2019年4月30日火曜日

4/28こども説教「罪深い人々のために」使徒7:51-53


 4/28 こども説教 使徒行伝7:51-53
 『罪深い人々のために』
                       ~ステパノからの証言⑧~
7:51 ああ、強情で、心にも耳にも 割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである。52 いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった。53 あなたがたは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」。          (使徒行伝7:51-53

 ユダヤ人の議会に力ずくで連れてこられて、そこで、主の弟子ステパノの証言がつづいています。神の国の福音についての証言です。
  神の民とされた人たちの、神に逆らいつづける、とてもとても悪い罪の姿があばかれています。神の律法が与えられ、多くの預言者が語りかけ、立派な美しい神殿さえ与えられ、聖書の言葉を聞いている。けれど、ほとんどの者たちにはそれらは何の役にも立たなかったと厳しく責められています。「正しい方が来る」、それが救い主が神から遣わされてこの世界に来ることです。しかも正しい方、つまり救い主イエスを彼らは裏切り、殺してしまいました。51節、「ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである」。それは先祖と、この私たちのことです。けれど、その強情で、心も耳もとても頑固で、神に逆らいつづける罪人をゆるして救うために、救い主イエスの生命が差し出されました。聖書自身も証言します、「神が私たちの味方です。ご自身の御子をさえ惜しまないで、私たちすべての罪人のために死に渡されたかたが、どうして、御子イエス・キリストだけでなく、すべての良いものを贈り与えてくださらないことがあるでしょうか。いいえ、そんなはずは決してありません」(ローマ手紙8:31-32参照)。この同じ一つの福音の良い知らせを聞いて、あの彼らは激しく怒っています。嫌な気持ちになって怒る人たちと、わあ嬉しいと喜ぶ人たちと、いつも両方の人たちがいつづけます。

4/28「医者である神、重病人の私たち」ルカ5:27-32


               みことば/2019,4,28(復活節第2主日の礼拝)  212
◎礼拝説教 ルカ福音書 5:27-32                        日本キリスト教会 上田教会
『医者である神、
重病人である私たち』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
5:27 そののち、イエスが出て行かれると、レビという名の取税人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。28 すると、彼はいっさいを捨てて立ちあがり、イエスに従ってきた。29 それから、レビは自分の家で、イエスのために盛大な宴会を催したが、取税人やそのほか大ぜいの人々が、共に食卓に着いていた。30 ところが、パリサイ人やその律法学者たちが、イエスの弟子たちに対してつぶやいて言った、「どうしてあなたがたは、取税人や罪人などと飲食を共にするのか」。31 イエスは答えて言われた、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。32 わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。          (ルカ福音書 5:27-32)

