みことば/2022,6,12(主日礼拝) № 375
◎礼拝説教 ヘブル手紙 1:1-4 日本キリスト教会 上田教会
『御子イエスによって』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
1:1 神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、2
この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。3 御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。4
御子は、その受け継がれた名が御使たちの名にまさっているので、彼らよりもすぐれた者となられた。(ヘブル手紙 1:1-4)
15:24 それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。25 なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。26 最後の敵として滅ぼされるのが、死である。 (1コリント手紙 15:24-26)
ヘブル人への手紙を、少しずつ読み味わっていきます。
まず1-2節、「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたがこの終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた」。語りかける神であり、語りかけずにはおられない神です。最初に神は「光あれ」と語りかけることによって、世界を造りはじめました。その語りかけの言葉には他に並ぶ者もない絶大で圧倒的な力があり、またご自身の御心と願いが込められていました。「光あれ。水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ。天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ。地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ。天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。さらに神は言葉によって命じて、水の生き物と、空の鳥と、地の生き物たちと人間を造り、種のある実を結ぶすべての木と青草を造りました。世界創造の6日目に、「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」と報告されています。これが出発点です。「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られた」。いろいろな時に、いろいろな方法でとは、例えば夢や幻を用いて、あるいは火の柱や空を流れる雲をさえ用いて、神の民をエジプトから導き出し、また多くの預言者たちをご自身の口として用いて、人々に語りかけつづけました。
「昔は~だった。けれど今、この終りのときには」と区切りを引いて、神の語りかけが大きく変化しました。神は、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。驚くべきことです。すでにもう2000年も前から、神の独り子である救い主イエス・キリストが地上に降りて来られ、神でありながら人間の生身の体をもって生きて、神の国の福音を宣べ伝えはじめ、十字架にかかって殺され、葬られ、死人のなかからよみがえり、天に昇って御父の右の座にすわって、御父から全権をゆだねられた王としてこの世界を治め始めた。だからすでに『終りのとき』が始まって、着々と神の国がこの地上に、私たちの只中に建設されつづけているのです。『終りのとき』とは、ひとたび罪に落ちてしまった世界と、被造物が神の祝福のもとに回復されるときです。それは、この私たちを含めて、神によって造られたすべての被造物に対する神の審判のときでもあります。
「この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた」。神の独り子である救い主イエス・キリストによって天と地とその中にあるすべてが造られた。その同じ救い主イエスこそが世界全体の富と財産の相続者とされている。その救い主イエスがわたしたちに語りかけつづける。徹底的に、ただただた救い主イエスにこそ、全世界と私たちの運命が集中しています。父なる神が救い主イエスにこそすべてを与え、委ねられたのだから、この私たちも、神によって救られたすべての被造物も、キリストの権限のもとにだけ据え置かれつづけます。救い主イエス・キリストは万物の相続者なのだから、彼のほかに恵みはないということです。ですから、もし、救い主イエスがその富と恵みによって私たちを助けてくださらなければ、私たちはとても惨めな者たちであり、なんの恵みも持たない者たちであり、恐れに取り囲まれて心細く生きるほかない。聖書は、神の御霊によって導かれる私たちは神の子供たちであり、しかも神の相続人でもあると証言します。「もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである」(ローマ手紙
8:13-17)。キリストと共同の相続人。ここが、最重要ポイントです。世界全体の相続者であられる救い主イエスが私たちを受け入れてくださるとき、彼と共に、彼によって私たちを富ませ、支えようという御心です。つまり、キリストを差し置いて、キリストの御心を抜きにしては、私たちはどんな財産も富も幸いももつことができない。このことを私たちがよくよく知り、肝に銘じることができるようにと。救い主イエスを信じる信仰であり、「私の思いではなく、ただただあなたの御心のままに」とキリストが御父に信頼し従ったように、私たちもまた同じく、「私の思いではなく、ただただあなたの御心のままに」とイエスからの言葉と御心にこそ聞き従いつづける信仰です。そこにだけ、私たちのための希望と祝福がありつづけます。
3-4節、「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。御子は、その受け継がれた名が御使たちの名にまさっているので、彼らよりもすぐれた者となられた」。御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿である。『神の似姿』についての、聖書全体からの最終的な説き明かしがこれです。創世記3章の堕落によって、神の似姿がすっかりまったく失われてしまった。それは、救い主イエスによって、またイエスを信じる信仰によって私たちのうちに回復され、私たちはキリストと似た者とされてゆきます。「あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである」、また「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった」(コロサイ手紙 3:9-11,ローマ手紙 8:29)。
「御子は、……その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。御子は、その受け継がれた名が御使たちの名にまさっているので、彼らよりもすぐれた者となられた」。キリストの御言葉、神の御言葉に十分な信頼が寄せられなければなりません。それが神を信じて生きるための不可欠な土台となります。しっかりした岩の上に家を建てたか、あるいは当てにならない砂の上だったのかが問われます。「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」(イザヤ書55:9-11)。数多くの預言者たちが、神のもとから遣わされ、神の言葉を神から預かって語りつづけました。今日でもまったく同じです。預言者たち、伝道者たちが語る聖書の説き明かしを神は、「私の口から出る私自身からの言葉だ。だから、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。私がそれを約束し、保証する」と仰います。神学生たちがそれぞれの伝道地へと送り出されようとするとき、このように彼らは励まされ、勇気を与えられつづける。たとえ粗末でも、未熟で至らなくても、神自身がそれをご自分の言葉として用いる。神が喜ぶところのことを為させ、命じ送ったことを神ご自身が成し遂げるからと。
また救い主イエスご自身も、「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない」(イザヤ書55:8-11,ヨハネ福音書 5:39-40)。厳しい口調のようにも聞こえます。けれどその本意は、確かに聖書の中に永遠の命があり、それは父なる神と救い主イエスを知り、信じて生きることだ。命を得るために主イエスのところへ行こうとして、イエスから命を受け取ろうとして聖書を調べ、読み、耳を傾けなさい。そうすれば、必ず、あなたも命を受け取ることができると。
さて、「御子は、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれた」。父なる神の右に座り、と使徒信条も告白します。ここは、間違って覚えてはいけません。父なる神の右とは、父の単なる補佐役とか、助言者、アシスタントなどという役割ではありません。御父から天と地のすべての権威を授けられた、世界の王として統治し、治めつづける『王の職務』です。私たちの罪をあがない、清める御業を成し終え、すべての権威を授けられ、救い主イエスは、世界の王として統治しつづける『王の職務』を担いつづけます。いつまでなのか。最後の最後に、すべての権威と権力とを打ち滅ぼしてしまうときまで。1コリント手紙15:24-26です、「それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである」。
《祈り》
主なる神さま。あなたにこそ心から信頼し、感謝をいたします。救い主イエスを信じる信仰のうちに、私たちを堅く据え置いてください。造られたすべての者たちと私たちのための神の愛と憐みを、この救い主イエスによって知り、イエスによって神に必要なだけ十分に信頼し、聴き従って生きることができますように。
主イエスのお名前によって祈ります。 アーメン
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金田聖治(かねだ・せいじ)
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