2022年6月20日月曜日

6/19「救いを受け継ぐ」へブル1:5-14

          みことば/2022,6,19(主日礼拝)  376

◎礼拝説教 ヘブル手紙 1:5-14             日本キリスト教会 上田教会

『救いを受け継ぐ』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

1:5 いったい、神は御使たちのだれに対して、「あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ」と言い、さらにまた、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう」と言われたことがあるか。6 さらにまた、神は、その長子を世界に導き入れるに当って、「神の御使たちはことごとく、彼を拝すべきである」と言われた。7 また、御使たちについては、「神は、御使たちを風とし、ご自分に仕える者たちを炎とされる」と言われているが、8 御子については、「神よ、あなたの御座は、世々限りなく続き、あなたの支配のつえは、公平のつえである。9 あなたは義を愛し、不法を憎まれた。それゆえに、神、あなたの神は、喜びのあぶらを、あなたの友に注ぐよりも多く、あなたに注がれた」と言い、10 さらに、「主よ、あなたは初めに、地の基をおすえになった。もろもろの天も、み手のわざである。11 これらのものは滅びてしまうが、あなたは、いつまでもいますかたである。すべてのものは衣のように古び、12 それらをあなたは、外套のように巻かれる。これらのものは、衣のように変るが、あなたは、いつも変ることがなく、あなたのよわいは、尽きることがない」とも言われている。13 神は、御使たちのだれに対して、「あなたの敵を、あなたの足台とするときまでは、わたしの右に座していなさい」と言われたことがあるか。14 御使たちはすべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたものではないか。    ヘブル手紙 1:5-14


まず5-6節、「いったい、神は御使たちのだれに対して、「あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ」と言い、さらにまた、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう」と言われたことがあるか。さらにまた、神は、その長子を世界に導き入れるに当って、「神の御使たちはことごとく、彼を拝すべきである」と言われた」。「あなた」と呼ばれている相手は、直接にはダビデ王であり、けれどダビデ王を遥かに越えて、やがて地上に遣わされる救い主イエス・キリストをこそあらかじめ言い表し、指し示していると世々の教会は受け止めてきました。神は神、生身の人間はどこまで行ってもただ人間に過ぎず、神と人間との間には深い隔たりがありつづけました。1つの決定的な出来事が起こるまでは。

神によって造られた被造物にすぎない人間は、神の御前に深く慎まねばなりません。生身の人間が神を父とし、その子供とされることなどありえないはずだったからです。神の御使いであれ、他の被造物であれ、神以外のものが拝まれ、礼拝の対象とされることなど決して許されないからです。拝まれ、礼拝の対象とされてよい対象は、ただただ神ご自身である他ありません。「神のほかに何ものをも神としてはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない」(出エジプト記20:2-6と、神ご自身から断固として命じられているからです。「彼を拝すべき。礼拝すべきである」と言われたからには、その「あなた」とは神ご自身である、神の独り子、救い主イエス・キリストである他ありません。「あなたこそは、わたしの子」とは、ただもっぱら神の独り子イエス・キリストについて言われたことであり、このような栄光は神の御使いにも、他どんな被造物にも与えられるはずがなかったのです。越えることのできないはずの隔たりを、けれども神の側から乗り越えて、人間に近づいてきてくださった。救い主イエスがまことの神でありながら、同時にまことに人間となってくださることによって。

1つの決定的な出来事がすでに起こった。だからこそ今では、神と私たち、神によって造られたものたち(=被造物。ひぞうぶつ)との間の深い隔たりは埋められ、神と私たち被造物との間に一本の道が開かれました。『救い主イエス』という名前の、一本の救いの道が。主イエスはおっしゃいました、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない(つまり、救い主イエスを通りさえすれば、誰でも父なる神の憐れみのみもとに辿り着くことができる)」(ヨハネ福音書14:6。その大前提と根本認識のうえで、この独り子イエス・キリストを通してだけ、私たちは憐みを受け、神の子供たちとして迎え入れられました。神の御前にへりくだって、深く慎む。しかも同時に、その同じ神を今では恐れも疑いもなく十分に信頼し、愛し、遠慮なく親しむことさえできるのです。ごく親しい友だち同士として。ただ救い主イエスによって(ヨハネ福音書15:14-17「わたしの友である。友と呼んだ」,讃美歌312番「慈しみ深き友なるイエスは」,ローマ手紙8:14-16,ガラテヤ手紙4:6

5-6節、「いったい、神は御使たちのだれに対して、「あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ」と言い、さらにまた、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう」と言われたことがあるか。さらにまた、神は、その長子を世界に導き入れるに当って、『神の御使たちはことごとく、彼を拝すべきである』と言われた」。この世界全体に対する救い主イエスのご支配であり、その支配は全世界に及び、ユダヤ人にも異邦人にも、神によって造られたすべての被造物にも救いとなるのでなければ、もしそうでなければ、王としてのキリストの支配はどんな祝福の源ともなりません。救い主イエスがこの世界に降りて来られ、死と復活の救いの御業を成し遂げてくださったのは、「神は彼(=救い主エス)を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」(ピリピ手紙2:6-11

