みことば/2019,4,14(受難節第6主日の礼拝) № 210
◎礼拝説教 ルカ福音書 5:12-16 日本キリスト教会 上田教会
『主の御心ならば』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
5:12 イエスがある町におられた時、全身重い皮膚病になっている人がそこにいた。イエスを見ると、顔を地に伏せて願って言った、「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。13
イエスは手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。すると、重い皮膚病がただちに去ってしまった。14 イエスは、だれにも話さないようにと彼に言い聞かせ、「ただ行って自分のからだを祭司に見せ、それからあなたのきよめのため、モーセが命じたとおりのささげ物をして、人々に証明しなさい」とお命じになった。15
しかし、イエスの評判はますますひろまって行き、おびただしい群衆が、教を聞いたり、病気をなおしてもらったりするために、集まってきた。16 しかしイエスは、寂しい所に退いて祈っておられた。 (ルカ福音書 5:12-16)
*1996年4月の「らい予防法」廃止にともなって、該当箇所を「重い皮膚病」と訳語変更しています。
救い主イエスは、重い皮膚病をわずらう一人の人を癒してあげました。まず14節のことを解決しておきましょう。「イエスは、だれにも話さないようにと彼に言い聞かせ、『ただ行って自分のからだを祭司に見せ、それからあなたのきよめのため、モーセが命じたとおりのささげ物をして、人々に証明しなさい』とお命じになった」。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ。どの福音書も、主イエスがどういうお方であるのかを告げ知らせ、人々が主を信じ、主の弟子とされて幸いに生きるようにとその大目標をもって書かれています。それなのに、「誰にも言ってはいけない」などと時々釘をさされました。しかも他の誰によってでもなく、主イエスご自身から。どういうことでしょう。まず汚れた霊たちが「黙れ」と口止めされました。この箇所のように病気を癒された人々と家族も、またご自分の弟子たちに対してさえも、主イエスは「知らせてはならない。黙っていなさい」と度々お命じになりました。(1) 汚れた霊たちやサタンに対しては、主イエスはご自身の正体を決して証言させませんでした。少なくとも、主イエスを信じる人たちや神に感謝して喜んでいる人たちから、神についての良い知らせを聞くほうが良いからです。
(2)癒された人々とその家族に対する口封じ命令は、ゆるやかに寛大になされます。ダメと言われていたのに知らせたからと厳しく叱られた人は一人もいません。少し先の箇所ですが、例えば、死んでしまっていた少女を蘇らせたとき(ルカ8:49-56-)、その部屋へは両親と3人の弟子たちしか一緒に入ることをゆるしませんでした。あのときも今日のこの箇所でも、「誰にも話さないように」。しかし彼らは大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めました。そうせずにはおられなかったのです。また例えば悪霊に取りつかれたゲラサの墓場に住む男を癒してあげたとき、彼にこう仰いました。「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなに憐れんでくださったか、それを知らせなさい」。あの彼は、自分の家族や親しい友だちだけではなく、その地方一帯に主イエスの御業を言い広めはじめました。言わずにはおられませんでした。井戸の傍らで出会ったサマリヤ人の女性の場合にも、まったく同じでした(ルカ福音書8:26-39,ヨハネ福音書4:28-)。
(3) 弟子たちに対しては、いつまでもずっと黙っていろというわけではなく、ほんのしばらくの間の留保です。救い主イエスのことを精一杯にちゃんと十分に伝えるための準備期間です。なぜなら弟子たちは主イエス町々村々へと福音を宣べ伝えるために遣わされ、主イエスの教えを聞き、そのなさる業を目撃しながら成長し、ついに主イエスの証人として世の果てまでも主の御業を告げ知らせる者たちとされるのですから。やがて例えば、イエスの名によって語ることも説くこともいっさい相成らぬと議員たちから言い渡され、脅かされたときにも、主の弟子たちは、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。