みことば/2022,7,17(主日礼拝) № 380
◎礼拝説教 ヘブル手紙 2:14-18 日本キリスト教会 上田教会
『試練の中にある者たちを』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
2:14
このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、15
死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。16 確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた。17 そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。18
主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである。 (ヘブル手紙 2:14-18)
問「主イエスは、どんなかたですか」
答「まことの神であり、どうじに、まことに人間でもあります」
問「主イエスは、いつからおられますか」
答「世界が造られる前から 永遠におられます」
問「いつから人間になられましたか」。
答「聖霊によって処女マリヤのお腹に宿り、人間の体を受けられたときからです。そして、人間になったあとでも神であることをお止めになりません」
問「主イエスは、なんのために神でありながら人間になられたのですか」
答「人間として、わたしたちのすべての悲しみと苦しみがお分かりになり、神として、わたしたちをすべての罪から救い出すためです」
問「主イエスは、父なる神に逆らったことはないのですか」。
答「神に逆らう罪を一度も犯しませんでした。主イエスに導かれて、わたしたちも 神に逆らうことを止めて、神に素直に従うものとされてゆきます」。
⇒ ヘブル手紙4:14-16 ,マルコ福音書14:32-42
(ここまで、上田教会「こども交読文3」から)
まず14-15節、「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである」。神ご自身であられる、神の御子イエス・キリストが、なぜ、生身の身体をもってこの地上に生まれ、生身の人間として生きて、惨めな死刑囚の死を死なねばならなかったのか。それは、ここに簡潔に述べられているとおり、私たち人間と同じ性質と条件をもち、ご自身の死と復活によって、私たちを死とその恐怖から解放し、救い出すためです。ここで、「悪魔を滅ぼす」と語られているのは、悪魔がもはや私たちの上に権力をもたなくなることを指しています。つまり、悪魔がなおまだ力をもっていて、私たちを滅ぼそうと企て、誘惑しつづけるとしても、その悪魔の支配の言いなりにされなくてもよいということです。
「死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである」。この言葉は、やがて死ぬべき自分であることを恐れる者たちの生涯がどんなに惨めなものであるのかをよく言い表しています。この私たちを含めて、ほとんどの人たちがやがて衰えて死ぬことを恐れ、惨めに、とても心細く暮らしていかなければなりませんでした。もし、救い主イエス・キリストなしに、自分が年老いて、しだいに衰えてゆくことや、やがて死ぬはずの自分であることを考えねばならないのなら、そうだとしたら、すべての人々にとって、死と衰えは耐えがたく、とても恐ろしいものだからです。一生涯つづく奴隷状態のように、果てしない不安と心細さと悩みがつきまとい、惨めな魂はその苦しみと悩みにさいなまれつづけます。もし、死と復活の救い主イエスを信じる希望がその人にないのならば、です。
「やがて死すべき自分であることを覚えよ」と昔の人々は言い、互いを戒め、また自分自身をも自分で戒め、励ましつづけました。私たちもそうです。神を知らず、信じない人々にとって、死は恐れたり、忌み嫌うほかないものであるとしても、けれど神を知り、信じている私たちにとっては、まったく違う新しい希望が与えられています。もちろん神を信じていても、私たちは日毎に衰えてゆき、やがて必ず一人また1人と死んでゆきます。けれども私たちは、もうそれを恐れる必要はなく、それを忌み嫌う理由もないのです。なぜならば精一杯に一日ずつを生きて、やがて死の川波を乗り越えて、神の永遠の御国へと辿り着かせていただける約束を受け取っている私たちだからです。救い主イエスを導き手としてもっている私たちは、生きるにも死ぬにも、幸いな日々にも、また病いの床に伏す日々にも、衰えてゆくときにも、なお安らかでいることができます。およそ500年も前の信仰問答はこう語りかけます;「生きるにも死ぬにも、あなたのただ1つの慰めは何ですか」「それは、生きるにも死ぬにも、わたしは体も魂もわたしのものではなく、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであるということです。このお方が、その尊い血によってわたしのすべての罪の代償を完全に支払ってくださり、まったく悪魔の権力のもとにあったわたしを解放してくださいました。そして、わたしを守り、天にいますわたしの御父の御心なしには一本の髪もわたしの頭から落ちることなく、実にすべてのことが必ずわたしの祝福に役立つようにさえしていてくださいます。それゆえ彼は聖霊をもたまわり、この御方によって、わたしに永遠のいのちの確証を与え、今後わたしは、彼のために生きることを心から喜び、その備えをしている者であるようにしてくださるのです」(「ハイデルベルグ信仰問答 問1 1563年」)。御父の御心なしには一本の髪もわたしの頭から落ちることがない。もちろん誰でも白髪になり、髪も抜け落ち、足腰も衰えますが、それは私たちを愛する神のあわれみの計らいの中でなされてゆく。だからそれらの衰えも死も、神にこそ十分に信頼し委ねる中で、恐れることも嘆くことも要らず、心安らかに受け止めることができる。これが、神からの約束です。
