2022年6月27日月曜日

6/26「御子イエスによる救い」へブル2:1-4

            みことば/2022,6,26(主日礼拝)  377

◎礼拝説教 ヘブル手紙 2:1-4                   日本キリスト教会 上田教会

『御子イエスによる救い』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

2:1 こういうわけだから、わたしたちは聞かされていることを、いっそう強く心に留めねばならない。そうでないと、おし流されてしまう。2 というのは、御使たちをとおして語られた御言が効力を持ち、あらゆる罪過と不従順とに対して正当な報いが加えられたとすれば、3 わたしたちは、こんなに尊い救をなおざりにしては、どうして報いをのがれることができようか。この救は、初め主によって語られたものであって、聞いた人々からわたしたちにあかしされ、4 さらに神も、しるしと不思議とさまざまな力あるわざとにより、また、御旨に従い聖霊を各自に賜うことによって、あかしをされたのである。 ヘブル手紙 2:1-4


1節、「こういうわけだから」と、まず最初に語り継いでいます。先に進むためには、後ろを振り返って、これまで語られてきたことを思い起こす必要があります。何が語られてきたのか。「この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた」1:2と、最初に告げられました。語りかける神であり、語りかけずにはおられない神です。最初に神は「光あれ」と語りかけることによって、世界を造りはじめた(創世記1:1。その語りかけの言葉には他に並ぶ者もない絶大で圧倒的な力があり、またご自身の御心と願いが込められていました。「けれど今、この終りのときには」と区切りを引いて、神の語りかけが大きく変化しました。神は、この終りの時には、御子イエスによって、わたしたちに語られた。驚くべきことです。すでにもう2000年も前から、神の独り子である救い主イエス・キリストが地上に降りて来られ、神でありながら人間の生身の体をもって生きて、神の国の福音を宣べ伝えはじめた。十字架にかかって殺され、葬られ、死人のなかからよみがえり、天に昇って御父の右の座にすわって、御父から全権をゆだねられた王としてこの世界を治め始めた。だからすでに『終りのとき』が始まって、着々と神の国がこの地上に、私たちの只中に建設されつづける。『終りのとき』とは、ひとたび罪に落ちてしまった世界と、神によって造られたすべての被造物が神の祝福のもとに回復されるときです。それは、この私たちを含めたすべての被造物に対する神の審判のときでもあります。

「この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた」。神の独り子である救い主イエス・キリストによって天と地とその中にあるすべてが造られた。その同じ救い主イエスこそが世界全体の富と財産の相続者とされている。その救い主イエスがわたしたちに語りかけつづける。徹底的に、ただただた救い主イエスにこそ、全世界と私たちの運命が集中しています。救い主イエスがすべて一切をその手に握っておられます。父なる神が救い主イエスにこそすべてを与え、委ねられた。だからこの私たちも、神によって救られたすべての被造物も、キリストの権限のもとにだけ据え置かれつづけます。救い主イエス・キリストは万物の相続者なのだから、彼のほかに恵みはないということです。ですから、もし、救い主イエスがその富と恵みによって私たちを助けてくださらなければ、私たちはとても惨めな者たちであり、なんの恵みも持たない者たちであり、恐れに取り囲まれて心細く生きるほかないのだと。御子イエス・キリストは神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿である。『神の似姿』についての、聖書全体からの最終的な説き明かしがこれです。創世記3章の堕落によって、神の似姿がすっかりまったく失われてしまった。それは、救い主イエスによって、またイエスを信じる信仰によって私たちのうちに回復され、私たちは、キリストと似た者とされてゆきます。「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった」(コロサイ手紙 3:9-11,ローマ手紙 8:29

「御子は、……その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。御子は、その受け継がれた名が御使たちの名にまさっているので、彼らよりもすぐれた者となられた」。キリストの御言葉、神の御言葉に十分な信頼が寄せられなければなりません。それが神を信じて生きるための不可欠な土台となります。しっかりした岩の上に家を建てたか、あるいは、ただ虚しいだけの砂の上だったかが問われます。数多くの預言者たちが、神のもとから遣わされ、神の言葉を神から預かって語りつづけました。イエスご自身も、「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない」(イザヤ書55:8-11,ヨハネ福音書 5:39-40。厳しい口調で叱られているようにも聞こえます。けれどその本意は、確かに聖書の中に永遠の命があり、それは父なる神と救い主イエスを知り、信じて生きることだ。命を得るために主イエスのところへ行こうとして、イエスから命を受け取ろうとして聖書を調べ、読み、耳を傾けなさい。そうすれば、あなたも命を受け取ることができると。