 神ご自身である救い主イエスは、片田舎の小さな町の、貧しい大工の息子として育ちました。初めにこの方の弟子とされたのは、ごく普通の無学な漁師たちでした。次に弟子とされたのは、人々から嫌われ馬鹿にされていた取税人でした。オギャアと生まれる場所のためには、わざわざ家畜小屋のエサ箱を選びました。神の国の教えを広める弟子としては、漁師や取税人たちを、無きに等しい者たちを わざわざお選びになりました(コリント手紙(1)1:26-31を参照)。そこには、はっきりした理由があります。私たし人間の小さな小賢しい知恵や力や賢さによらず、そんなものには全くお構いなしに、神ご自身の知恵と慈しみによって救いを成し遂げてゆくために。
  27-28節。取税人のことは、少しは説明しておきましょう。なぜ彼らが人々から嫌われ馬鹿にされ、仲間外れにされていたのか。そのころユダヤの国はローマ帝国の植民地にされ、ローマの国の言いなりにされていました。取税人はユダヤ人からお金を集めて、そのほとんどすべてをローマの国に渡しました。家に住むための税金、道路や橋を渡るための税金、食べ物を買うための税金、いろいろな形で集められたたくさんの税金は、しかしユダヤ人のためにではなく、もっぱらローマの国のためだけに使われました。ユダヤ人たちはローマの国にたくさんの税金を払うのも、好きなように利用されるのも、言いなりにされて支配されるのも嫌でした。「そんなことはしたくない。私たちは嫌だ」と言いたかったのです。けれど相手の方が強かったので、逆らうことが出来ませんでした。心の中では、彼らはローマの国を憎みました。また心の中では、言いなりにされて「はい。分かりました。いいえ喜んで従いますよ、はいはい」と従っている自分たちのあり方も大嫌いでした。けれどローマの国や自分自身の悪口を言う代りに、ローマ帝国の手下とされているあの取税人どもの悪口を言いました。自分たち自身の不甲斐なさに腹を立てて嘆く代わりに、あの彼らを馬鹿にしました。自分の不幸や貧しさを彼らのせいにしました。すると、少しは心が晴れました。貧しい不幸な時代には、またそういう貧しく淋しい社会では、小さな子供も大人たちも、人間はそういうふうに誰かを馬鹿にしたり、いじめたり憎んだり、仲間外れにしたりするのです。自分の辛さや惨めさをその誰かに肩代わりさせて、それで心の憂さを晴らすために。彼らを踏みつけて惨めにさせて、その分だけ、ほんのちょっと良い気分になろうとして。けれどご覧ください。その踏みつけられた惨めな人々の傍らに寄り添って、そこに 私たちの救い主イエス・キリストが立っておられます(マタイ10:42,18:1-6,25:31-46
  29-30節。主イエスの弟子にしていただいた元・取税人の彼は、友達を大勢招いてパーティーを開きました。どうしてでしょう。何のためでしょうか。とても嬉しかったからです。その喜びをぜひ分かち合いたい、と願ったからです。昔からの友だちや、家族や仕事仲間たち。元・取税人の彼はその人たちをとても大切に思っています。しかも、救われた今となっては、「その一人一人にとっても、主イエスと出会うことが嬉しく心強いことにちがいない。彼らにも格別な喜びや力を与えるだろう。彼らの魂もまた、救い主を必要としている。それがあれば彼らはどんなに慰められ、心強いだろうか」と知っているからです。あの友だちもそうだ。この人もこの人もと。さて、ここでも、信仰のことや神様のことをよく分かっているはずの人たちが怒ったり、文句を言ったり馬鹿にしたりします。文句を言っている信仰の指導者たちの考え方や物の見方をよくよく観察しておきましょう。プンプン腹を立てているあの彼らは、私たちのための『悪い先生。真似をしてはいけない悪い手本』であるからです。「なぜ、あんな人たちと一緒に飲んだり食べたりする?」と彼らは言います。どうしてなんだろうかと質問しているのではありません。腹を立て、嫌~な気持ちになって、非難しているのです。「主と共に座るその喜ばしい食卓には、あの人たちはふさわしくない。いいえ、この立派な私たちこそがふさわしい」と言いたいのです。
 では質問。神さまの御前でのふさわしさとは、一体どんなものだったでしょうか? コリント手紙(1)1:26-31は、それをはっきりと物語ります。「愚かな者。弱い者。身分の低い者、軽んじられている者を。無きに等しい者を、神ご自身がわざわざ選んだ」のだと(ほかにもコリント手紙(1)4:6-,9:22,11:30,ローマ手紙4:17,ルカ福音書1:48-54,マルコ福音書10:31,マタイ福音書18:3,20:26)。私は何でもよく知っている、分かっている、私はとても強く賢いと思い込んでいる者をはずかしめるために。どんな人間でも、神さまの前でも人様の前でも誇ったり自惚れたり思い上がってしまうことがないために。そのために、わざわざそうした。もちろん、あなたや私に対してもまったくそうだった、と。これらの言葉を繰り返し聞きつづけながら、朝も晩も読み返しながら、なおいつの間にか分かったつもりの、ずいぶん偉そうな私たちです。とても賢いつもりの私たちであり、分かっているつもりの、豊かで強いつもりの、大きな大人物のつもりの、しっかりしているつもりの私たちです。神の前でも人様の前でもずいぶん誇っている。あるいは逆に、なんだかいじけて首をすくめている。誇ることもいじけることも、同じ一つのことです。どっちにしても主なる神ご自身を誇ることからずいぶん遠い。ですから、知恵あるつもりの私たちは、その自分自身の知恵について恥をかかねばなりません。力あるつもりの私たちは、その私たちの力について恥をかかねばなりません。そこそこの地位と名誉を手に入れている私たちは、そのそこそこの地位と名誉について恥をかかされ、無力な者とされねばなりません。あなたも私も、まだまだ恥をかき足りません。その浅はかな知恵があるために、神の知恵に本気になって聞くことができないでいるからです。その小さな力があるために、神の力に信頼することができずにいるからです。そのそこそこの賢さとほどほどの強さがあるために、神の賢さと強さを願い求めることも、「はい。ありがとう」と受け入れることもできずにいるからです。誇るとは何でしょうか? 「それがあるから私は安心だ。心強い」と信頼し、支えとし、頼みの綱とすることです。振り返ってみて、神の前でも人様の前でも、自分自身に向かっても、私たちはあまりにたくさんのものを支えとし、拠り所としています。多くのものを頼みの綱としています。その私たち自身のどこに、主ご自身をこそ誇る余地があるでしょう。例えば一日が終わって、私たちはその日を振り返って「よく働いた。私はよくやった」などと思うのです。あるいは「まあまあ、よくやった。ほどほどだった」などと。順調な日々にも、悩みを抱えて途方にくれる日々にも、私たちは私たち自身とその手の働きを思います。そして周囲の人々やモノを眺め回します。私たちの働きと知恵と賢さと、私たちの強さと弱さと、私たちの賢さと愚かさと、私たち自身の豊かさと貧しさと。では、一体どこに神がおられるのでしょうか。この私たち自身の毎日の生活の中の、その眼差しと腹の据え方の中の、一体どこに、生きて働いておられます神がいるでしょうか。私たちは何者だったでしょう(申命記7:16-10,8:11-20,9:4-5参照)
