2019年4月22日月曜日

『死んで、それで終わりじゃない』


コラム
『死んで、それで終わりじゃない』
     金田聖治

 誰でも必ず死ぬ。例外はない。死はしばしば不意に問答無用で訪れる。しかも、死後の生命をほとんどの人は信じない。するとその人々にとっては、行く手に待ち構えているのは虚無と絶望であるほかない。先のことをできるだけ考えず、その日その日、一瞬一瞬をただ面白おかしく生きることを願い、気を紛らわせつづけてただ一回きりの人生をむだに浪費するのだろうか? 恐れながら、みじめに絶望しながら。むかしの人は言った、「生きてるうちが花。死んだら、それでおしまいよ」と。キリスト教信仰の中にさえ、そうした虚無主義が忍び込む。コリント手紙(1)15:32-33に、

もし死人がよみがえらないのなら、「わたしたちは飲み食いしようで はないか。あすもわからぬいのちなのだ」。まちがってはいけない。

飲み食いしようとする理由と中身は、「明日をも知れない生命だ」という絶望と恐怖と、虚しい自己憐憫です。「明日をも分からない生命だ。それならせめて今日は、好き放題に飲み食いする愚かな宴会騒ぎでもしようじゃないか」と。ここで、リビング・バイブル訳は思い切った荒技での翻訳を試みます、「『大いに飲み食いして、愉快に過ごそう。文句があるか。どうせ明日は死ぬ身だ。死ねば、何もかもおしまいなのだから』ということになります」。なるほど。本当にその通り。しかも、その姿は出エジプト記326節の光景とまったく瓜二つです。神をすっかり見失って金の子牛像を造り、明日は祭りだと宣言し、「金の子牛」祭りをしはじめたときの様子と。「民は座して食い飲みし、立って戯れた」「そのあとが大変です。あたりに座り込んで食べたり飲んだりするかと思えば、立って踊りだす者もでるしまつです。とんだ乱痴気さわぎになってしまいました」(口語訳,リビングバイブル訳)。わおっ。その虚しさが目に見えるようです。自分の胸に手を当てて問いかけると、それぞれに心当たりもあるでしょう。復活の新しい生命を見失うことと、神ご自身を見失うこととは、このように同じ一つの虚無への入口です。「もうおしまいだ」と絶望した心で味わうその好き放題なカラ騒ぎはちっとも楽しくないし、豪華な高級料理の数々もおいしくない。ただ虚しく、よけいにますます惨めになるだけ。ね、分かるでしょう? 
たしかに誰でも弱り衰えてゆき、必ず死ぬ。なかなか報われず、誰にも分かってもらえず、心細く苦しく惨めに生きる日々は誰にでもあります。自分の居場所がどこにも見いだせない、私が生きる価値はあるのかと、疑わしく思える日々も。けれど、「死んで、それで終わりではない。だから、しっかりしなさい。揺さぶられることなく、堅く立ちつづけなさい」と聖書は断固として告げる。どうしたら、気をしっかり保つことができるでしょう。世界と自分自身の初めと終わりについての神さまからの約束を、あなたは信じることができますか? この世界全体も、あなたを含めてすべての生命体も、神が祝福のうちにお造りなった。やがて世界の終わりが来て、救い主イエスによる審判をへて、神を信じて生きる者たちは神の永遠の御国へと迎え入れられる。神さまからの約束。この約束の上に立って毎日の生活を生きる。だから、私たちはクリスチャンです。「天の御父の御心なしには、髪の毛一本も虚しく地に落ちることはない」と習い覚えてきましたね。「お母さんのお腹からオギャアと生まれ出たときからずっと、神によって背負われ、抱っこされて生きてきた。だから白髪になってもそうであり、いつでもどんな苦境からでも必ずきっと、その造り主なる神さまが救い出してくださる」(マタイ10:29-31,イザヤ46:3-4参照)。「たとえ私が死の陰の谷を行くときにも災いを恐れません」(詩23と羊たちが晴れ晴れと歌った理由はこれです。一つの死の影の谷をかろうじてようやく乗り越え、かと思うと次の死の影の谷、また次の、また次のと。飢え渇く日々の連続です。いつもいつも豊かな緑の草場、おいしい水のほとりなどと絵空事を夢想するわけではありません。飢え渇きながら困難な旅路を歩む。それでもなお良い羊飼いである神さまが、羊である私を連れ歩いてくださる。この一点を確信しています。だから恐れはなく何の不足もないと。そこでようやく私たちは惜しみつつ、心に刻みつつ日々を生きることができます。お元気で。よい日々を。                 
2019,4,21 当教会機関誌の巻頭言から)