2019年4月1日月曜日

3/31「ほかの町々にも福音を」ルカ4:42-44


             みことば/2019,3,31(受難節第4主日の礼拝)  208
◎礼拝説教 ルカ福音書 4:42-44                       日本キリスト教会 上田教会
『ほかの町々にも福音を』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
4:42 夜が明けると、イエスは寂しい所へ出て行かれたが、群衆が捜しまわって、みもとに集まり、自分たちから離れて行かれないようにと、引き止めた。43 しかしイエスは、「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」と言われた。44 そして、ユダヤの諸会堂で教を説かれた。         (ルカ福音書 4:42-44)

 42節で、「夜が明けると、イエスは寂しい所へ出て行かれた」と報告されています。まず、ここに注意を向けねばなりません。この時ばかりではなく、折々に繰り返して、主イエスは人々や弟子たちからも離れて、寂しい所へ退いてただ独りで過ごしつづけました(ルカ5:16,6:12,マタイ14:23,マルコ1:35ほか多数)。独りになって、祈るためにです。心を鎮めて、天の御父とよくよく十分に語り合うためにです。
 しかも天の御父とよくよく語り合い、その御心を教え知らされた結果として、救い主イエスは12人の弟子を選び、また今回も43節、「わたしはほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。わたしはそのために遣わされたのである」と。この「~しなければならない」という断固たる口調は、『神ご自身の決断と意思』の言葉だと世々の教会は聞き取ってきました。ほかにも、主イエスの口から何度もこの語りかけがなされつづけます。例えば、もう少し後で取税人ザアカイと出会ったとき、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」(ルカ19:5。泊まることにしている。そのとおりにザアカイの家に泊まり、主イエスを信じて生きる者としてあげました。あなたの家に泊まることにしている。え? 初対面で見ず知らずのまったくの赤の他人で、会った途端に「今日、あなたの家に泊まることにしている」。誰が、あらかじめ、そう決めていたのでしょう。父なる御神がそう決めておられました。ザアカイのためにも確かにあった神の救いの計画の一端です。ここでも、だから、「わたしはほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。わたしはそのために遣わされたのである」と。天の御父があらかじめ決めて用意しておられた救いの計画です。救い主がほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えること。やがて弟子たちをも、ご自身が行こうとしておられたすべての町々村々にご自身の使者として遣わすこと。救い主イエスはそのためにこの地上に遣わされた。誰から。もちろん天の父なる神からです。自分を遣わした御父からの使命を果たすこと。それこそが、遣わされた者であることの根本的な意味です。だからこそ天の父なる神は、独り子である神、救い主イエスを名指しして、「これは私の愛する子、私の心にかなう者である。だから、これにこそ聴け」(ルカ3:22,9:35と私たちに命じます。二度も繰り返して、念を押してです。それゆえ救い主イエスもまた、「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。なぜなら、父は子を愛して、みずからなさることは、すべて子にお示しになるからである」「わたしは、自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである。そして、わたしのこのさばきは正しい。それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかたの、み旨を求めているからである」「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである」「わたしは自分からは何もせず、ただ父が教えて下さったままを話していたことが、わかってくるであろう。わたしをつかわされたかたは、わたしと一緒におられる。わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしているから、わたしをひとり置きざりになさることはない」(ヨハネ福音書5:19-20,6:38,8:28-29と。また聖霊なる神は、救い主イエスがどんな方であるのか、何をなさり、何を教えたのかを分からせ、私たちに救い主イエスを信じさせます。だからこそ、そのようにして、父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神は一つ思いになって、一つの救いの御業を成し遂げます。
