2022年6月9日木曜日

6/5こども説教「キリストがあがめられること」ピリピ1:15‐20

6/5 こども説教 ピリピ手紙 1:15-20

 キリストがあがめられること

 

1:15 一方では、ねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える者がおり、他方では善意からそうする者がいる。16 後者は、わたしが福音を弁明するために立てられていることを知り、愛の心でキリストを伝え、17 前者は、わたしの入獄の苦しみに更に患難を加えようと思って、純真な心からではなく、党派心からそうしている。18 すると、どうなのか。見えからであるにしても、真実からであるにしても、要するに、伝えられているのはキリストなのだから、わたしはそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう。19 なぜなら、あなたがたの祈と、イエス・キリストの霊の助けとによって、この事がついには、わたしの救となることを知っているからである。20 そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。            (ピリピ手紙 1:15-20

 

 

  【こども説教】

 彼は今とても自由で、晴れ晴れ清々としています。大切なことが、とうとうはっきりと分かったからです。なにしろ救い主イエス・キリストが宣べ伝えられている。救い主イエスがどんな方で、何をしてくださったのか。その救い主を信じて、どのように毎日を生きることができるのか。その喜びと希望はどういうものなのか。そのことが宣べ伝えられている。キリストの福音が宣べ伝えられ、耳を傾ける者たちがわずかずつ現われ、一人また一人と、救い主イエスを信じて生き始める者たちが神の憐れみによって起こされていく。そうか。じゃあ、それでいいじゃないか。それで、もう十分だ。他には、気にかけなければならないような大切なことなど何一つもないと言ってよいほどに。19-20節、「なぜなら、あなたがたの祈と、イエス・キリストの霊の助けとによって、この事がついには、わたしの救となることを知っているからである。そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである」。

 

 

 

 【大人のための留意点】

 牢屋に入れられて、今、パウロは死刑にされるかも知れません。死ぬことは誰でも怖いことです。しかし、パウロは生きるにしても、死ぬにしても自分の身によって、キリストがあがめられることを求めました。「あがめる」というのは、もとの言葉では、「大きくする」という意味をもっています。パウロは生きている時も、キリストが大きくなり、(自分が)死ぬ時もキリストが大きくなることを求めました。その反対は自分が大きくなることです。私たちの中には、自分が大きくなることばかり求めている人がいませんか。自分が高くされたり、自分が大きくされたりすることばかり求める人は、自分が低くされたり、小さくされたりすると、怒る人です。そういう人には、いつも恐れがつきまとうものです。自分が小さくされたり、軽く扱われるのを恐れるあまり、いばったり虚勢をはったりします。……(主イエスの弟子たちは)力もないし、知恵もないし、不安でした。それですから、神さまのみ霊のお助けをいただかなくてはなりません。「祈りとみ霊」、この二つはいつも、くっついています。パウロにとっても、そうでした。祈りとみ霊が支えでした。その時、見えないキリストが、私たちの中に生きて働いてくださるでしょう(『喜びの手紙 ~ピリピ人への手紙による信仰入門~』蓮見和男、新教出版社 1979年,該当箇所)