 31-32節。神ご自身の救いの御業と祝福について、ついにとうとう救い主イエスはお答えになります;「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と。精一杯に働くときにも、心を尽くして誰かに親切にしてあげるときにも、この私たちこそははっきりと思い起こしておきたいのです。救い主がこの地上に来たのは罪人を招くためであり、その罪と悲惨さから救い出し、神の恵みとゆるしのもとへと立ち戻らせるためでした。神にも人様にも逆らいつづけ、「私が。私こそが」と頑固に言い張りつづけ、自分にこだわりつづけることを聖書は『罪』と名づけました。あまりに罪深い私たちです。ここで、その『罪』を『病気』と、『罪人』を『重い病いを患う今にも死にかけている重病人』と救い主イエスご自身が言い換えています。罪人は病人のようです。その病人をかわいそうい思って、なんとか健康な心を取り戻させてあげたいと心を砕きつづける神は、医者である神です。十分に健康だから、十分に正しくふさわしいからと招いたのではありません。そうではなく、その病人のような罪人をあわれむからであり、滅びるままに捨て置くことなど出来ないと惜しんでくださったからであり、ぜひとも救い出してあげたいと切望してくださったからでした。しかも神に逆らうことをすっかり止めた素直な正しい人間など一人もいない。その病人である罪人を救うためにこそ、救い主イエスはこの世界に降りてきてくださった、と聖書はきっぱりと証言します(ローマ手紙3:9-20,テモテ手紙(1)1:12-17。あなたも、この私自身も、死にそうな重い病いを患う病人でした。いいえ、いまなお病人です。わたしは正しい。私はちゃんとやっている。私は私は」と言い立てて止まない病気があります。「人からどう思われるだろ。どう見られてしまうか」と恐れてビクビクする病気があり、「認められたい。受け入れてもらいたい。それなのにどうして」と飢え渇きつづける病気があり、「けっして忘れない。ゆるせない」と憎みつづける病気があり、「貧しい。豊かだ。有り余っている。不足している。それに比べてあの人は、この人たちは」と目くじら立てて見比べつづける病気があります。夏風邪くらいに甘く見て、うまいものでも食べてグッスリ眠ればそのうち治るとでも思っていたのですか。いいえ、とんでもない。これこそ死に至る病気です。この病気は、あなたの命にかかわります。おもな症状――かたくなさ。了見が狭く、意固地で偏屈。冷淡な批判がましさ。なんとなくイライラすること。悪口や陰口。ごうまんと卑屈。次々とわきあがる恐れと不安。ウツウツ、モヤモヤとした気分。溜め息。物足りなさや淋しさ、心細さ。その他いろいろ。神さまご自身にしか癒せない、あまりに危険な重い病気があり、私たちは度々この病気のとりこにされました。医者のような神であり、病人のような私たちです。いいえ。医者である神さま。病人である私たち。どの一人も例外なくかなりな重病人です。自分が病気だとは知らないでいる病人たち。どの医者にかかっていいか分からずに途方に暮れている病人たち。どうせ無理だ、手遅れだと絶望している病人たち。そして、この私たちこそは十分な良い医者ととうとう出会って、病気を治していただいている途中のとても幸いな、あまりに恵まれた病人たちです。
 さあ、兄弟姉妹たち。あの宴会の場面を覗いてみましょう。元・取税人のレビという男が、照れながら、ちょっと緊張しながら挨拶しています;「皆さん、今日はよく来てくださいました。私は主イエスと出会いました。この方です。主イエスと言います。主であられる神さまと言います。主というのは、ご主人さまであり、『主治医』という意味です。私の病気と健康にこの主治医こそが全責任を負ってくださり、必ずすっかり健康にして、幸せに生きてやがて幸せに満ち足りて死んでゆくことさえできるようにしてくださる、と太鼓判を押してくださいました。しかも治療費はタダです。びっくりでしょ。まさか、この自分が病気だなんて思っていなかったので、『お前は病気だ。放っておくと死んでしまうぞ』と最初に言われたとき、腹が立ちました。イカサマ野郎だと思いました。でもだんだん健康になってきて、それがとても嬉しくて ぜひ、みなさんと一緒に喜びたいと思いました。「とっても素敵で愉快なパーティがあるんだよ。一緒に行こ。ね。頼むから。騙されたと思って、試しにまず一回来てみて。頼むから」と誘いました。ぜひ、この方と出会っていただきたくて、今日ここにお招きしました。どうぞ遠慮なく、このお医者さんに診てもらってください」。税金取立て人のレビの仲間たちはワイワイ楽しみ、大いに食べたり飲んだりし、語り合いました。その診療所の医局長である救い主イエスは、そこでなんと挨拶なさるでしょう。例えばこうおっしゃるかも知れません;「私は医者です。しかも自慢するみたいですが、かの有名なブラックジャック先生の千倍も万倍も腕がいい。しかも誰にも思い浮かべられないほどにも大金持ちなので、治療費はタダです。なにしろ病人がわたしの所に来てくれると嬉しい。しかも特に、誰にも治せないような、とてもとても難しい病気の、今にも死にそうな、どの医者からも見放されたような難しい病人が来てくれると嬉しい。死んでいた者が生き返り、いなくなっていた者を探し出せると、とても嬉しい。あなたの病気も治してあげますよ。あなたも、あなたも。このあと早速一人一人診てげましょう。名前を呼ばれたら診察室に入ってきてください。じゃあ乾杯」(ルカ福音書15:7,10,24を参照)。この風変わりなお医者さんの診察室は、お祝いパーティの宴会場でもあります。それがキリストの教会であり、毎週毎週、日曜日毎の礼拝で起こっている出来事です。お祝いパーティの真っ最中に、診察と治療も同時進行で行われつづけます。その一風変わった病院のお祝いパーティ兼、診察・治療は、この2000年の間くりかえされつづけています。世界中のあちこちで、町中でも田舎でも、主イエス病院の分院、診療所が建てられました。私たちもその同じ診察室の、一つの食事の席に連なりつづけます。主イエスと共にある憐れみの食卓に。救い出された罪人たちが薬を飲みながら、傷に包帯を巻いていただきながら、飲み食いしたり、歌ったりして座っています。「健康な人に医者はいらない。いるのは病人である。救い主イエス
・キリストがこの世界に来てくださったのは、義しい人を招くためではなく、罪人である重病人を招いて悔い改めさせ、新しい、健康で晴れ晴れした生命を贈り与えるためである」。なんという恵み、なんという喜びでしょう。
祈りましょう。