私は、もう自分でちゃんと判断している」(使徒4:19-20参照)と断固として答えました。これが、クリスチャンの基本の心得です。しかも今では、主イエスご自身は私たちに何も口止めなさいません。それで今日もこうして、大切な親戚の方々やお友だちを心を込めてお誘いし、礼拝に連れてきています。いいえ、「心を込めて誘ったんだけど、今日もまた断られてしまった」という人たちもいますね。大丈夫です。次に誘ったときも、その次もその次も断られたって、あなたがすっかり諦めてしまったのでなければ、願いは必ずかなえられます。私たちは、もう誰からも口止めされていません。もし、あなたがその人に大切なことを精一杯に告げてあげたいと願う場合、どうしたらいいでしょう。例えばこうです。「十字架につけて殺され、神が死人の中からよみがえらせた復活させられたナザレ人、イエス・キリスト。この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下の誰にも与えられていない。本当なんですよ。ですからどうぞ、来てみてください」(使徒4:10-20参照)と。
さて、重い皮膚病を患っている一人の人が主イエスのところに来て、ひれ伏して願いました。主イエスは、この人の願いを受け入れ、病いを癒してくださいました。この人の病いは、病気それ自体として厳しく辛いだけではなくて、生きてゆく現実生活をさまざまに制限し、追い詰め、苦しめました。その病気を恐れ、毛嫌いし、軽蔑する社会のしくみの中で、この小さな一人の人は退けられ、片隅へ片隅へと押しのけられつづけました。心細さの只中に暮らしていました。今、主イエスのところへ来て、ひれ伏して願い求めています。「主よ、御心でしたら、きよめていただけるのですが」。主よ、あなたがもしそう願い、そのように決断してくださるならば、それならば、この私はあなたによって清くされるのです。どうぞ、お願いいたします。
「御心でしたら」というこの人の願い方に、私たちは驚かされます。神さまへの従順と服従の心得だからですし、この私たち一人一人こそが主イエスから直々に教えられ、よくよく知っているはずの弁えだからです。十字架におかかりなる前の晩、主イエスは祈りました。「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」(ルカ福音書22:42)。神さまに何でもお願いして良いという約束です。あれしてください。これもこれもしてください、これはやめさせてくださいと私たちは神さまに何をどれほど願っても良い。しかも、それらの願いに加えて、「しかし私の思いのままにではなく、他の誰彼が言うままでもなく、ただあなたの御心のままになさってください」と。神さまへの信頼と服従です。だからこそ、その分だけ、私たちは自由です。これが、キリストの教会と私たちクリスチャンの基本の心得であるはずでした。胸が痛みます。ぼくは恥ずかしくなります。習い覚えているはずのことをすっかり棚上げして、神さまの御心を片隅へ片隅へと押しのけ、「私はしたいしたくない。私は好きだ嫌いだ。私は気が進む、進まない」などと自分の欲望と願いと自分の腹の思いばかりを先立てて暮らしているこの自分自身に。あるいは生身の教会の生臭すぎる現実に。神さまへの信頼と従順を見失ってしまうとき、私たちはどこまでも転がり落ちていきます。だから、ここで目を凝らさねばなりません。不思議なことにこの人は、身を屈めて主を仰いでいます。御心ならば、と。もし御心に叶うならば。つまり! 御心に叶わないならば、していただかなくて結構です。私の願い通りではなく、あなたの御心にこそ従います。主イエスは、「あなたが癒されることが父なる神と私の心だし、願いだ。そうなりなさい」と。救い主イエスこそが、こんな私のためにさえ最善を願ってくださり、私にとっての最善を決断してくださる。しかも私たちは、主がそのように真実に願い、決断してくださる方だと知っている。だから、ここに来た。だからここに、主イエスの御前に膝を屈めている。この人のように、神さまへの一途な信頼と従順を、ぜひなんとかして、この私たち自身のものとさせていただきたいのです。
