この世界の普通一般のやり方や考え方とはずいぶん違っています。どんな神であり、どんな私たちだと思っておられましたか? どう教えられ、どのように習い覚えてこられましたか? 大手大企業の社長と幹部連中が優秀な人材を雇うように、その人の素質と能力と企業利益を見込んで、そのように人間を尊んだり軽蔑したり、招き入れたり排除なさる神さまだと思っておられましたか。いいえ ただ愛し、ただただ憐れんだのです。あなたと家族の生命が滅びるままに捨て置くのに忍びないと、その一つの小さな生命を惜しんだからでした。ご存知でしたか。しかも何十年も神さまを信じてきたはずのクリスチャンも含めて、ほとんどの人たちは、そんな愛された方や受け入れられ方はあまり好きではありません。だから今まで通りに、「見所や良い働きがあって、だから認められ、だから受け入れられている。大手大企業に採用が決まった将来有望なエリート社員のようにクリスチャンに大抜擢された」と思いたい。それで、クリスチャンにしていただいた後でも、今までどおりに教会の中でも外でも、恐れたり恐れさせたり、おだてて祭り上げたり足を引っ張ったり、互いに顔色をうかがったりしつづけている。なんということでしょう。なんとケチ臭く、貧しく、生臭くて、いかがわしいことでしょう。まさか、肝心要のことを何一つ分かっていなかったんですか? 兄弟たち。神のあわれみを受け取るには、私たちはあまりに強すぎます。神さまの慈しみ深さを喜び祝うには、私たちはプライドが高すぎます。生きて働いておられます神ご自身の力強さを知るには、私たちは、自分自身と周囲の人間たちのことで心が一杯で、そわそわキョロキョロしつづけて、しばしばあまりに気分散漫すぎます。
  さてもう一度、パンのことを語りましょう。「人はパンだけで生きるものではない」(マタイ4:4,申命記8:3)と、主イエスは石をパンに変えることを拒みました。パンだけで生きるものではない。それはどういう意味でしょう? もちろん誰一人も、一切れのパンもなしに、仙人のように雲や霞を食べて生きられるわけではありませんね。私たちは現実には、主の口から恵みによって与えられる一つ一つの言葉によって、そしてまた同時に、主が恵みによって与えてくださるパンによっても、生きてきました(ルカ11:3,出エジプト記16:1-,箴言30:7-9)。言葉だけではなく、パンも水も肉も、不足なく十二分に与えられてきました。これまでもそうでしたし、今もこれからもそうです。主の口から出る言葉と、主の御手から差し出されるパンと、その両方ともによって 私たちは生きる。それがこの箇所と申命記8:3-の真意です。石をパンに変えること。ほか様々な苦難や厄介事を解決してくれるようにと私たちが神にアレコレ願い求めることも、もちろん正しい良いことです。やがて主イエスは、石どころか、ご自分の体を『天から下ってきた生きたパン』として私たちに贈り与えてくださるのですから。十字架上の苦しみと死をもって、格別な生命のパンを贈り与えてくださるのですから(ヨハネ6:47-58)。パンに変えることはOK。けれど『近道をして、ここで手軽に』ではなく、『あの丘の上で、あの十字架の木の上で。救い主のあの苦しみと死をもって』。
  一つのことに目を留めましょう。1節「イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである」(「御霊」は聖霊なる神のこと)。つまり荒野を引き回されたのは、悪魔の仕業や悪だくみではなく、神の霊のお働きによってだった。ときどき私たちは誤解してしまいます。「もし神さまが私たちを導いてくださっており、神の恵みと支えのもとに置かれているとするなら、苦しいことや困ったことは何も起こらないはずだ。乏しいことも恐れも、何一つないはずじゃなかったのか」と。苦しむ友だちからこう問われたとき、あなたは何と答えることができるでしょう? あなたの息子や娘が深い悩みの只中でこう問うとき、あるいはあなた自身が苦しみの中で自分自身にこう問いかけるときに、あなたは何と答えることが出来るでしょう? 苦しみ悩む日々は確かにあります。信仰を持っていてもそうでなくても、同じように苦難と災いが襲いかかります。豊かに満ち足りるときがあり、乏しい日々もあります。喜びと幸いばかりでなく、悩みも辛さも次々とあります。コリント手紙(2)12:7-10、あなたはよくよく味わって、噛みしめたではありませんか。思い上がらないようにと、神ご自身がパウロにトゲを刺しました。取り除けてください取り除けてください、どうかお願いします、取り除けてくださいと彼は30回も300万回も祈り求めつづけました。けれど、トゲは抜いていただけませんでした なぜでしょう。分かりません。それでもなおあの彼は不思議な仕方で、喜びに満たされました。とうていありえない仕方で、ついにとうとう習い覚えたのでした。