2019年4月8日月曜日

4/7「初めに恐れがあった」ルカ5:1-11


            みことば/2019,4,7(受難節第5主日の礼拝)  209
◎礼拝説教 ルカ福音書 5:1-11                       日本キリスト教会 上田教会
『初めに恐れがあった』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
5:1 さて、群衆が神の言を聞こうとして押し寄せてきたとき、イエスはゲネサレ湖畔に立っておられたが、2 そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。3 その一そうはシモンの舟であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、舟の中から群衆にお教えになった。4 話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。5 シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。6 そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。7 そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。8 これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。9 彼も一緒にいた者たちもみな、取れた魚がおびただしいのに驚いたからである。10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。11 そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。(ルカ福音書 5:1-11)

 まず、簡単なこと。1節にある「ゲネサレ湖」とは「漁師だった弟子たちが暮らしを立てていた、あのガリラヤ湖」のことです。一つの湖や山が、こっち岸からは○○湖、向こう岸からは△△湖などといくつかの名前で呼ばれることがあります。
  さて世々の教会は、湖に浮かぶ小舟とそこに乗る救い主イエスと弟子たちの姿に、キリストの教会と自分たちの現実の姿を重ね合わせて、それを大切に聞き取ってきました。大切に噛みしめつづけてきました(それで、多くのキリスト教会の礼拝堂の正面の壁は、ほら、こんなふうに舟の舳先(へさき。船首。舟の前方の先端部分のこと)の形をしています。この舟形を見るたびに、小舟と救い主イエスとあのときの弟子たちの姿を思い起こすようにと)。たびたび吹きつける突風や大波に悩む私たちであり、夜通し働いてもなお一匹の魚も獲れない失望をたびたび味わう私たちです。それでもなお、救い主イエスこそが、私たちの小舟に一緒に乗っていてくださり、「網を打て。突風や大波に恐れるな。魚一匹獲れなくたって、ガッカリするな」と励まします。投げ入れるべき網は主イエスの福音です。湖は、この世界。そして私たちのそれぞれの生活の現場。辿り着くはずの岸辺は、神ご自身が生きて働いておられる神の国であると。そのように主イエスにこそ仕えて一日一日を生きるようにと、主ご自身が私共を招くのです。
 4-5節。主イエスは、沖へ漕ぎ出して漁をせよと命じます。一人の漁師は答えます、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。夜通し苦労して働いたが何も獲れなかった。正直なところ、もうウンザリしている、と私たちも卒直に、ありのままに訴えます。そのように訴えることがゆるされています。しかも主イエスは、夜通し労苦したことも、魚一匹獲れなかったことも、私たちの失望も落胆も、苦々しい溜息も、よくよく分かっていてくださいます。この私たちの現実、私たちの貧しさ、私たちの困難を見ないわけではありません。すっかりつぶさに見て、御心に留めていてくださいます。だからこそ、このお独りの方は私たちの主であられるのです。十分に分かった上で、「よし。それじゃあ沖へ漕ぎだして漁をしてみなさい」と促します。主は、私たちのために収穫を用意し、その喜びと幸いを与えようとして、すでに準備万端です。私たちの現実を乗り越えさせ、私たちの限界を打ち破るほどの、それほどの神の現実があります。あなたのためにも、この私たちのためにもその現実があり、またその主がおられて、主はすでに準備万端なのです。
 8節を見てください。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」とペトロは言います。主なる神さまは生きて働いておられます。その神さまが、今や、こんな粗末な貧しくて小さい私のすぐ近くにおられる。その恵みの現実の大きさが、あの彼を圧倒しはじめています。私たちもそうでした。まず、神への驚きと恐れがありました。その同じ彼が、同じ一人の人が、主イエスを知っていく中で、やがてこう言いはじめるのです;「私から離れないでください」と。さっきは「私から離れてください」(8)と言っていたのが。やがてこの人は「お願いです。どうか、私から離れないでください」と言い始めるのです。「その手に私をしっかりと捕まえて、私を決して離さないでください。なぜなら主よ、私は罪深い者なのですから」(ピリピ3:12,ヨハネ福音書15:4-5,讃美歌333)と。