2019年4月22日月曜日

4/21こども説教「人が造った神殿ではなく」使徒7:44-50


 4/21 こども説教 使徒行伝7:44-50
 『人が造った神殿ではなくて』
               ~ステパノからの証言⑦~

7:44 わたしたちの先祖には、荒野 にあかしの幕屋があった。それは、見たままの型にしたがって造るようにと、モーセに語ったかたのご命令どおりに造ったものである。45 この幕屋は、わたしたちの先祖が、ヨシュアに率いられ、神によって諸民族を彼らの前から追い払い、その所領をのり取ったときに、そこに持ち込まれ、次々に受け継がれて、ダビデの時代に及んだものである。46 ダビデは、神の恵みをこうむり、そして、ヤコブの神のために宮を造営したいと願った。47 けれども、じっさいにその宮を建てたのは、ソロモンであった。48 しかし、いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない。預言者が言っているとおりである、49 『主が仰せられる、どんな家をわたしのために建てるのか。わたしのいこいの場所は、どれか。天はわたしの王座、地はわたしの足台である。50 これは皆わたしの手が造ったものではないか』。 
(使徒行伝7:44-50

  主イエスの弟子ステパノの証言がつづいています。
 神さまといっしょに歩んできた長い歴史が振り返られつづけます。荒野を旅していた40年の間、組立式のテントを担いで彼らは旅をつづけました。組立式の移動式の、粗末なテント仕立ての神殿。それが、そのときの神殿です。やがて立派な神殿がソロモンのときに建てられました。けれど勘違いしないようにと、その時もよくよく釘を刺されていました。48-50節、「しかし、いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない。預言者が言っているとおりである、『主が仰せられる、どんな家をわたしのために建てるのか。わたしのいこいの場所は、どれか。天はわたしの王座、地はわたしの足台である。これは皆わたしの手が造ったものではないか』」(列王記上8:27-53参照)たとえそれがどんなに立派に見えようとも、たかだか人間の手で造った神殿などに神は住むはずがない。いいですね。やがて時が来て、救い主イエスは「人間の手で造った神殿を打ち壊し、神ご自身の神殿を三日で造る」と。十字架の上で殺され、その三日目に死人の中からよみがえった救い主イエスを土台として、まったく新しい神殿が建てられました。例えばこの上田の礼拝堂も、人間の手で造った神殿ではなく もちろん救い主の死と復活を土台として神ご自身によって造られた神の神殿の一つです。電気工事をする職人さんや、ペンキ屋さん、大工さんたちでこの家を造ったと思っていたでしょう? いいえ、そうじゃないんですよ。神さまが、ご自分の手で、建ててくださいました。ビックリですね。それだけでなく、神さまは、ご自身を信じる一人一人の体をご自身の神殿として、その体の中に住んでくださると約束なさいました。主イエスを信じる私たち一人一人が、今や、神の新しい神殿とされています(ヨハネ福音書2:19,コリント手紙(1)3:16-17,6:19-20。「この自分の体の中に神が住んで、そこで生きて働いておられる」と私たちはよくよく分かっていましょう。驚くべきことです。



4/21「私たちの罪をゆるす救い主」ルカ5:17-26


                   みことば/2019,4,21(イースター礼拝)  211
◎礼拝説教 ルカ福音書 5:17-26                         日本キリスト教会 上田教会
『私たちの罪をゆるす救い主』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
5:17 ある日のこと、イエスが教えておられると、ガリラヤやユダヤの方々の村から、またエルサレムからきたパリサイ人や律法学者たちが、そこにすわっていた。主の力が働いて、イエスは人々をいやされた。18 その時、ある人々が、ひとりの中風をわずらっている人を床にのせたまま連れてきて、家の中に運び入れ、イエスの前に置こうとした。19 ところが、群衆のためにどうしても運び入れる方法がなかったので、屋根にのぼり、瓦をはいで、病人を床ごと群衆のまん中につりおろして、イエスの前においた。20 イエスは彼らの信仰を見て、「人よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。21 すると律法学者とパリサイ人たちとは、「神を汚すことを言うこの人は、いったい、何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」と言って論じはじめた。22 イエスは彼らの論議を見ぬいて、「あなたがたは心の中で何を論じているのか。23 あなたの罪はゆるされたと言うのと、起きて歩けと言うのと、どちらがたやすいか。24 しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威を持っていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに対して言い、中風の者にむかって、「あなたに命じる。起きよ、床を取り上げて家に帰れ」と言われた。25 すると病人は即座にみんなの前で起きあがり、寝ていた床を取りあげて、神をあがめながら家に帰って行った。26 みんなの者は驚嘆してしまった。そして神をあがめ、おそれに満たされて、「きょうは驚くべきことを見た」と言った。
                                                      (ルカ福音書 5:17-26)


