みことば/2019,4,21(イースター礼拝) № 211
◎礼拝説教 ルカ福音書 5:17-26 日本キリスト教会 上田教会
『私たちの罪をゆるす救い主』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
5:17 ある日のこと、イエスが教えておられると、ガリラヤやユダヤの方々の村から、またエルサレムからきたパリサイ人や律法学者たちが、そこにすわっていた。主の力が働いて、イエスは人々をいやされた。18
その時、ある人々が、ひとりの中風をわずらっている人を床にのせたまま連れてきて、家の中に運び入れ、イエスの前に置こうとした。19 ところが、群衆のためにどうしても運び入れる方法がなかったので、屋根にのぼり、瓦をはいで、病人を床ごと群衆のまん中につりおろして、イエスの前においた。20
イエスは彼らの信仰を見て、「人よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。21 すると律法学者とパリサイ人たちとは、「神を汚すことを言うこの人は、いったい、何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」と言って論じはじめた。22
イエスは彼らの論議を見ぬいて、「あなたがたは心の中で何を論じているのか。23 あなたの罪はゆるされたと言うのと、起きて歩けと言うのと、どちらがたやすいか。24
しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威を持っていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに対して言い、中風の者にむかって、「あなたに命じる。起きよ、床を取り上げて家に帰れ」と言われた。25
すると病人は即座にみんなの前で起きあがり、寝ていた床を取りあげて、神をあがめながら家に帰って行った。26 みんなの者は驚嘆してしまった。そして神をあがめ、おそれに満たされて、「きょうは驚くべきことを見た」と言った。
(ルカ福音書 5:17-26)
17-20節。体の不自由な一人の人がいました。救い主イエスとなんとかして出会おうとして、このただお独りのかたそが自分を救ってくださると深く確信しました。しかも、この人のためには、同じ一つの確信と希望をこの人と分かち合う四、五人くらいの人たちがいました(確かな人数がここに記録されていません。マルコ福音書だけは四人と。戸板の四隅に一人ずつとして最低四人、ほか一、二名いれば交代交代しながら運ぶことができます)。身動きできないこの人は、救急車の担架のような戸板に寝かされたままで、主イエスのみもとまで運ばれてきました。20節で、主イエスは「彼らの信仰を見た」と報告されています。その人たちの信仰。読むたびに、ここで考えさせられます。まず、その四、五人の仲間たちの信仰。それは、心にかけて大切に思う一人の友だちや家族を、その愛する人を主イエスのもとへと運んでくるという信仰です。主イエスこそがこの人を救い、心強く支え、立たせてくださると確信し、その一つの願いを心底から願い求める信仰です。次に、戸板に乗せられて運ばれてきた、この一人の人の信仰。それは、信頼して身をゆだねるという信仰です。この五、六人の信仰を、私たちもよくよく見つめたい。だって私たちは、まるで挨拶のように「まあご立派な信仰ね。それに比べて私の信仰なんかまだまだ」などと、互いの信仰の大きさやグラム数を計り、値踏みし、自分に対しても他者に対しても品定めしあいます。けれど聖書自身が語る信仰は、『私は何かを知っている。何かができる。何かをちゃんと分かっている』という類いの信仰ではありません。四、五人の仲間たちは、大事に思っている一人の人を主イエスのもとへと連れてきました。「慰めることも励ますことも支えることも、私たち人間には不十分で足りないところだらけだが、しかし主イエスこそが救ってくださる」と信じて、ぜひそうしていただきたいと願って、彼らは連れてきました。主ご自身のお働きにこそ一人の家族を、大切に思う一人の友人を委ねました。戸板に寝かされ運ばれてきたこの一人の人は、寝かされるままに寝かされていました。運ばれるままに、ただ運ばれてきました。神さまにも、友人たちにもゆだねて、神さまを仰いでいました。『私がする』ではなく、『この私のためにも、私たちのためにも、きっと必ず主こそがしてくださる』と。神さまを仰ぎ見る信仰は、委ねて待ち受ける信仰です。待ち受けて、受け取ろうとする信仰です。悩みをもって、担いきれない重い課題を抱えて、辛さや苦しみを抱えて、けれどそこで、だからこそ一途に、救い主イエス・キリストへと愚直に向かう信仰ではありませんか。
しかしこの五、六人ほどの人々の願いと、主イエスからの答えは食い違っています。体の不自由だったあの人と友人たちは、『起きて歩けること』を願っていたはずです。起きて歩けること。団地の階段を上ったり下ったりできること。やがて近所のスーパーまで出かけていって、買い物ができること。若い頃のようにスタスタ歩いてどこへでも出かけてゆき、思う存分に働いたり、食べたり飲んだり、景色を眺めたり、遠くの町に住む親しい友だちを訪ねたり。あるいは自分の寿命が何ヶ月か何年か伸びて、その分よけいに、あともう少しの間、楽しく愉快に過ごせること。つまりは、いま目の前にある困難や不都合が解決することを。けれど20節、主イエスは、「人よ、あなたの罪はゆるされた」と宣言なさいます。このズレは何でしょうか。23節。さらに主は、この二つを並べて質問をなさいます;「『あなたの罪はゆるされた』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがたやすいか」。さて、どっちでしょうか? 主イエスご自身の見解は明らかです。『起きて歩くことや、スーパーで買い物をしたり、遠くの町に住む友だちに会いに出かけてゆくこと』のほうが、より簡単。いっそう難しい『罪のゆるし』を何よりまず、あなたのために断固として宣言し、保証したというのです。困りました。「私の目の前にある、いま現に私に立ち塞がっているこの困難と悩みこそが大問題だ。これこそ、私のすべてだ。これさえ解決するなら後は何も望まない。あとは、晴れ晴れ清々として暮らしていけるはずだ」「今の私があまり幸せではない理由は、コレとコレとコレ。こういうことさえ無くなれば」と私たちは心から望みます。その通りです。しかしなお私自身に向かってこう問わねばなりません。本当にそうだろうか。今、目の前にあるこの重い課題が解決するなら、私はそれで幸福になれるだろうか。そもそもこの私は、いったい何が望みなのか?