 神にも周囲の人々にも逆らって「私が私が」と言い立てているとても頑固で罪深い兄弟姉妹たち。私たちは、私たちの小ささや貧しさを知らせる者たちに囲まれています。私たちのいたらなさや欠点を「これでもか。これでもか」と突きつける者たちに取り巻かれて暮らしています。小さな子供のころからそうであり、子供たちの父さん母さんになってからも、年老いてからも、同じくそうです。私たちを恐れさせ、私たちを心細く惨めな気持ちにさせる大きな者たちに囲まれて、私たちは生きています。大きいとか小さいとか、豊かだとか貧しいとか、優れているとか案外たいしたことないとか。互いに品定めをしあい、値踏みしたりされたりしながら、私たちは暮らしてきました。競争と序列と体裁を主張し合う社会であり、さまざまな違いに目くじらを立て合う世界に、私たちは毎日暮らしています。ですから、この私の欠点やいたらなさを人から指摘されると、いつも不愉快で惨めな嫌な気持ちがしました。旗色の悪い元気が出ないときには、「どうせ私は」と落胆し、がっかりしました。元気があるときには、その指摘に「いや。そんなことはない」と猛烈に反発し、抗議し、「そういうあなたこそ」などと反撃したりもしました。
 けれどここでは、世間様や人様がではなく、神さまご自身が彼を圧倒しています。神の恵み深さが、彼をひざまずかせ、ひれ伏させています。しかも、その生きて働いておられる神が、私たちのすぐ近くにおられました。その神さまの恵みの御業を、神ご自身の出来事を、たしかに私たちも見ました。私も見た。その一点が、一人のクリスチャンを誕生させます。神を見失い、その恵みの場所から迷い出てしまいそうだった一人の人が、そこでようやく、クリスチャンとして生きることの幸いと格別な豊かさを噛みしめ直します。この神さまは、私たちのためにも十分に豊かであってくださいます。だから、私たちはとても豊かであってもいいし、あるいは貧しくあってもよいのです(ピリピ手紙4:13。この神は、私たちのためにも強くあってくださる。だから、私たちのそれぞれの働きが大きくても小さくても、どちらでもよかった。この神は、私たちのためにも、十分に生きて働いていてくださいます。だから、私たちの働きが大きくても小さくても、豊かであっても乏しくても、旺盛に精一杯に働く時にも、あるいは、その働きを神さまと兄弟たちに委ねて休むときにも、いずれにせよ、私たちは心強く安らかであることができました。神さまは、この私たちのためにも、あまりに気前よくあってくださいました。だから、私たちは互いに、あなたは貧しいとかいたらないとか、ふつつかであるとか、ふさわしいとかふさわしくないだとか、誠実不誠実などと愚かしく見比べ合うことをしなくても良かった。そうでした。
 「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです」と言うほかない私たちです。けれどもなお、神さまは私たちから離れず、いいえ、それだからこそ、ますます近づいてきてくださいました。どうして。どんなふうにして? ゆるしてくださったからであり、私たちの罪と悲惨とを担ってくださったからでした。それは、ただただ恵みによってです。この神さまを知り、その御前にとうてい立ちえない私である、と知りました。しかも神さまは、その私たちをご自身の御前に立たせるのです。ただゆるしによって。ただ恵みによって。ただただ神ご自身の気前の良さによって。ですから、この一人の、ごく普通の漁師とともに、私たちは自由です。《自分自身を信頼し、自分自身の力と手の働きを頼みの綱として生きなければならない》という重荷をポイと投げ捨てて、私たちは自由です。《大きな私でなければ。豊かな、取り柄も見所もたっぷりある私でなければ》という重荷を投げ捨てて、《何かができる私でなければ》という重圧から、私たちはまったく自由です。なぜなら、私たちの主イエス・キリストがそれら一切の重荷を引き受けてくださったからです。十字架の上の、贖いの血潮によって、引き裂かれたご自身の体によって、無償で、ただ恵みによって、引き受けてくださったからです。「はい。どうぞ」と差し出され、私たちが確かに受け取って、そこに立って生活を築いてきたものを、私たちは《福音》と呼びました。救い主イエスの福音。主イエスからの、私たちのための福音と。
 10節、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。私が、ならせてあげよう。「私から離れないでください。なぜなら私は罪深い者なのですから」と願った私たちに、この主イエスの平安と自由とが与えられました。ゆるされるはずのなかった罪深さや、頑固さ、身勝手さをすっかりゆるされた罪人であるという名前の自由であり、ゆるされた罪人同士であるという名前の平安です。キリストの十字架の犠牲を通して、ただそのことによって、私たちは神さまと和解させていただいています。ただ、そのことによって、神さまのご好意を得ております。その私たちは、それなら、どんなふうに心安く幸いに立って、毎日のそれぞれの生活を建て上げてゆくことができるでしょうか。この51-11節のようにしてです。「夜通し労苦しましたが、魚一匹獲れませんでした。さっぱりでした。散々でした」と私たちは訴えます。突風や大波に揺さぶられる日々に、「私たちは溺れそうです。水浸しになり、この小舟も今にも沈んでしまいそうです」(8:24)と、主の肩を掴んで、しがみついて、私たちも訴えます。なんの遠慮も気兼ねもなく、率直に訴えます。包み隠すことも取り繕うこともなく、精一杯に、ありのままに訴えます。それが、神へと向かう私たちの祈りです。そのように格闘する者は、やがてついに、主なる神さまと親しく出会うでしょう。すでに準備万端である主と。私たちが夜通し苦労したことも、魚一匹も獲れなかったことも、私たちの失望も落胆も、苦々しい溜息も、よくよく知っていてくださる主と出会うでしょう。私たちのそれぞれの現実、私たちの貧しさと困難をつぶさにすっかり見て、心に留めていてくださる主と出会うでしょう。「もちろんそうだ。だからこそ、この方は私の主である」と知るでしょう。この私たちのためにも収穫を用意し、この私にも喜びと幸いを与えようとしてすでに準備万端である主と、私たちはついに出会うでしょう。私たちの現実を越えて、私たちの限界を打ち破り、さまざまな障害を一つ一つ乗り越えさせてくださるほどの、それほどの神さまの圧倒的な現実があります。「しかし、お言葉ですから(5)と、ついに、こんな私たちさえ言うでしょう。手元には網が置かれていました。《神のゆるし。神ご自身の恵み深さ》という名前の網を降ろしてみるでしょう。すぐ目の前の、私たちの足元の湖面へと。