  では、主イエスの弟子たちよ。一つ思いになって働かれる神を信じる私たちは、どのように生きることができるでしょうか。神ご自身のこの一つ思いに連なって生きるようにと招かれたのですし、事実、そのように生きて死ぬことができます。復活の朝、救い主イエスは改めてご自身の弟子たちを、この信仰の従順へと招かれました。招きつづけます。てのひらの釘跡と脇腹のヤリで刺された傷跡を見せてくださって、こう仰いました、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす。聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」(ヨハネ20:21-23天の御父が救い主イエスをご自分の使者として地上に遣わされました。まったく同じに、救い主イエスもまた、主イエスを信じる弟子たちを、この私たちをこの地上に、それぞれの生活の現場へと遣わされました。ですから私たちは、これからは自分からは何事もすることができないし、しないのです。自分の心のままをわがまま勝手に行うためではなく、私たちを遣わされた救い主イエスの御心を行うために主イエスの弟子とされたからです。私たち自身の考えや好き嫌いでするのではなく、私たちを遣わされた救い主イエスのみ旨を求めて、その御心にかなうことをぜひなしたいと願いつづけて一日一日を生きる者とされたからです。もちろん、自分がしたいこと、したくないこと、気が進む進まない、気に入った、なんだか気に入らないなどと言い続け、それを願ってもよいのです。「~と~と~を私にさせてください。~は嫌なので、させないでください。けれども 私の願いどおりではなく、ただただあなたの御心のままになさってください。それをこそ求め、受け入れ、喜び、信頼して聴き従いつつける私たちであらせつづけてください」(ルカ福音書22:42参照)と。それこそが、主イエスの弟子である私たちの希望と幸いの中身です。
  私たちすべてのクリスチャンは、神の国の福音を宣べ伝え、その福音の中を毎日毎日暮らしていくために、救い主イエスから遣わされました。遣わされた使者でありつづけます。御言葉と福音の種を植えて、そのそれぞれの土地を耕し守って暮らします。そこが私たちのためのエデンの園でもあるからです。
 そうした日々がどんなふうであるのかを私たちがよく分かっている必要があるので、弟子たちが町々村々に遣わされた伝道実習の様子が詳しく報告されています。12人の弟子たちが遣わされたときと、72人の弟子たちが遣わされたときと計2回(ルカ9:1-6,10:1-20。そして、いいよマタイ福音書末尾の、ただの訓練ではない、本格的に遣わすことの始まりです。その事情は、一人の福音伝道者としても、また一人のクリスチャンとしてもまったく同じです。「杖も財布も袋も靴もパンも銭も、着替えの下着さえ持ってゆくな」と指図され、ほとんど手ぶらで出かけてゆくこと。どこかの家に入ったら、「神からの平安がこの家にあるように」、また「神の国はあなたがたに近づいた」と告げましょう。迎え入れてもらえたら、その同じ家に留まって、家の人が出してくれるものを喜んで感謝して飲み食いします。どの家からも迎え入れてもらえなかったら、そのときは晴れ晴れ清々として、その町を出て行きます。つまり、私たち主イエスの弟子は迎え入れてもらえる場合もあるし、そうではなく、拒まれ、追い払われる場合もあるということです。もしかしたら、その町や、その一軒の家に4050年と留まって、神の国の福音のもとにある暮らしを築き上げてゆくことができるかも知れません。また今日の箇所のように、周囲の人々から引き止められても、立ち去らねばならない場合もあるでしょう。留まることも立ち去ることも、もはや自分自身や周囲の人々の考え通りや思いのままではありません。どうして? なぜなら、私たちは遣わされた者たちであるからです。遣わしてくださった救い主イエスの御心にかなうことを願って生きる者たちだからです。それは、遥か昔の旧約聖書の時代から同じ一つの心得です。空の雲の流れが旅路の進み行きが神の御心にかなってなされるようにと指図しました、「雲が幕屋を離れてのぼる時は、イスラエルの人々は、ただちに道に進んだ。また雲がとどまる所に、イスラエルの人々は宿営した。すなわち、イスラエルの人々は、主の命によって道に進み、主の命によって宿営し、幕屋の上に雲がとどまっている間は、宿営していた。幕屋の上に、日久しく雲のとどまる時は、イスラエルの人々は主の言いつけを守って、道に進まなかった。また幕屋の上に、雲のとどまる日の少ない時もあったが、彼らは、ただ主の命にしたがって宿営し、主の命にしたがって、道に進んだ。また雲は夕から朝まで、とどまることもあったが、朝になって、雲がのぼる時は、彼らは道に進んだ。また昼でも夜でも、雲がのぼる時は、彼らは道に進んだ。ふつかでも、一か月でも、あるいはそれ以上でも、幕屋の上に、雲がとどまっている間は、イスラエルの人々は宿営していて、道に進まなかったが、それがのぼると道に進んだ。すなわち、彼らは主の命にしたがって宿営し、主の命にしたがって道に進み、モーセによって、主が命じられたとおりに、主の言いつけを守った」(民数記9:17-23。この報告を、ただのスローガンや美しい言い伝えとしてではなく、ぜひ私もそのように生きる者でありたいと願うことができるなら、その人たちはとても幸いです。
 しかもなお、「神からの平安がこの家にあるように」、また「神の国はあなたがたに近づいた」と幸いを告げる祈りと祝福の言葉は虚しく地面に落ちることは決してありません。そこに平安の子が一人もいなければ、私たちの祈る平安は私たちの上に帰ってくるからです。神の国が近づいたことを受け止める者が、たとえもし、そこに一人もいなくたって、ちっとも困りません。その宣言もまた私たちのもとに帰ってきて、「神の国は近づいた。この私たちの只中に神の国はあり、神のお働きのもとに据え置かれて生きて死ぬことのできる私たちである。ああ本当にそうだ」と、そのことをますますはっきりと知り、つくづくと味わいつづける私たちとなるからです。主イエスの弟子であり、主から使命と役割を与えられて遣わされた使者である私たちは決して誰からも侮られたり、軽んじられてはなりません。あるいは逆に、その侮りや侮辱や軽蔑を甘んじて、心安らかに受けることもできます。主イエスご自身から直々にこう証言されているからです、「私の弟子であるあなたがたに聞き従う者は、私に聞き従うのであり、あなたがたを拒む者は、私を拒むのである。そしてわたしを拒む者は、わたしをおつかわしになったかたを拒むのである」。また、「わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。しかし、むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」(ルカ10:16,19-20