  17-20節。体の不自由な一人の人がいました。救い主イエスとなんとかして出会おうとして、このただお独りのかたそが自分を救ってくださると深く確信しました。しかも、この人のためには、同じ一つの確信と希望をこの人と分かち合う四、五人くらいの人たちがいました(確かな人数がここに記録されていません。マルコ福音書だけは四人と。戸板の四隅に一人ずつとして最低四人、ほか一、二名いれば交代交代しながら運ぶことができます)。身動きできないこの人は、救急車の担架のような戸板に寝かされたままで、主イエスのみもとまで運ばれてきました。20節で、主イエスは「彼らの信仰を見た」と報告されています。その人たちの信仰。読むたびに、ここで考えさせられます。まず、その四、五人の仲間たちの信仰。それは、心にかけて大切に思う一人の友だちや家族を、その愛する人を主イエスのもとへと運んでくるという信仰です。主イエスこそがこの人を救い、心強く支え、立たせてくださると確信し、その一つの願いを心底から願い求める信仰です。次に、戸板に乗せられて運ばれてきた、この一人の人の信仰。それは、信頼して身をゆだねるという信仰です。この五、六人の信仰を、私たちもよくよく見つめたい。だって私たちは、まるで挨拶のように「まあご立派な信仰ね。それに比べて私の信仰なんかまだまだ」などと、互いの信仰の大きさやグラム数を計り、値踏みし、自分に対しても他者に対しても品定めしあいます。けれど聖書自身が語る信仰は、『私は何かを知っている。何かができる。何かをちゃんと分かっている』という類いの信仰ではありません。四、五人の仲間たちは、大事に思っている一人の人を主イエスのもとへと連れてきました。「慰めることも励ますことも支えることも、私たち人間には不十分で足りないところだらけだが、しかし主イエスこそが救ってくださる」と信じて、ぜひそうしていただきたいと願って、彼らは連れてきました。主ご自身のお働きにこそ一人の家族を、大切に思う一人の友人を委ねました。戸板に寝かされ運ばれてきたこの一人の人は、寝かされるままに寝かされていました。運ばれるままに、ただ運ばれてきました。神さまにも、友人たちにもゆだねて、神さまを仰いでいました。『私がする』ではなく、『この私のためにも、私たちのためにも、きっと必ず主こそがしてくださる』と。神さまを仰ぎ見る信仰は、委ねて待ち受ける信仰です。待ち受けて、受け取ろうとする信仰です。悩みをもって、担いきれない重い課題を抱えて、辛さや苦しみを抱えて、けれどそこで、だからこそ一途に、救い主イエス・キリストへと愚直に向かう信仰ではありませんか。
  しかしこの五、六人ほどの人々の願いと、主イエスからの答えは食い違っています。体の不自由だったあの人と友人たちは、『起きて歩けること』を願っていたはずです。起きて歩けること。団地の階段を上ったり下ったりできること。やがて近所のスーパーまで出かけていって、買い物ができること。若い頃のようにスタスタ歩いてどこへでも出かけてゆき、思う存分に働いたり、食べたり飲んだり、景色を眺めたり、遠くの町に住む親しい友だちを訪ねたり。あるいは自分の寿命が何ヶ月か何年か伸びて、その分よけいに、あともう少しの間、楽しく愉快に過ごせること。つまりは、いま目の前にある困難や不都合が解決することを。けれど20節、主イエスは、「人よ、あなたの罪はゆるされた」と宣言なさいます。このズレは何でしょうか。23節。さらに主は、この二つを並べて質問をなさいます;「『あなたの罪はゆるされた』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがたやすいか」。さて、どっちでしょうか? 主イエスご自身の見解は明らかです。『起きて歩くことや、スーパーで買い物をしたり、遠くの町に住む友だちに会いに出かけてゆくこと』のほうが、より簡単。いっそう難しい『罪のゆるし』を何よりまず、あなたのために断固として宣言し、保証したというのです。困りました。「私の目の前にある、いま現に私に立ち塞がっているこの困難と悩みこそが大問題だ。これこそ、私のすべてだ。これさえ解決するなら後は何も望まない。あとは、晴れ晴れ清々として暮らしていけるはずだ」「今の私があまり幸せではない理由は、コレとコレとコレ。こういうことさえ無くなれば」と私たちは心から望みます。その通りです。しかしなお私自身に向かってこう問わねばなりません。本当にそうだろうか。今、目の前にあるこの重い課題が解決するなら、私はそれで幸福になれるだろうか。そもそもこの私は、いったい何が望みなのか?