◇ ◇
主イエスは、「あなたの罪はゆるされたのだ」と宣言なさいます。これを不満に思い、反発する者たちがいます。律法学者たちです。信仰の権威者であり指導者・リーダーである彼らが、信仰の道理も世間の道理も、この自分たちこそがよくよく分かっていると思い込んでいた人たちが、どうしたわけか心の中でプンプン怒っています。
あ! そう言えば私たちも、ちょくちょくこの律法学者やパリサイ人たちみたいになって、プンプン怒ったり、機嫌を悪くしたり、嫌~な気持ちになったりしますね。みんな、だいたい同じようなものです。
21節、「この人は神を汚すことを言っている」と。なぜなら、神おひとりの他に罪をゆるす権威も力ももってはいないからです。またもや、罪の問題です。「平安や、晴れ晴れとした慰めを求めてきたのに、罪だ罪だと、罪人だからゆるしてもらえなどと、教会ではそんなことばかり語られる。バカにされたような気がする。別に警察に捕まったわけでもないのに、法律に背いて刑務所に入れられたわけでもないのに。人様にたいした迷惑をかけているわけでもないのに、それなりにきちんと生きてきたし、税金も払っているのに。いったいどういうつもりだ」と叱られ、嫌な顔をされます。「ただ罪と言われても分からないと言われ、それじゃあと丁寧に説明し始めると、「分かった分かった。もういい」とたいてい不機嫌になります。けれど、どうぞお聞きください。聖書が語る『罪』とは、なにより自分の好き嫌いや、したいとかしたくないとかその時々の気分を先立てて、神さまに逆らうことです。神さまにも人様にも余計な指図は受けたくない、自分の思い通りに好きなように生きてゆくと逆らいつづけて、「私が私が」と我を張って、ますます心を頑固にさせつづけること。これが罪の土台であり出発点です。私たちの最も奥深いところにある心の病気です。神さまとの関係が壊れてしまう。すると、そこから様々な惨めさや苦しみが末広がりに生み出されてゆきました。自分と他者との関係がゆがみ、壊れ去り、自分とこの世界との関係が崩れ、私は『あるべき喜ばしい私自身』を見失い、恐れと不安と物寂しさの暗闇に閉じ込められてゆく。自分はいったい何者なのか。どこに足を踏みしめて立っているのか。何を目指して何を願って生きているのかを見失って、どこまでもさまよい出てゆく私。『神さまに逆らうこと』から始まるこの惨めさや心細さから、私たちは、自分自身の力によっては救い出されません。『罪をゆるす』とは、その惨めさや心細さから、その深い絶望から救い出すことです。どこへ向かってでしょうか。神さまの憐れみのもとへと。隣人や愛する家族のもとへと。大切な友人たちや仲間たちのもとへと。『あるべき喜ばしい自分自身』へと。本人も周囲の人々も『体が不自由だ』と思い込んでいました。けれど体ばかりではなく、この彼も私たち自身もむしろ『心こそが小さく凝り固まってしまって、とてもとても不自由』でした。そのために周りの人々を苦しめ、自分自身をも狭い場所に閉じ込め、苦しみつづけてきました。それなら、いったい誰が、この私を救い出してくれるのでしょう。ぜひ知りたい。いったい誰ができるのか? 神おひとりのほかに、誰ができるだろうか。だれも出来ない。ただ、神だけができる。神にできないことは何一つないのだから(創世記18:14,エレミヤ書32:17,27,ゼカリヤ書8:6,マタイ福音書3:9,19:26,ルカ福音書1:36,-37,ローマ手紙4:17,19-21)。しかも、神さまへの従順と服従こそがこの信仰の土台であり、中身です。先週もお話しましたが、また話します。十字架におかかりなる前の晩、主イエスは祈りました。「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」(ルカ福音書22:42)。神さまに向かって何をどんなに願い求めてもよいと約束されています。あれしてください。これもこれもしてください、これはやめさせてくださいと私たちは神さまに何をどれほど願っても良い。しかも、それらの願いに加えて、「しかし私の思いのままにではなく、他の誰彼が言うままでもなく、ただあなたの御心のままになさってください」と。つまり、強情を張って私の願いや考えにこだわりつづけ、それを押し通そうと頑固になることではなく、神さまへの信頼と服従です。だからこそ、その分だけ、私たちは自由です。その分だけ、私たちは身軽で晴れ晴れ清々となることができます。これが、キリストの教会と私たちクリスチャンの基本の心得であるはずでした。だからこそ胸が痛みます。ぼくは恥ずかしくなります。習い覚えているはずのことをすっかり棚上げして、神さまの御心を片隅へ片隅へと押しのけ、「私はしたいしたくない。