さて、「御子は、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれた」。父なる神の右に座り、と使徒信条も告白します。ここは、間違って覚えてはいけません。父なる神の右とは、父の単なる補佐役とか、助言者、アシスタントなどという役割ではありません。御父から天と地のすべての権威を授けられた、世界の王として統治し、治めつづける『王の職務』です。救い主イエスこそが私たちの罪をあがない、清める御業を成し終え、すべての権威を授けられ、世界の王として統治しつづける『王の職務』を担いつづけます。いつまでなのか。最後の最後に、すべての権威と権力とを打ち滅ぼしてしまうときまで。1コリント手紙15:24-26です、「それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである」。

 

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 さて1節、「こういうわけだから、わたしたちは聞かされていることを、いっそう強く心に留めねばならない。そうでないと、おし流されてしまう」。聞かされつづけ、習い覚えてきた神の言葉をいっそう強く自分自身の魂に刻み込み、はっきりと思い起こしつづけましょう。そうでないと、おし流されてしまう。どこへ。滅びへと至る、虚しい暗闇の彼方へ。罪と悲惨の只中へと。けれど憐み深い神なら、そんな私たちを罪と悲惨の只中から救い出すことができます。だから、この私たち自身こそは聞かされつづけ、習い覚えてきた神の言葉をいっそう強く自分自身の魂に刻み込み、はっきりと思い起こしつづけなければなりません。救い主イエスによって知らされ、差し出された神の憐れみのもとに留まり、そこに据え置かれて生きるために。やがて、神の永遠の御国に辿り着かせていただくためにです。

2-4節、「というのは、御使たちをとおして語られた御言が効力を持ち、あらゆる罪過と不従順とに対して正当な報いが加えられたとすれば、わたしたちは、こんなに尊い救をなおざりにしては、どうして報いをのがれることができようか。この救は、初め主によって語られたものであって、聞いた人々からわたしたちにあかしされ、さらに神も、しるしと不思議とさまざまな力あるわざとにより、また、御旨に従い聖霊を各自に賜うことによって、あかしをされたのである」。御使たちをとおして語られた御言とは、神の律法です。他方、福音において宣言されている救いは、御使いではなく、御子イエス・キリストによってもたらされました。神の福音と、神の律法。それらは一組となって、神の憐れみのもとに私たち罪人が生きるための道案内の役割を果たします。かつて、神の律法に反逆して背く者たちに対して、厳しい裁きと懲らしめがなされました。では、神の福音とその救いを軽々しく扱う者たちに対しては、神は何をなさるのか。さらに恐ろしい処罰が与えられます。福音とその救いの言葉をはっきりと拒絶しなくても、そこから身を引いて、神の憐れみの福音から遠ざかる者たちは、そのことに対する処罰と報いを免れません。「わたしたちは、こんなに尊い救をなおざりにしては、どうして報いをのがれることができようか」と問いかけられています。

「この救いは、初め主によって語られたものであって、聞いた人々からわたしたちにあかしされ、さらに神も、しるしと不思議とさまざまな力あるわざとにより、また、御旨に従い聖霊を各自に賜うことによって、あかしをされたのである」。福音が宣言する偉大な救いは、救い主イエスによって語られました。もちろん救いは、世の初めから、前もって預言者たちが述べ伝えつづけました。その約束がついにとうとう成し遂げられる時が来たと通告されたのは、洗礼者ヨハネが牢獄に閉じ込められた後、主イエスご自身によってなされました。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と。また、ナザレの会堂でイザヤ書61章の御言葉を主イエスは読み、「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである。この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」(マルコ1:15,ルカ4:18-と宣言しました。そして今日に至るまで、おびただしい数の伝道者たちははてしないバトン・リレーのようにして、伝えられた言葉をそのまま次のランナーに手渡しつづけ、受け取り、手渡し、受け取り、手渡しつづけています。これからも世の終わりまで、主に仕える働き人たちはバトン・リレーのようにして伝えられた言葉をそのまま次のランナーに手渡しつづけます。「もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた」(1コリント手紙15:2-5。バトン・リレー走者たちが手渡しつづけるそれら一つ一つの神の言葉を、私たちは決して侮ってはなりません。その一つ一つの言葉によっていのちが差し出され、その言葉によって私たちは神の憐れみのもとに生きる者たちだからです。

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     金田聖治
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