7-14節、「また、御使たちについては、「神は、御使たちを風とし、ご自分に仕える者たちを炎とされる」と言われているが、御子については、「神よ、あなたの御座は、世々限りなく続き、あなたの支配のつえは、公平のつえである。あなたは義を愛し、不法を憎まれた。それゆえに、神、あなたの神は、喜びのあぶらを、あなたの友に注ぐよりも多く、あなたに注がれた」と言い、さらに、「主よ、あなたは初めに、地の基をおすえになった。もろもろの天も、み手のわざである。これらのものは滅びてしまうが、あなたは、いつまでもいますかたである。すべてのものは衣のように古び、それらをあなたは、外套のように巻かれる。これらのものは、衣のように変るが、あなたは、いつも変ることがなく、あなたのよわいは、尽きることがない」とも言われている。神は、御使たちのだれに対して、「あなたの敵を、あなたの足台とするときまでは、わたしの右に座していなさい」と言われたことがあるか。御使たちはすべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたものではないか」。救い主イエスについて、彼が、(1)「初めに、地の基をおすえになった。もろもろの天も、み手のわざである」ところの創造主であると告げられ、また、(2)この彼が王として世界を支配しつづけることが告げられました。だからこそ、この救い主イエスこそがあがめられ、礼拝され、全幅の信頼を寄せられ、その言葉こそが聴き従うに価します。

父なる神が世界の創造者と呼ばれるように、同時にまた、救い主イエスもまた世界の創造主であること。これは、この手紙の冒頭ですでに語られたことです。「御子によって、もろもろの世界を造られた」1:2と。徹底的に、ただただた救い主イエスにこそ、全世界と私たちの運命が集中しています。父なる神が救い主イエスにこそすべてを与え、委ねられたのだから、この私たちも、神によって救られたすべての被造物も、キリストの権限のもとにだけ据え置かれつづけます。救い主イエス・キリストは万物の相続者なのだから、彼のほかに恵みはないということです。ですから、もし、救い主イエスがその富と恵みによって私たちを助けてくださらなければ、私たちはとても惨めな者たちであり、なんの恵みも持たない者たちであり、恐れに取り囲まれて心細く生きるほかない。聖書は、神の御霊によって導かれる私たちは神の子供たちであり、しかも神の相続人でもあると証言します。「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである」(ローマ手紙 8:13-17。救い主イエスが私たちを受け入れてくださるとき、彼と共に、彼によって私たちを富ませ、支えようという御心です。つまり、キリストを差し置いて、キリストの御心を抜きにしては、私たちはどんな財産も富も幸いももつことができないことを私たちがよくよく知り、肝に銘じることができるようにと。このように救い主イエスを信じる信仰であり、「私の思いではなく、ただただあなたの御心のままに」とキリストが御父に信頼し従ったように、私たちもまた同じく、「私の思いではなく、ただただあなたの御心のままに」とイエスからの言葉と御心にこそ聞き従いつづける信仰です。そこにだけ、私たちのための希望と祝福がありつづけます。

この救い主イエスが、唯一無二の、王の中の王として世界を支配しつづけること。「すべての事は父からわたしに任せられている」、また「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに」(マタイ11:27,28:18-19とイエス自身がおっしゃったのです。さらに、「あなたの敵を、あなたの足台とするときまでは」と御子イエスは御父から、天と地のいっさいの権威を授けられた王として働き続けます。さて、その期間は、いつまでなのか。1コリント手紙15:24-25にはっきりと告げられています。「それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである」と。王である救い主イエス・キリストは、その支配と働きに挑戦しようとする敵対者たちと立ち向かいつづけます。必ず勝利する戦いであり、やがてついにあらゆる敵を足もとに置き、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、御国を父なる神に渡されると約束されています。それでもなおキリストの支配は安らかに平穏であることはなく、それを脅かす敵対者たちがありつづける。世界の終わりの日まで、キリストの支配と御自身の闘いはつづきます。

だからこそ、救い主イエスに従って生きようとする者たちは励まされつづけます。罪の誘惑が私たちを誘いつづけるからです。腹の思いと、自分自身の肉の欲望が、私たちの心を鈍くさせ、惑わそうとし、神の御心に背かせようとしつづけるからです。この自分自身が救いからこぼれ落ちてしまわないように、気をしっかり持って、堅く立っていなけれなならないからです。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」と。「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい」と。神の武具。それは、救い主イエスによって神の憐れみを知り、イエスによって神に必要なだけ十分に信頼を寄せ、その御心と御意志に聞き従いつづけて生きることです。ですから私たちは日毎に悔い改め、日毎に神に助けを願い求めて暮らしていきます。「わたしたちを誘惑に合わせず、悪から救い出してくださいと祈りなさい」と。こう証言されています、「感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである」(ルカ22:46,11:4,エペソ6:10,1コリント15:57-58と。願い求めましょう。

 

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     金田聖治
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