コラム
『生けるものすべて』
金田聖治
生けるものすべて おののきて黙せ、
世の思い棄てて ひたすらに仰げ
神の御子は くだりたもう
このきよき日にぞ
君の君なれど マリヤより生まれ
うまぶねの中に 産声をあげて
おのが身をば 与えたもう
罪人のために
これは1954年版讃美歌の100番。賛美歌21では、255番の讃美歌です。まず1節。「生きているものはすべて」と呼びかけられています。讃美歌も聖書も、気をつけて読み味わっていくと、いろんなところで引っかかってきます。そこで立ち止まることが大切です。大きな糸口になり、福音の現実の中に入っていくための入口になります。ああ、そうだったのか。いつの間にかまた、神さまを狭く小さく考えてしまっていた。大人のためだけの神様ではなかったし、クリスチャンのためだけの神様ではなかった。それどころか、私たち人間さまのためばかりの神さまでもなかった。小さな子供や赤ちゃんたちも、まだこの聖書の神さまを信じていない人たちのためにも、それどころか犬猫や他のすべての生き物たちのためにも、ミミズやカエルやアリたちのためにもこの神さまはある。地上のすべてを造った神さまだし、すべてを喜び祝福なさる神さまだった。大人中心の、クリスチャン中心の、また人間さま中心の考え方をきっぱり脱ぎ捨てねばなりません。そのためにこそ沈黙して耳を済ませなさい、神の御声を聞き分けようとして。「人間のためだけの神さまだと思っていたわ。だって、お祈りができるのも私たち人間さまだけでしょ」。そんなこと誰が言ったんですか、聖書の何ページに書いてありますか。
2節。「君の君なれど」。「君」は僕と君の君じゃなくて、王さまや殿様という意味です。「王様の中の王さま、主人の中の飛びっきりのご主人さまだけれど」という逆接のつながりは、この2節全体に及びます、王様の中の王様なんだけれども、だがしかし、
① マリアから生まれ、
② 家畜小屋のエサ箱の中にオギャアと産声をあげ、
③ 罪人のために、ご自身のその尊い体を与えてくださった。
それら①②③すべては、主の中の主、王の中の王であられる救い主には似つかわしくないことです。「ええ? まさか、あり得な~い」と、ビックリ仰天するに値します。讃美歌がそう証言するだけじゃなく、聖書自身がそのようにはっきりと証言しつづけます。正しい人は1人もいない。マリアも、アブラハムも、ノア、モーセ、ダビデ、ソロモンも例外ではなく、誰もが皆、救われるに値しない罪人である。だからこそその救いは、ただただ恵みなのです。人間にすぎないものを取っ替え引っ替え恐れたり崇めたり祭り上げたりしているうちに、朝から晩までただ人間のことばかり思い煩い、神さまのことが分からなくなってしまいます(マタイ16:23参照)。神さまからの恵みがすっかり水の泡です。ゆるされた罪人の集団にすぎない。ゆるされて、なお罪深さを根深く抱える生身の人間でありつづけます。
「憐れみ。恵み、恵み、恵み」と耳にタコが出来るほど聞かされつづけて、けれど私たちは聞き流しつづけました。謙遜にされ、へりくだった低い場所に据え置かれて、そこでようやく私たちは神さまからの良いものを受け取りはじめました。なぜならば、救い主イエス・キリストご自身がそのように低く身をかがめて(イザヤ書52:13-53:11,ピリピ手紙2:5-11,エペソ手紙4:8-10)、そこで、すべての恵みを差し出しておられるからです。へりくだった、その低い場所こそが、恵みを恵みとして受け取るための、いつもの待ち合わせ場所でありつづけるからです。どうぞ、よい日々を。 (2018,12,23 当教会機関誌の巻頭言から)