みことば/2022,6,5(聖霊降臨の主日の礼拝) № 374
◎礼拝説教 ローマ手紙 8:1-11 日本キリスト教会 上田教会
『神の御霊が宿っている』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
約束どおり、五旬節(ごじゅんせつ)の日に弟子たちに聖霊がくだりました(使徒 2:1-39,1コリント手紙3:16-17参照)。五旬節はイスラエル3大祭りの1つです。過越祭から7週間後。キリスト教会では、キリストの復活から50日目に聖霊がくだった日として記念します。そして、今日がその日です。今日でも、『洗礼を受けてクリスチャンとされた日から、その人の内に聖霊なる神が住んでくださる』と教えられえ、習い覚えてきました。
まず1-8節、「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉にある者は、神を喜ばせることができない」。生まれながらの私たちは、1人の例外もなく、誰も彼もが罪と死の奴隷にされ、それにがんじがらめに縛りつけられていた、と聖書は語りはじめます。肉に従う者は肉のことを思う。肉の思いは死であり、神に敵対している。そこから自由になることは、私たち人間の力によっては到底できなかった。けれど、「律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられた」。つまり、救い主イエスの死と復活の御業によって、神がそれを成し遂げ、私たちを罪と死の法則から解放してくださった。だから私たちは、今では、肉のことを思って肉に従って生きるのではなく、神の御霊に従って生きることができる。もちろん、肉の思いや罪からすっかり自由にされ、すっかりまったく清くさせられたというのではありません。そんな聖人君子のような人間などどこにも1人もいません。洗礼を受けてクリスチャンとされた後にも、一生涯、この私たちにも自分自身の肉の思い、さまざまな欲望、傲慢さ、心の頑固さ、自己中心の思いとの格闘がつづきます。けれどもう、それらの奴隷ではなく、言いなりにその肉の思いに従わせられるというのではなく、自分自身の肉の思いに抵抗し、戦い、神の御霊の働きに従って生き始めることができる。人間に出来ることではないが、神ご自身が私たちにもそれを成し遂げさせてくださる。神に信頼し、聴き従い、願い求めつづけて、そうしていただける。だからこそ、あなたは気をしっかり持ちなさい、と励まされます。
ローマ人への手紙では、このことが6章のはじめから、7章、8章へと詳しく説き明かされつづけてきました。「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思う」。このそもそもの出発点は、エルサレムの都に向かって歩む旅路の途上で、救い主イエスが弟子たちに語り聞かせつづけてきた十字架の死と復活の予告です。十字架の死が待ち受けるエルサレムの都へと旅路を歩みながら、何度も何度も、ご自身の十字架の死と復活について、救い主イエスは弟子たちに繰り返し語りかけつづけました。「人の子(=イエスご自身のこと)は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」。それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか」(ルカ福音書 9:22-25)と。人の子、つまりこの私は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる。「必ず~となる」。主であられる神さまがそう決めて、神ご自身がそれを成し遂げるから、だから、「必ず~となる」。ここで聞き分けるべき第一の点は、十字架の上で死ぬことは救い主イエスご自身が自分から進んで、自由な心で受け入れておられる出来事だということです。悪者どもの悪巧みにあって、仕方なしに嫌々渋々、ではなくて。「ぜひそうしよう。十字架の上で、罪人の一人に数えられ、見捨てられて無残に死んでゆくこと。それを私はぜひしたい」と。父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神という永遠の神ご自身による救いの御計画です。正しいお方が、正しくないはなはだしい罪人である私たちのために、死んでくださった。それによって、恵みに値しない私たちを憐み深い神のみもとへと連れ戻してくださるために。それこそが救い主としての務めであり、ご自身が担われた第一の使命です。