                ◇

 さらに大切なことをお伝えします。主イエスが72人の弟子たちを遣わしたとき、「主は別に七十二人を選び、行こうとしておられたすべての町や村へ、ふたりずつ先におつかわしになった」(ルカ10:1。主イエスは、ご自分が行こうとしておられたすべての町や村へ、弟子たちを、ふたりずつ先に遣わしました。ご自分が行こうとしておられたすべての町や村にです。二人ずつ先に、です。分かりますか。弟子たちだけを遣わして、遠く離れて、ご自身は何か他のことをなさっているというわけではなく、後から、ほんの少しだけ遅れてちゃんとご自身も来てくださって、彼らの働きと生活に、ちゃんと同行し、一緒にいてくださるのです。天の父なる神が決して救い主イエスを独りにさせなかったように、救い主イエスもまた私たち弟子を決して独りにはせず、一緒にいつづけてくださいます。だからこそマタイ福音書末尾28:18-20の、ただの訓練ではない、本格的に遣わすことの始まりにおいても、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマ(=洗礼)を施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、ほんの片時も離れることなく、いつもあなたがたと共にいるのである」と。見なさいと、注意を呼び起こされます。わたしは世の終りまで、ほんの片時も離れることなく、いつもあなたがたと共にいる。そう約束したじゃないかと。もう忘れちゃったのかと。いつも共にいてくださる神から、すべての良いものが贈り与えられつづけます。私たちは、神さまを信じて生きることに決めました。「全信頼を神におくことができます。神のご意思に服従して、神にこそ仕えて生きる私たちです。どんな困窮の中でも神に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求める私たちです。そして、すべての幸いはただ神から贈り与えられることを、晴れ晴れとして、心でも口でも認める私たちです」(「ジュネーブ信仰問答」問7 1542年)