7/3 こども説教 ピリピ手紙 2:6-11
2:6
キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、11 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。 (ピリピ手紙 2:6-11)
【こども説教】
神であられる救い主イエスにとって、何が一番たいせつであるかはとてもはっきりしていました。罪人である私たち人間と、神によって造られたこの世界と、すべての生き物たちを罪と惨めさから救い出すこと。神の憐れみのもとに元どおりの平和と幸いの中に回復させること。それが最も大切な、どうしても成し遂げるべきことです。その最も大切なことのためには、その他すべて全部はどうでもいいことに成り下がりました。神が神であることの偉さや立派さ、力強さ、素晴らしくあることも、皆からほめたたえられることもすべて一切がどうでもいいことになり、自分のいのちもどうでもいいことになり、ポイと投げ捨てて、身を屈め、低く下り、十字架の上で罪人として惨めな死を耐え忍んで、父なる神の憐れみの心に従いとおしてくださいました。それらすべては、罪人である私たち人間と、神によって造られたこの世界と、すべての生き物たちを罪と惨めさから救い出すこと。神の憐れみのもとに元どおりの平和と幸いの中に回復させるためにどうしても必要なことだったのです。それだけを選び取ってくださいました。こんな私のためにさえ。この最も大切なことが分からなくなってしまった時、私たちも、あのピリピ教会の人々のように「自分は自分は」と言い立てて、つまらない自分にしがみつきつづけ、自分の心をすっかり鈍くされて、どこまでも虚しく争いつづけます。
6-8節、「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」。ああ、そうだった。すっかり忘れていた。私も、すっかり分からなくなっていた。憐れみ深い神の御心をようやく思い起こして、1人また1人とへりくだって膝を屈め、「イエス・キリストは主。私たちはしもべにすぎない」と思い直す者たちが起こされていきます。
【大人のための留意点】
どうして、わたしたちは、そんなに自分を低く小さくしなくてはいけないのでしょうか。ここに書いてあるように、それこそが本当の神さまのみ姿だからです。……わたしたちは、ベツレヘムの馬小屋で人となられ、取税人・罪人・病人など苦しんでいる人といつもいっしょにいらしたイエスさま、十字架の上で全人類の苦しみを負われたイエスさま以外に、どこかほかに、神さまの姿を見つけ出そうとしてはいけません。そんなことをすると、わたしたちは、勝手に自分の頭で神さまをこしらえてしまいます。このように神さまご自身が、謙遜なお姿でわたしたちにご自分を示そうとなさったのですから、わたしたちも、自分のことばかりでなく、ひとのことも考え、ほかの人を自分よりもすぐれた者とし、どんな人も大切にしてゆかねばなりません。イエスさまがこの世に勝ったのは、ご自分を捨てることによって、その最後まで人々を愛しぬかれる愛によって勝利したのです。それゆえ、わたしたちは、心から「イエス・キリストは主である」と告白するのです。そして、これが礼拝の意味です(『喜びの手紙 ~ピリピ人への手紙による信仰入門~』蓮見和男、新教出版社 1979年,該当箇所)。