都へ向かう旅路の途上での主イエスの教えですが、「それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう」。まず、自分を捨てなさい、自分の命を捨て去りなさいと命じられます。神に背かせようとする罪の誘惑と、毎日毎日、戦わねばならないからです。捨て去るべき「自分。自分の命」とは、自己中心の「私が私が」というこだわりであり、心の頑固さです。「好きだ嫌いだ。気が進む。なんだか嫌だ」などと言い張りつづけ、自分の思い通り、願い通りに生きていきたいと我を張りつづける虚しい自己主張です。それらは、主イエスに従って生きることを邪魔しつづけ、自分自身の肉の思いの奴隷にさせつづけるからです。自分自身が自分の主人であり、自分の奴隷である間は、神さまを自分のご主人さまとして迎え入れることが誰にも決してできないからです。要点は、神ご自身の御わざに自分の場所を明け渡すこと。神をご主人さまとして、自分の内に迎え入れること。神にこそ十分に信頼し、聞き従って生きるための訓練です。ついつい私たちは自分を頼りとして、自分の判断や気分に聞き従いつづけて、頑固に思い上がります。だからこそさまざまな困難や悩みの中でへりくだらされて、そこでようやく神の御力と憐みを呼び求めることを私たちは学びます。
「肉に従って歩むのではなく、霊に従って歩む。肉のことを思うのではなく、神の御霊のことを思い、御霊に従って歩む」。それは救い主イエスに従って歩むことであり、父なる神さまの御心に従って歩むことです。十字架にかかる前夜、救い主イエスご自身が、それはいったいどういうことなのかをはっきりと示してくださいました。「一同はゲツセマネという所にきた。そしてイエスは弟子たちに言われた、『わたしが祈っている間、ここにすわっていなさい』。そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれたが、恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい」。そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(マルコ福音書 14:32-36)。神の独り子である主イエスご自身さえ、自分の願いや考えや判断が御父のそれとは違うこともありうると知っていました。そのことを、とても危ういこととして警戒しつづけました。もし、わたしの願いや判断や考えが御父のそれと違い、御父の御心に背くようなら、私の思いを退けさせてください。私の思いではなく、あなたの御心のままになさってください。その御心をこそ重んじて、服従する私であらせてください。その祈りの中で主イエスは、「アバ、父よ」と呼びかけていました。小さな子供が父親を呼ぶ、信頼と愛情の語りかけです。小さな子供の心で、救い主イエスは父なる神への信頼に堅くしがみついています。その同じ1つの、小さな子供の心を、聖霊なる神が私たちに贈り与えてくださっています。「それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる」(ローマ手紙 8:12-15)。神さまに信頼し、聴き従い、自分たちの思いや判断や願いによってではなく、ただただ神の御心をこそ。なぜなら兄弟姉妹たち。自分の願いや考えや判断が御父のそれとは違うことも度々ありうるからです。もし、わたしの願いや判断や考えが御父のそれと違い、「神の御心ではなく、私の思いのままに」と御父の御心に背くようなら、そのとき私たちは直ちに肉の思いの奴隷に成り下がっています。それでは困ります。それでは、あまりに惨めです。ですからどうか、この私の思いを退けさせてください。私の思いではなく、ただただあなたの御心のままになさってください。その御心をこそ重んじて、服従する私であらせてください。「アバ、父よ」と私たちも呼びかけつづけます。小さな子供が父親を呼ぶ、信頼と愛情の語りかけを。同じ1つの小さな子供の心で、救い主イエスと共に、父なる神への信頼に堅くしがみつくことができます。
9-11節、「しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう」。父なる神さまが、私たちの内に宿っている御霊によって、私たちの死ぬべきからだをも日毎に新しく、生かしてくださいますように。神の御前で、神の御心にこそ聴き従って生きる私たちとならせてください。
《祈り》
父なる神さま。御子イエスによって神の憐れみへと私たちを招きつづけてくださっていますことに信頼し、感謝をいたします。ますますあなたに信頼し、願い求め、御心にかなって日々を歩むことができますように、お導き下さい。日毎に悔い改め、あなたのゆるしと憐れみへと立ち戻りつづけて生きる私たちであらせてください。
主イエスのお名前によって祈ります。 アーメン
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金田聖治(かねだ・せいじ)
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