              ◇

 主イエスは、「あなたの罪はゆるされたのだ」と宣言なさいます。これを不満に思い、反発する者たちがいます。律法学者たちです。信仰の権威者であり指導者・リーダーである彼らが、信仰の道理も世間の道理も、この自分たちこそがよくよく分かっていると思い込んでいた人たちが、どうしたわけか心の中でプンプン怒っています。
 そう言えば私たちも、ちょくちょくこの律法学者やパリサイ人たちみたいになって、プンプン怒ったり、機嫌を悪くしたり、嫌~な気持ちになったりしますね。みんな、だいたい同じようなものです。
21節、「この人は神を汚すことを言っている」と。なぜなら、神おひとりの他に罪をゆるす権威も力ももってはいないからです。またもや、罪の問題です。「平安や、晴れ晴れとした慰めを求めてきたのに、罪だ罪だと、罪人だからゆるしてもらえなどと、教会ではそんなことばかり語られる。バカにされたような気がする。別に警察に捕まったわけでもないのに、法律に背いて刑務所に入れられたわけでもないのに。人様にたいした迷惑をかけているわけでもないのに、それなりにきちんと生きてきたし、税金も払っているのに。いったいどういうつもりだ」と叱られ、嫌な顔をされます。「ただ罪と言われても分からないと言われ、それじゃあと丁寧に説明し始めると、「分かった分かった。もういい」とたいてい不機嫌になります。けれど、どうぞお聞きください。聖書が語る『罪』とは、なにより自分の好き嫌いや、したいとかしたくないとかその時々の気分を先立てて、神さまに逆らうことです。神さまにも人様にも余計な指図は受けたくない、自分の思い通りに好きなように生きてゆくと逆らいつづけて、「私が私が」と我を張って、ますます心を頑固にさせつづけること。これが罪の土台であり出発点です。私たちの最も奥深いところにある心の病気です。神さまとの関係が壊れてしまう。すると、そこから様々な惨めさや苦しみが末広がりに生み出されてゆきました。自分と他者との関係がゆがみ、壊れ去り、自分とこの世界との関係が崩れ、私は『あるべき喜ばしい私自身』を見失い、恐れと不安と物寂しさの暗闇に閉じ込められてゆく。自分はいったい何者なのか。どこに足を踏みしめて立っているのか。何を目指して何を願って生きているのかを見失って、どこまでもさまよい出てゆく私。『神さまに逆らうこと』から始まるこの惨めさや心細さから、私たちは、自分自身の力によっては救い出されません。『罪をゆるす』とは、その惨めさや心細さから、その深い絶望から救い出すことです。どこへ向かってでしょうか。神さまの憐れみのもとへと。隣人や愛する家族のもとへと。大切な友人たちや仲間たちのもとへと。『あるべき喜ばしい自分自身』へと。本人も周囲の人々も『体が不自由だ』と思い込んでいました。けれど体ばかりではなく、この彼も私たち自身もむしろ『心こそが小さく凝り固まってしまって、とてもとても不自由』でした。そのために周りの人々を苦しめ、自分自身をも狭い場所に閉じ込め、苦しみつづけてきました。それなら、いったい誰が、この私を救い出してくれるのでしょう。ぜひ知りたい。いったい誰ができるのか?  神おひとりのほかに、誰ができるだろうか。だれも出来ない。ただ、神だけができる。神にできないことは何一つないのだから(創世記18:14,エレミヤ書32:17,27,ゼカリヤ書8:6,マタイ福音書3:9,19:26,ルカ福音書1:36,-37,ローマ手紙4:17,19-21)。しかも、神さまへの従順と服従こそがこの信仰の土台であり、中身です。先週もお話しましたが、また話します。十字架におかかりなる前の晩、主イエスは祈りました。「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください(ルカ福音書22:42)。神さまに向かって何をどんなに願い求めてもよいと約束されています。あれしてください。これもこれもしてください、これはやめさせてくださいと私たちは神さまに何をどれほど願っても良い。しかも、それらの願いに加えて、「しかし私の思いのままにではなく、他の誰彼が言うままでもなく、ただあなたの御心のままになさってください」と。つまり、強情を張って私の願いや考えにこだわりつづけ、それを押し通そうと頑固になることではなく、神さまへの信頼と服従です。だからこそ、その分だけ、私たちは自由です。その分だけ、私たちは身軽で晴れ晴れ清々となることができます。これが、キリストの教会と私たちクリスチャンの基本の心得であるはずでした。だからこそ胸が痛みます。ぼくは恥ずかしくなります。習い覚えているはずのことをすっかり棚上げして、神さまの御心を片隅へ片隅へと押しのけ、「私はしたいしたくない。私は気に入った、なんだか気に入らない。私は気が進む、進まない」などと自分の欲望と願いと自分の腹の思いばかりを先立てて暮らしている自分自身に。神さまへの信頼と従順を見失ってしまうとき、私たちはどこまでも転がり落ちていきます。だから、ここで目を凝らさねばなりません。主イエスを仰ぎ見ていた人も、主イエスご自身も、「私の願いどおりではなく、私の考えや判断や私のやり方のままではなく、ただただ神さまの御心にかなうことを成し遂げてください」と。あなたの御心をこそ。もし御心に叶うならば。つまり 神さまの御心に叶わないならば、していただかなくて結構です。私の願い通りではなく、あなたの御心にこそ従います。救い主イエスこそが、こんな私のためにさえ最善を願ってくださり、私にとっての最善を決断してくださる。しかも私たちは、主であられる神さまこそがそのように真実に願い、決断してくださる方だと知っている。だから、ここに来た。神さまへの一途な信頼と従順を、ぜひなんとかして、この私たち自身のものとさせていただきたいのです。すると、あのプンプン怒って腹を立てていた律法学者たちは、もう一歩のところまでたどり着いていました。神さまにも人さまにも逆らいつづける罪の重荷に縛りつけられて、だから、しっかりしたくても出来ませんでした。あの彼も、この私たちも。主イエスの宣言;『人よ、あなたの罪はゆるされた』に含まれていた真実に、あとほんの一歩のところまで迫り、もう少しでたどり着く寸前でした。神にしか出来ないことを、『できる。私がする』と仰る方が、そこにいる。24節。主はさらに、はっきりと仰います。「人の子(=イエスご自身のこと。主は、しばしばご自分をこう言い表す)は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたに分かるために」と。兄弟姉妹たち、ここです。ここに、福音の核心があります。神さまに背を向けて離れ去り、「私が私が。自分で自分で。私のやり方や私の気持ちは」と意固地になり、そこからさまざまな惨めさと心細さ、絶望と恐れが生じて、私たちを苦しめています。そのあまりに小さくて、惨めで、とてもとても狭い場所から、晴れ晴れとした安らかな場所へと連れ戻すこと。神さまの憐れみのもとへと。罪から救う権威は天上にあり、ただ神さまにしかできない。なのに、なぜ、あの方が地上で罪をゆるす権威を持っているのか。神が、この地上へと降りくだったからです。この地上に、おの私たちのいつもの生活の場所へと。あなたにも、こんな私にさえも、救いを届けるために。「神を汚している」とあの彼らは腹を立てていました。なるほど。神を汚し、神の権威をはずかしめて冒涜している、と言えるかも知れません。決して犯すことができないはずの神ご自身の神聖さがあり、汚してはならなかったはずの尊厳があります。にもかかわらず、その神聖さと尊厳は、他の誰によってでもなく 神ご自身によって惜しげもなく手放され、ポイと投げ捨てられてしまったのですから(ピリピ手紙2:5-11,ローマ手紙8:31-32参照)神ご自身によるご自身の冒涜、ご自身で自分を汚し、はずかしめている。そう見えるほどの、徹底したへりくだりでした。私たちの主なる神さまは、神であることの神聖さや力や権威よりも、ご立派そうに見えることよりも、まったく別のものを選び取ってくださいました。『私たち罪人が神の憐れみを受け取って生きること』をです。そのほうが千倍も万倍も価値がある。そのほうがずっと素敵だと。小さな一つの魂が救われることを喜ぶ神さまには、その大喜びの前に、ご自身の格式も体裁も権威も、取るに足りないつまらない、どうでもよいものと成り下がりました。なんということでしょう。24節、主イエスは中風の者に向かっておっしゃいます。「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」。その人はすぐに立ち上がり、皆の見ている前を帰っていきました。もちろん、寝かされていた救急車の担架のような戸板を担いで。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。『担いでゆくべき戸板』とは、なんでしょう。身動きならず手も足も出ず、横たわっていた、歯がゆく心細い日々です。この私の恐れと不安と無力感です。
 末尾の26節、「みんなの者は驚嘆してしまった。そして神をあがめ、おそれに満たされて、『今日は驚くべきことを見た』と言った」。この同じ喜びと格別な自由が、私たちにも差し出されつづけています。祈りましょう。