私は気に入った、なんだか気に入らない。私は気が進む、進まない」などと自分の欲望と願いと自分の腹の思いばかりを先立てて暮らしている自分自身に。神さまへの信頼と従順を見失ってしまうとき、私たちはどこまでも転がり落ちていきます。だから、ここで目を凝らさねばなりません。主イエスを仰ぎ見ていた人も、主イエスご自身も、「私の願いどおりではなく、私の考えや判断や私のやり方のままではなく、ただただ神さまの御心にかなうことを成し遂げてください」と。あなたの御心をこそ。もし御心に叶うならば。つまり! 神さまの御心に叶わないならば、していただかなくて結構です。私の願い通りではなく、あなたの御心にこそ従います。救い主イエスこそが、こんな私のためにさえ最善を願ってくださり、私にとっての最善を決断してくださる。しかも私たちは、主であられる神さまこそがそのように真実に願い、決断してくださる方だと知っている。だから、ここに来た。神さまへの一途な信頼と従順を、ぜひなんとかして、この私たち自身のものとさせていただきたいのです。すると、あのプンプン怒って腹を立てていた律法学者たちは、もう一歩のところまでたどり着いていました。神さまにも人さまにも逆らいつづける罪の重荷に縛りつけられて、だから、しっかりしたくても出来ませんでした。あの彼も、この私たちも。主イエスの宣言;『人よ、あなたの罪はゆるされた』に含まれていた真実に、あとほんの一歩のところまで迫り、もう少しでたどり着く寸前でした。神にしか出来ないことを、『できる。私がする』と仰る方が、そこにいる。24節。主はさらに、はっきりと仰います。「人の子(=イエスご自身のこと。主は、しばしばご自分をこう言い表す)は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたに分かるために」と。兄弟姉妹たち、ここです。ここに、福音の核心があります。神さまに背を向けて離れ去り、「私が私が。自分で自分で。私のやり方や私の気持ちは」と意固地になり、そこからさまざまな惨めさと心細さ、絶望と恐れが生じて、私たちを苦しめています。そのあまりに小さくて、惨めで、とてもとても狭い場所から、晴れ晴れとした安らかな場所へと連れ戻すこと。神さまの憐れみのもとへと。罪から救う権威は天上にあり、ただ神さまにしかできない。なのに、なぜ、あの方が地上で罪をゆるす権威を持っているのか。神が、この地上へと降りくだったからです。この地上に、おの私たちのいつもの生活の場所へと。あなたにも、こんな私にさえも、救いを届けるために。「神を汚している」とあの彼らは腹を立てていました。なるほど。神を汚し、神の権威をはずかしめて冒涜している、と言えるかも知れません。決して犯すことができないはずの神ご自身の神聖さがあり、汚してはならなかったはずの尊厳があります。にもかかわらず、その神聖さと尊厳は、他の誰によってでもなく! 神ご自身によって惜しげもなく手放され、ポイと投げ捨てられてしまったのですから(ピリピ手紙2:5-11,ローマ手紙8:31-32参照)。神ご自身によるご自身の冒涜、ご自身で自分を汚し、はずかしめている。そう見えるほどの、徹底したへりくだりでした。私たちの主なる神さまは、神であることの神聖さや力や権威よりも、ご立派そうに見えることよりも、まったく別のものを選び取ってくださいました。『私たち罪人が神の憐れみを受け取って生きること』をです。そのほうが千倍も万倍も価値がある。そのほうがずっと素敵だと。小さな一つの魂が救われることを喜ぶ神さまには、その大喜びの前に、ご自身の格式も体裁も権威も、取るに足りないつまらない、どうでもよいものと成り下がりました。なんということでしょう。24節、主イエスは中風の者に向かっておっしゃいます。「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」。その人はすぐに立ち上がり、皆の見ている前を帰っていきました。もちろん、寝かされていた救急車の担架のような戸板を担いで。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。『担いでゆくべき戸板』とは、なんでしょう。身動きならず手も足も出ず、横たわっていた、歯がゆく心細い日々です。この私の恐れと不安と無力感です。
末尾の26節、「みんなの者は驚嘆してしまった。そして神をあがめ、おそれに満たされて、『今日は驚くべきことを見た』と言った」。この同じ喜びと格別な自由が、私たちにも差し出されつづけています。祈りましょう。