6/12 こども説教 ピリピ手紙 1:21-26
『キリストと共にいること』
1:21
わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。22 しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。23 わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。24 しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。25 こう確信しているので、わたしは生きながらえて、あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う。26 そうなれば、わたしが再びあなたがたのところに行くので、あなたがたはわたしによってキリスト・イエスにある誇を増すことになろう。
(ピリピ手紙
1:21-26)
【こども説教】
救い主イエスの弟子パウロは、牢獄に閉じ込められて、裁判を待ち、やがて殺されようとしています。キリストの福音を知らせることで殺されるとしても、それは自分にとっても良いことだと受け止めています。また、もし牢獄から出してもらえるなら、ピリピ教会の人たちのところに出かけて助けることもできるので、そうなっても良いと考えています。どちらでもよい、ということです。23節で、「この世を去ってキリストと共にいること」を本当は願っていると書いていますが、もしかしたら、彼は今、大切なことを見落としているかもしれません。「この世を去って」も、キリストと共にいることができます。また、「生きている間も、どこで何をしていても、いつでもキリストと共にいる」とパウロも私たちも教えられています。あとで、彼はそのことを思い出して、皆にちゃんと伝えます。それは救い主イエスからの直々の、大切な教えです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」、また「あなたには、わたしがついている」、また「主はみずからあなたに先立って行き、またあなたと共におり、あなたを見放さず、見捨てられないであろう。恐れてはならない、おののいてはならない」(マタイ福音書28:20,使徒18:10,申命記31:8)。そして、もし、救い主イエスが共にいてくださり、私たちの味方であり、守ってくださるなら、それでもう十分です。
【大人のための留意点】
わたしたちは、多くの場合、「どちらが本当に神さまの(神に従って生きる)道だろうか」といって悩むのではなく、「どっちの方が得だろうか」と、欲張りのために悩むことが多いのではないでしょうか。「どちらが自分の能力にふさわしいだろうか」と考えて悩むのです。学校を選ぶ時、職業を選ぶ時などがそれです。……しかし、神さまに従う道を歩むということは、ただ自分にとって都合の良ことだけではなく、多くの人に益になる方を選ばせられることなのです。主イエスも十字架を前にして、ゲッセマネの庭で血の汗を流して祈りました、「どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、御心のままになさってください」(マルコ福音書14:36)と(『喜びの手紙 ~ピリピ人への手紙による信仰入門~』蓮見和男、新教出版社 1979年,該当箇所)。