『生けるものすべて』


コラム
生けるものすべて』
     金田聖治

        生けるものすべて おののきて黙せ、
    世の思い棄てて ひたすらに仰げ
    神の御子は くだりたもう
    このきよき日にぞ

    君の君なれど マリヤより生まれ
    うまぶねの中に 産声をあげて
    おのが身をば 与えたもう
    罪人のために

これは1954年版讃美歌の100番。賛美歌21では、255番の讃美歌です。まず1節。「生きているものはすべて」と呼びかけられています。讃美歌も聖書も、気をつけて読み味わっていくと、いろんなところで引っかかってきます。そこで立ち止まることが大切です。大きな糸口になり、福音の現実の中に入っていくための入口になります。ああ、そうだったのか。いつの間にかまた、神さまを狭く小さく考えてしまっていた。大人のためだけの神様ではなかったし、クリスチャンのためだけの神様ではなかった。それどころか、私たち人間さまのためばかりの神さまでもなかった。小さな子供や赤ちゃんたちも、まだこの聖書の神さまを信じていない人たちのためにも、それどころか犬猫や他のすべての生き物たちのためにも、ミミズやカエルやアリたちのためにもこの神さまはある。地上のすべてを造った神さまだし、すべてを喜び祝福なさる神さまだった。大人中心の、クリスチャン中心の、また人間さま中心の考え方をきっぱり脱ぎ捨てねばなりません。そのためにこそ沈黙して耳を済ませなさい、神の御声を聞き分けようとして。「人間のためだけの神さまだと思っていたわ。だって、お祈りができるのも私たち人間さまだけでしょ」。そんなこと誰が言ったんですか、聖書の何ページに書いてありますか。
 2節。「君の君なれど」。「君」は僕と君の君じゃなくて、王さまや殿様という意味です。「王様の中の王さま、主人の中の飛びっきりのご主人さまだけれど」という逆接のつながりは、この2節全体に及びます、王様の中の王様なんだけれども、だがしかし、

   マリアから生まれ、
家畜小屋のエサ箱の中にオギャアと産声をあげ、
罪人のために、ご自身のその尊い体を与えてくださった。

それら①②③すべては、主の中の主、王の中の王であられる救い主には似つかわしくないことです。「ええ? まさか、あり得な~い」と、ビックリ仰天するに値します。讃美歌がそう証言するだけじゃなく、聖書自身がそのようにはっきりと証言しつづけます。正しい人は1人もいない。マリアも、アブラハムも、ノア、モーセ、ダビデ、ソロモンも例外ではなく、誰もが皆、救われるに値しない罪人である。だからこそその救いは、ただただ恵みなのです。人間にすぎないものを取っ替え引っ替え恐れたり崇めたり祭り上げたりしているうちに、朝から晩までただ人間のことばかり思い煩い、神さまのことが分からなくなってしまいます(マタイ16:23参照)。神さまからの恵みがすっかり水の泡です。ゆるされた罪人の集団にすぎない。ゆるされて、なお罪深さを根深く抱える生身の人間でありつづけます。
「憐れみ。恵み、恵み、恵み」と耳にタコが出来るほど聞かされつづけて、けれど私たちは聞き流しつづけました。謙遜にされ、へりくだった低い場所に据え置かれて、そこでようやく私たちは神さまからの良いものを受け取りはじめました。なぜならば、救い主イエス・キリストご自身がそのように低く身をかがめて(イザヤ書52:13-53:11,ピリピ手紙2:5-11,エペソ手紙4:8-10)、そこで、すべての恵みを差し出しておられるからです。へりくだった、その低い場所こそが、恵みを恵みとして受け取るための、いつもの待ち合わせ場所でありつづけるからです。どうぞ、よい日々を。      2018,12,23 当教会機関誌の巻頭言から)