             ◇

 この同じ一つの奇跡は、繰り返されます。聖書の中でも外でも、教会の歴史と私たちの生活の只中で何度も何度も。メモだけしておいて、後でページを開いて確認してほしいのですが、聖書の中ではヨハネ福音書21:1-。主イエスが十字架につけられて殺された後、あの弟子たちは故郷のこの湖に戻ってきていました。そしてまた、以前のように小舟と網を手に入れ、以前のように漁をしているのです。湖に漕ぎだし、夜通し苦労して働いて、けれどそのときもやっぱり魚一匹獲れませんでした。その夜明けごろ、墓から復活なさった主イエスが湖の岸辺に立っていました。けれど彼らには、それが主イエスだとは分かりませんでした。岸辺に立つその人物は、「網を打ってみなさい」(ヨハネ福音書21:6)と奇妙なことを言います。そうしてみました。魚はあまりに多くて、もう網を引き揚げることもできないほどでした。「あ? あのときと同じだ」と気づいて、彼らは、最初に出会ったときのことを思い出しました。初めにあった驚きと恐れを、その感謝と信頼とを、彼らは思い出しました。墓穴から復活なさった主イエスは弟子たちを招きます。改めて、繰り返し繰り返し、この私たちをも招きます。私たちと主との出会いの出発点には、いつもいつも、同じ一つの合図の言葉があります。「私から離れないでください。どうぞぜひ、私と一緒にいらしてください。目を離さないでください。その手に、しっかりと捕まえていてください。なぜなら主よ、私たちは、あまりに罪深い者なのですから」。そして「恐れるな。恐れないあなたとしてあげよう」という約束の言葉を、主から聞きます。くりかえし聞きます。私たちは皆、自分自身の小さな都合ばかりを先立てて、自分の小さな小さな幸いばかりにしがみつこうとして、あまりに罪深い者同士です。とても小さな、弱々しい、それぞれにずいぶんいたらない者同士です。ねえ。例えば、あなたの目の前に立つその伝道者の礼拝説教の言葉は貧しいでしょう。言葉遣いも物腰も態度もあまり上品じゃなく、しばしばガサツであるかも知れません。申し訳ありません。私たちは誰もがたかだか生身の人間に過ぎず、粗末な土の器に宝を贈り与えられた者たち同士です。一人のクリスチャンの姿は、その態度や、何気ない一言や振る舞いが兄弟や友人たちや家族の心を深く傷つけたり、踏みにじってしまうこともあり得ます。「これでもクリスチャンか。それが信仰をもって生きる者のすることか。ああ情けない」と、自分自身に対しても他者についても、私たちは何度も何度も呆れ果てます。
けれど、にもかかわらず、この復活の主イエスから、私たちは離れなくてもよいのです。いいえ、むしろ、とても罪深く、わがまま勝手で、自分の都合と幸いばかりにしがみつこうとする哀れな者同士だからこそ、だから私たちは、このお独りの方から決して離れ去ってはなりません。私が罪深く、あなたも同じくやっぱりかなり罪深いからといって、私たちは互いに背を向けなくても良く、互いに離れ去っていかなくてもよい。あまりに粗末な、貧しくて小さな小さな土の器に、けれど格別に素敵な宝をもつ者同士であるので(コリント手紙(2)4:7。私たちは約束されています。その約束は力強く真実です。見なさい。私たちの只中に、すぐ近くに主がいてくださいます。思い煩いを、心細さを、苛立ちや不安を、なにしろこの救い主イエスに向かってこそ打ち明けなさい。そうすれば、私たちの心と考えとを主なる神さまが守ってくださるでしょう(ピリピ手紙4:5-)。もちろん、ただキリスト・イエスによってこそ。