14節のつづきです。「誰にも話すな」と仰りながら、けれど祭司に体を見せ、清められたものの感謝の献げものをささげて人々に証明しなさい、と指図なさいます。彼は、これまでその病気を患っているという理由で、これまで社会から、世間の方々から排除されて生きてきました。病気が治り、体が回復するだけでは足りません。社会の大事なかけがえのない一人であることもまた、回復されねばなりません。そうであるならば、何を証明しましょうか。誰に、証明しましょう。あの彼も、ここにいる私たちも、主の憐れみを受けた者です。その憐れみによって立ち上がり、足を踏みしめて立ち、歩く者とされました。受けた憐れみは、私たちの歩みの出発点にすぎなかったのでしょうか。最初の、ほんのちょっとしたきっかけでしょうか。いいえ。その後は、それ以前と同じく、自分自身の責任と自分の決断と自分の努力によって歩んでいるでしょうか。自分の力にこそ頼って、日々の悪戦苦闘を勝ち抜き、立っているでしょうか。いいえ、決してそうではありません。いったい何を証明しましょう。「気の利いた、立派なあれこれを」ではありません。「私はあれが分かっている、これもこれもできる」ではありません。「私は」ではなく、「神さまこそが」。「私が何をしたか何ができるか」ではなく、「神さまがこんな私のためにさえ何をしてくださったのか」。主イエスの弟子とされた方々。いつでも、私たちにとって大切な意味をもつことは、私の回心、私の信仰、あるいは私の立派な善い行ないなどではありません。そんなことはどうでもいいのです。ただただ神さまの善と恵み、神さまの寛大で心優しい救いの御心こそが私たちの救いの土台でありつづけます。苦しむ人を助けるために、主イエスは手で触れる場合があり、手で触れない場合もありました。遠く離れたままで、「清くなりなさい。治りましたよ」とただ言伝を頼むだけの場合さえありました。けれどあの彼の場合には、手を差し伸べる者が他には誰もいませんでした。誰も彼もが、その手を引っ込めました。だから! わざわざ手を差し伸べ、その手でじかに触れてくださる必要があったのです。神であられる方が、どのようにして手を差し伸べることができたでしょう。高い所におられる方が、にもかかわらず低く身を屈めさせられた者たちにその手を本当に届かせる。そのためには、救い主イエスは低く低くくだって来なければなりませんでした。地を這うような絶望、心細さを味わう捨て去られた人々がいます。あのときの彼らの中にも。今ここにいる私たちの間にも。主は本当に手を届かせるために、自ら捨て去られ、恥を受け、軽蔑され、退けられ、はげしい痛みに身を委ねねばなりませんでした。
「もし御心でしたら」と願い求められ、直ちに手を伸ばしてその人に触り、「そうしてあげよう。清くなれ」と仰り、そのとおりに清められた。『御心』は、救い主イエスの心であるだけでは全然足りません。父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神の、その神の一つ思いになって働かれる御心です。救い主イエスは、御父から命じられたこと以外は一切しないという心です。御父は、救い主イエスを指差して、「これこそ私の心にかなう者。これに聴け」とすべて一切を御子イエスに委ね、託する心です。聖霊なる神は、救い主イエスを証しし、救い主イエスを信じさせる心です。そうであり続けるために、主イエスは折々に寂しいところに独り退いて、父なる神の声を聴きつづけます。それが救い主イエスの祈りですし、生き様そのものです。4章の終わり42節でも「イエスは寂しい所へ出て行かれた」と、今回も16節で「しかしイエスは寂しい所に退いて祈っておられた」と。父よ、あなたの御心にかなうことでしたら、私はします。かなわないことなら、何一つ決してしませんと。このように一つ思いになって働く神の御心にかなって生きることを私たちも願っています。だからこそ、私たちは祈りつづけ、神の御声に聴き従いつづけます。「私の願い通りではなく、ただあなたの御心に聴き従って生きる私たちであらせてください」と。
◇ ◇
ここで私たちは改めて、クリスチャンであることの広々とした土台を差し出されています。あの彼のように私たちも、主イエスのもとへと来るようにと勧められました。主イエスを信じるようにと。主イエスを信じて、そのことを拠り所として毎日毎日の暮らしを生きるようにと。主イエスに寄りかかり、重荷と悩みと心細さのすっかり全部をお任せして、安心して憩うようにと。主イエスにこそ信頼を寄せ、心細さや恐れを拭い去っていただくようにと。この世界には落とし穴や思いがけない災いや苦難が満ちています。しかも私たち自身は身も心も弱く乏しい。それでもなお主イエスとが共にいてくださるなら、私たちには乏しいことがない。恐れもない。私たちの主であられる神さまは、この私たち一人一人のためにも善い業を成し遂げてくださろうとして準備万端です。なぜでしょう? 主は私たちを愛してくださっているからです。しかも主は、困難なことの多い世界の只中で私たちが心細く、乏しく暮らしていることをよくよくご存知だからです。