16-17節、「確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた。そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった」。救い主イエスは、なぜ人間の姿と性質をご自身の身に引き受けてくださったのか。天使たちよりも、神によって造られた他のすべての被造物よりも人間が優れていた、ということでは決してありません。私たちの中に何かの長所があった、ということもありません。「誇ってはならない。思い上がってはならない」と聖書は、私たちを戒めつづけます。創世記3章が報告するように、神に背く罪を犯したのは人間でした。そのため、神によって造られたすべての被造物と全世界が滅びの危機に瀕しました。ただ、天の父なる神が神によって造られたすべての被造物に対して大きな慈しみと憐みを用いてくださったのですし、私たちはそれを必要としていました(創世記8:21「人が心に思い図ることは幼い時から悪い。けれども~」参照)。
「そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった」。私たちの教会の『こども交読文』では、このように説き明かしています;「主イエスは、どんなかたですか」「まことの神であり、どうじに、まことに人間でもあります」……「主イエスは、なんのために神でありながら人間になられたのですか」「人間として、わたしたちのすべての悲しみと苦しみがお分かりになり、神として、わたしたちをすべての罪から救い出すためです」。救い主イエスについての理解として、『まことの神にして、まことに人間』(「カルケドン信条」451年)が大切です。初めから、この世界が造られる前から神として存在し、しかも人間になったあとでも神であることを片時も止めない。親しみやすい、身近な、『人間イエス』の側面ばかりが強調されがちですが、神でありつづけるイエスを決して見落としてはなりません。十字架前夜のゲッセマネの祈りにおいても十字架上でも、御父への信頼と従順とはほんのわずかも揺らぎませんでした。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ福音書27:46,マルコ福音書15:34)という十字架上での謎めいた言葉も、主イエスの絶望や諦めや嘆きをそこに読もうとするなら、すべてがすっかり分からなくなってしまいます。そうではありません。世々の教会は、『苦しみと嘆きから始まり、神への希望と信頼へと至る詩篇22篇全体を祈りながら、そこで私たち人間の嘆きと喜びを噛みしめ、味わっている』と受け止めてきました。その通りです。だからこそ、救いの御業を完全に成し遂げてくださった救い主に、この私共も十分な信頼を寄せつづけて生きることができます。もし仮に、救い主イエスに十分な信頼を寄せられないなら、その信仰は中身のない形ばかりのものに成り下がってしまうでしょう。自分自身や、人間的な権威や秩序、伝統、格式、名誉、単なる一般常識や世俗的な風習やしきたり、他さまざまなものにむやみに信頼を寄せ、その人はアタフタオロオロしつづけて、やがて神への信仰を失ってしまうでしょう。「人間に聴き従うのではなく、ただ神にこそ信頼し、従う」(使徒4:19,同529)と腹をくくれるかどうか。これこそが、信仰の決定的な分かれ道です。
さらに、つづけて、「主イエスは、父なる神に逆らったことはないのですか」「神に逆らう罪を一度も犯しませんでした。主イエスに導かれて、わたしたちも 神に逆らうことを止めて、神に素直に従うものとされてゆきます」。聖書が語る『罪』とは、神に逆らい、「私が私が」と強情をはることです。その頑固さと強情が周囲の人々を苦しめ、傷つけ、また私たち自身をみじめにさせます。しかも一人の例外もなく! 誰も彼もが頑固で強情で、誰も彼もがとても罪深い。だから『罪のゆるし』は、その頑固さと強情から解放して、神に素直に聴き従って生きることができるようにしてくださること。まず救い主イエスこそがそのように生きてくださいました。だから私たちも、『主イエスに導かれて、わたしたちも神に逆らうことを止めて、神に素直に従うものとされて』ゆきます。ゲッセマネでの主イエスの祈りのように、私たちも、「私の願いどおりではなく、父よ、あなたの御心のままになさってください。御心にかなって生きることを、私にも願い求めさせてください」(マルコ福音書10:15,同14:36,ローマ手紙12:1-2)と生きることができます。幸いは、ここにあります。
「あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった」。神が身を屈めて、神でありながら同時に人間となってくださった。まことの神であり、どうじに、まことに人間でもある。救い主イエスが選び取ってくださったその人間性とは、限界ある生身の人間という肉の本質と、心の動きです。人間に固有のもろもろの心の動き、人間としての私たちの弱さを身に負ってくださった。弱く貧しく愚かであるものたちに対してあわれみ深い、しかも父なる神に対してどこまでも忠実であってくださる大祭司となるために、人間のもろもろの感情に身を委ねてくださった。その「祭司」の務めは、神に背き、逆らいつづける者たちに対する神の怒りを鎮め、悲惨な者たちを助け、倒れてしまった者たちをふたたび起き上がらせ、疲れ果てた者たちを慰める職務です。さまざまな悪と試練に悩まされる度毎に、私たちは、その悩みと苦しみを御子イエスもまた味わってくださったことを思い起こすことができます。深い失望と落胆を味わう度毎に、この私たちは、救い主イエスもまたその1つ1つを味わってくださったことを思い起こすことができます。
18節、「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである」。助けることができる。ぜひそうしたいと願ってくださった。だから、どんな悩みや災いの中からも、どんな誘惑や試練からも、きっと必ず助け出してくださる。そればかりでなく主イエスに導かれて、わたしたちも神に逆らうことを止めて、神に素直に従うものとされていく。神からのこの約束を信じることができます。
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