「ところが主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は(あなた自身の)弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ喜んで自分の弱さを誇ろう。……なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」(コリント手紙(1)12:9-10あなたに対しても恵みは十分、と語られています。でも、もし神さまの力が私たちの間でほとんどあらわれていないのなら、現れそうな気配も兆しもちっとも感じられないなら、人間たちの力ばかりが私たちの間で幅を効かせつづけているようならば、もしかしたら、この私たちはあまりに強すぎる。人様と世間様のことばかり思い煩い、神さまの恵みを門前払いしつづけているのかも。賢すぎて、偉すぎて、「私が私が」と我を張っていた間、自分とその腹の思いこそが御主人様であり、神ご自身の働きを邪魔しているかも知れません。だからこそこの薄暗がりの中に、ついにとうとう光が射し込みました。時が満ち、神の国が近づきました。だからこの私たちも、腹の思いと在り方すべてを180度グルリと神さまへとすっかり向け直すことができます。今日こそ本気になって、福音を信じて生きはじめることが、この私たちにもきっと必ずできます。私たちのためにさえ、神さまが生きて働いておられるからです。
 兄弟姉妹たち。主が私たちを導いてくださったそれぞれの荒れ野の旅を思い起こしましょう。荒れ野を旅するようにして生きてきた日々を。たびたび飢え渇きました。乏しさに悩みました。さまざまな恐れと疑いに捕われました。なお続くこれからの旅路も、まったくそのようです。たしかに荒れ野で、けれど同時にまったく主の恵みの只中を、生きてきたのです。悩みの蛇にたびたび咬まれながら、トゲに刺されながら、けれど仰ぎ見て生命を贈り与えられつづけて、生きてきたのです。主の口から出る一つ一つの言葉によって生き、天からの恵みのパンによって養われつづけてきました。『天からの恵みの~』ではないパンなど、実は一かけらもありませんでした。私たちの手の中には、天からの恵みの米と味噌と醤油があり、天からの恵みの兄弟と隣人と家族があり、天からの恵みの職場と居場所とを与えられています。そして一日分ずつの、天からの恵みの生命と寿命を。だからこそ、ご覧なさい。目を凝らして、よくよく見てご覧なさい。私たちのまとう着物は古びず、私たちの足も腫れていません(申命記8:4-)。なんという恵み、なんという喜びか。




 ◎とりなしの祈り

 イエス・キリストの父なる神さま。だからこそ確かに、主イエスの救いの御業をもって、私たちをあなたの憐れみを受ける子供たちとしてくださって、ありがとうございます。あなたからの憐れみと恵みにかなって、精一杯に生きる私たちとならせてください。
 神さまによくよく信頼を寄せ、素直に聴き従って生きる私たちになれますように。私たちの口から出る1つ1つの言葉によって、心の中の思いや私たちの態度や行いによっても、神さまから愛されて、良い贈り物をたくさんいただいていることが、自分自身にも周りの人たちにも、よく分かるようにさせてください。へりくだった、低くてやわらかい心をこの私たちにもぜひ与えてください。あなたに聴き従うより他人に聴き従ってしまう臆病さとズルさを、私たちから取り除いてください。自分の考えややり方に相手を従わせようとするとき、その自分自身のわがまま勝手さを、自分で恥ずかしく思えますように。
 神さま。みじめな思いをさせられている人たちがたくさんいます。心細く生きている人や、除け者にされている人たちがたくさんいます。喜びと希望を見失いかけている悲しい人たちがたくさんいます。あなたから憐れんでいただき、慈しみを注がれつづけている私どもですから、受け取ってきた憐れみと慈しみを、私たちも同じだけ惜しみなく差し出すことができますように。ただ自分自身と家族のことばかりではなく、この上田教会や日本キリスト教会のことばかりではなく、原子力発電所で使い捨てのように働いて使い捨てられていく下請けの下請けの下請けの下請けの、最底辺の労働者たちの健康と安全と幸いな生活を。また、ただ日本人のことばかりではなく、日本に暮らす出稼ぎの外国人労働者とその家族をお守りください。たとえ自分の家の子供でなくても、自分と同じ国の同じ民族の子供でなくたって、どの一人の子供も必要で十分な愛情と保護をたっぷりと受け、安心して、将来への希望と喜びをもって毎日を暮らせるようにさせてください。主なる神さま。親たちと社会と国家と、この私たちにも、そのための義務と責任を十分に果たさせてください。養護施設、介護福祉施設、精神科の医療施設に暮らす人々を支えてください。そこで働く職員たちの魂と働きを健全に保たせてください。どうぞ私たちにも、あなたの御心にかなう善い働きを願って、精一杯に生きさせてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン