2022年6月1日水曜日

5/29「新しい国の建設」使徒行伝1:6-11

みことば/2022,5,29(復活節第7主日の礼拝)    373

◎礼拝説教 使徒行伝 1:6-11          日本キリスト教会 上田教会

『新しい国の建設』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

1:6 さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。7 彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。9 こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。10 イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて11 言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。  使徒行伝 1:6-11


 救い主イエスは、預言者たちによってあらかじめ告げられていたとおりに十字架につけられて殺され、墓に葬られ、その3日目に死人の中からよみがえらされました。その復活の姿を多くの弟子たちに見せた後、弟子たちが見ている前で、このように天に昇っていかれました。まず6-7節、「さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、『主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか』。彼らに言われた、『時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない』」。見当はずれな、愚かで、とても思い上がった質問がなされました。「弟子たちが一緒に集まっているとき」にこの質問がなされた、と報告されます。つまり、1人2人の弟子たちがこういうことを質問したというのではなく、弟子たち皆によってこの質問がなされたと受け止めねばなりません。何年もかけて主イエスから直々に神の国の福音について教えを受けてきましたが、それでもなお弟子たちは大きな考え違いをしつづけています。「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない」。彼らは、アブラハムの子孫であるイスラエル民族のための国の復興を願い求め、ローマ帝国の植民地にされ踏みつけにされつづけている自分たちの国が偉大な権威と力を回復すると思い描きました。地上の王国を。つまり、自分たちの手による、自分たちのための、自分たちのものでさえある王国を。それは、とんでもない大間違いです。ですから、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない」と、ありえないほどに厳しく咎められ、叱りつけられました。

その質問のどこがどう見当はずれで思い上がっているのか。彼らのための王国などではなく、御父の権威によって新しく建てられる、御父のものである王国。つまり、神が御力を発揮し、御心にかなって統治なさる、神ご自身のものである王国。御父から全権をゆだねられた救い主キリストの王国であり、神ご自身の御国です。「あなたがたの知る限りではない」。聖書には何が書かれてあるのかと問われて、『罪人が神の憐れみを受け、その罪から救い出されて救われる。そのために知るべき必要なことはすべて十分に書かれてある』と教えられ、習い覚えてきました。知るべき必要なことはすでに教えられています。そこに満足して、慎み深く留まっている必要があります。私たちに知らせずに置きたいと神が願っている事柄は、喜んで、いっさい知らずにおくことです。

8節、「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。救い主イエスは彼らと私たち自身を、神の約束へと向けさせます。委ねてくださった任務と役割へと、私たちの目を一途に凝らさせます。神ご自身の権威と御心をないがしろにしようとする不信仰が、知らず知らずのうちに私たちの内に芽生えて、イバラのように生い茂ってくるからです。その不信仰と傲慢を治療するための最も良い薬は、神の約束を思い巡らせつづけることです。何をせよと命じられ、何をしてはいけないと戒められているのか。何に心を注いで努力しなければならないと教えられ、習い覚えてきたのだったか。それを、よくよく思い起こすこと。

「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、わたしの証人となるであろう」。神の御霊が、信じる者たちにくだり、神の御力によって働き、神の御心にこそ従って判断して選び取り、その御力のもとに日々を生きる者たちとされる。なによりも救い主イエスによって示され、差し出された神の憐れみの証人としての一日ずつの暮らしです。「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで。とくに、ここで「イスラエル王国。神の民イスラエル」について、弟子たちが間違って抱いていた考え方を大きく修正しています。当時のユダヤ人たちは、主イエスの弟子たちも含めて、肉によってアブラハムから生まれた子孫たちだけがイスラエルであると堅く思い込んでいました。ところが救い主イエスは「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで」と言いながら、異邦人の土地サマリヤはユダヤと一体であるべきだと言明なさった。そのうえで、「さらに地のはてまで」と。地の果てに住む、それまで神を知らなかったすべての外国人たちにも、ぜひともユダヤ人と同じ一つの恵みと憐れみにあずからせたいと。だからこそ、はるかな地の果てに住んで、神をまったく知らなかったこの私たちさえもが、今では神を信じる者たちとされています。主イエスの弟子たちを含めて、多くのユダヤ人たちがサマリヤ人をどんなに毛嫌いし、ひどく見下し、憎んでいたのかがよく知られています。例えば主イエスが井戸の傍らで、サマリヤ人の女性に「水を飲ませてください」と頼んだとき、彼女は「あなたはユダヤ人なのに、サマリヤ人の私に、なぜそう言うのか」と驚き怪しみました。また例えば、主イエスと弟子たちの一行がサマリヤの村を通りかかったとき、歓迎しない様子に腹を立てた弟子の一人が、「主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか」。主イエスは弟子たちをきびしく叱りました(ヨハネ4:9,ルカ9:52-

神の国の建設計画は、実は、世界の初めからありました。アダムとエバは神の国の最初の建築者たちとされるはずでした。エデンの園が最初の建設予定地でした。彼ら二人の作業員をそこに配置したとき、神はこうお命じになったのです、「この土地を耕し守れ」と(創世記2:15)。ノアと家族を選び出したのも、その建設計画のためでした。アブラハムとサラ夫婦を選び出したことも、その同じ一つの神の国の建設計画でした。建設趣意書の冒頭には、大きな文字ではっきりとこう記されています。「神が造ったすべてのものを見られたところ、それは、はなはだ良かった」。とても良い、嬉しいと初めに神は大喜びに喜んでくださった(創世記1:31参照)。ここです。ご自分が造ったいのちを愛して止まない憐みの神であり、そのいのちの11つを区別せず分け隔てなく、価なしに、ただ恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって救いへと招き入れようとする神だからです。1人の罪人が神に立ち帰るとき、神は大喜びなさり、1人の罪人が迷い出て行くとき、失われようとするその1人を思って、神はとても悲しみ嘆きます。ただただ神の憐れみから、救いの御業のすべてが始まったからです。そして、まず大洪水後にノアに対して、「あなたがたと共にいるすべての生き物、あなたがたと共にいる鳥、家畜、地のすべての獣、すなわち、すべて箱舟から出たものは、地のすべての獣にいたるまで、わたしはそれと契約を立てよう。……わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる」。だからこそ、つづいてアブラムとサライ夫婦に向かっても、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(創世記1:31,9:10-,12:3)。ノア。アブラハム。モーセ。ダビデ、そして救い主イエスによる新しい契約。同じ1つの、神の憐れみによる救いと回復の契約です。だからこそ、主イエスご自身が弟子たちを宣教に送り出すとき、同じ1つの憐れみの御心から、こうお命じになりました、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16:15,日本キリスト教会 式文「教師任職式の任職の辞」)。神の国。それは、神によって造られたすべての生き物、生命あるもののことごとくを祝福するために建設されます。ノアとその家族、あるいはアブラハムとその親戚一同のためだけの国ではなかったのです。けれど神の国の建設事業は、一進一退を繰り返し、難航をきわめました。計画は度々すっかり破綻しかけたかのように見えました。旧約聖書という名前の、膨大な量の建築現場日誌が残されています。長い歳月が流れて、やがて主イエスの弟子たちがエルサレムの壮大華麗な神殿に見とれている間に、その彼らの目の前に、新しい青写真と見取り図が広げられました。神殿を飾る見事な石と立派な奉納物に、「なんとすばらしい石。なんとすばらしい建物でしょう」と弟子たちは心を奪われます。けれど主イエスはそのすばらしい立派な建物と都の人々のために悲しみの涙を流し、「もし、お前もこの日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら」と深く嘆かれたのでした。その嘆きと涙こそ、神の国建設事業の再開のための狼煙でした。こうおっしゃったのです「わたしは(人間の)手で造ったこの神殿を打ちこわし、三日の後に(人間の)手で造られない別の神殿を建てるのだ」(ルカ19:42,マルコ14:58,15:29)と。私たちの主イエスは、十字架から降りないことによって、罪人の一人に数えられ、唾を吐きかけられ、あざけり笑われることを通して、私たちの罪の贖いのために御自身の生命を投げ捨ててくださることによって、その死と復活によって、別の神殿を建てあげ、まったく別の新しい王国を建てあげてくださった。私たちはその国に住んでいる。いいえ。それどころか、私たち自身が神の神殿とされ、私たちの体の中に神の霊が住んでくださる。『いずれ、そのうちに』ということではなく、今現にその国の住民とされている。今現に、自分たちの内に、神の霊が住んでくださっている(1コリント手紙3:16)

9-11節、「こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。神の国がすっかり完全な姿で復興される時期は私たちには知らされていません。けれど、その国がどういう国であって、どのように建て上げられてゆくのかは、はっきりと知らされています。「天におられる私たちの父なる神」と私たちが呼ばわり、「あなたの御名をあがめさせてください。御国を来たらせて下さい。御心が天に成し遂げられるばかりでなく、この地上に、私たちが生きる日々の暮らしの只中にも成し遂げさせてください」とこの私たちが願い求めて生きるとき。「私たちの日毎の糧を今日も与えて下さい。与えつづけて下さっていることに感謝をいたします。私たちの罪をあなたがゆるしてくださったように、私たちも他者が犯す罪をゆるすことができるようにさせてください。誘惑にあわせず、悪から救い出してください」と願い求め、御心に信頼し、聴き従って生きようと努めるとき、そこに確かに、この私たち自身の口から出る何気ない言葉と、普段の行ないと心の思いの只中に、つまり、日々の生活の只中に神の国があり、着々と建て上げられていきます。

こう命じられています、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ福音書 1:15








ミレー「晩鐘」


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