『死んで、それで終わりじゃない』


コラム
『死んで、それで終わりじゃない』
     金田聖治

 誰でも必ず死ぬ。例外はない。死はしばしば不意に問答無用で訪れる。しかも、死後の生命をほとんどの人は信じない。するとその人々にとっては、行く手に待ち構えているのは虚無と絶望であるほかない。先のことをできるだけ考えず、その日その日、一瞬一瞬をただ面白おかしく生きることを願い、気を紛らわせつづけてただ一回きりの人生をむだに浪費するのだろうか? 恐れながら、みじめに絶望しながら。むかしの人は言った、「生きてるうちが花。死んだら、それでおしまいよ」と。キリスト教信仰の中にさえ、そうした虚無主義が忍び込む。コリント手紙(1)15:32-33に、

もし死人がよみがえらないのなら、「わたしたちは飲み食いしようで はないか。あすもわからぬいのちなのだ」。まちがってはいけない。

飲み食いしようとする理由と中身は、「明日をも知れない生命だ」という絶望と恐怖と、虚しい自己憐憫です。「明日をも分からない生命だ。それならせめて今日は、好き放題に飲み食いする愚かな宴会騒ぎでもしようじゃないか」と。ここで、リビング・バイブル訳は思い切った荒技での翻訳を試みます、「『大いに飲み食いして、愉快に過ごそう。文句があるか。どうせ明日は死ぬ身だ。死ねば、何もかもおしまいなのだから』ということになります」。なるほど。本当にその通り。しかも、その姿は出エジプト記326節の光景とまったく瓜二つです。神をすっかり見失って金の子牛像を造り、明日は祭りだと宣言し、「金の子牛」祭りをしはじめたときの様子と。「民は座して食い飲みし、立って戯れた」「そのあとが大変です。あたりに座り込んで食べたり飲んだりするかと思えば、立って踊りだす者もでるしまつです。とんだ乱痴気さわぎになってしまいました」(口語訳,リビングバイブル訳)。わおっ。その虚しさが目に見えるようです。自分の胸に手を当てて問いかけると、それぞれに心当たりもあるでしょう。復活の新しい生命を見失うことと、神ご自身を見失うこととは、このように同じ一つの虚無への入口です。「もうおしまいだ」と絶望した心で味わうその好き放題なカラ騒ぎはちっとも楽しくないし、豪華な高級料理の数々もおいしくない。ただ虚しく、よけいにますます惨めになるだけ。ね、分かるでしょう? 
たしかに誰でも弱り衰えてゆき、必ず死ぬ。なかなか報われず、誰にも分かってもらえず、心細く苦しく惨めに生きる日々は誰にでもあります。自分の居場所がどこにも見いだせない、私が生きる価値はあるのかと、疑わしく思える日々も。けれど、「死んで、それで終わりではない。だから、しっかりしなさい。揺さぶられることなく、堅く立ちつづけなさい」と聖書は断固として告げる。どうしたら、気をしっかり保つことができるでしょう。世界と自分自身の初めと終わりについての神さまからの約束を、あなたは信じることができますか? この世界全体も、あなたを含めてすべての生命体も、神が祝福のうちにお造りなった。やがて世界の終わりが来て、救い主イエスによる審判をへて、神を信じて生きる者たちは神の永遠の御国へと迎え入れられる。神さまからの約束。この約束の上に立って毎日の生活を生きる。だから、私たちはクリスチャンです。「天の御父の御心なしには、髪の毛一本も虚しく地に落ちることはない」と習い覚えてきましたね。「お母さんのお腹からオギャアと生まれ出たときからずっと、神によって背負われ、抱っこされて生きてきた。だから白髪になってもそうであり、いつでもどんな苦境からでも必ずきっと、その造り主なる神さまが救い出してくださる」(マタイ10:29-31,イザヤ46:3-4参照)。「たとえ私が死の陰の谷を行くときにも災いを恐れません」(詩23と羊たちが晴れ晴れと歌った理由はこれです。一つの死の影の谷をかろうじてようやく乗り越え、かと思うと次の死の影の谷、また次の、また次のと。飢え渇く日々の連続です。いつもいつも豊かな緑の草場、おいしい水のほとりなどと絵空事を夢想するわけではありません。飢え渇きながら困難な旅路を歩む。それでもなお良い羊飼いである神さまが、羊である私を連れ歩いてくださる。この一点を確信しています。だから恐れはなく何の不足もないと。そこでようやく私たちは惜しみつつ、心に刻みつつ日々を生きることができます。お元気で。よい日々を。                 
2019,4,21 当教会機関誌の巻頭言から)