7/24 こども説教 ピリピ手紙 2:16-18
『喜びなさい』
2:16
このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。17 そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。18 同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい。 (ピリピ手紙
2:16-18)
【こども説教】
まず16節、「キリストの日に~誇ることができる」。キリストの日というのは、「終わりの日の裁きの日」であり、同時にそれによって「世界のための救いが完成される日」です。その日には誇ることができる。つまり、それまではパウロも私たちクリスチャンも自分自身を誇らないし、誇ることができなくても少しも困らないのだと教え、そのように私たちを励ましています。
次に17-18節、「そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい」。喜ぼう。共に喜ぼう。喜びなさい。共に喜びなさい。またこの手紙の4章でも繰り返して、「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」(4章4節)。どうして、喜びなさいとしつこく繰り返しているのでしょう。嬉しいことや楽しいことが次々とあって、だから喜べと言っているわけではありません。むしろ逆です。心を痛める辛い出来事が次々と起こり、喜びも感謝もすっかり見失ってしまいそうだから、それで、「喜べ。喜べ」と必死になって励ましています。神を信じて生きる私たちにとって、喜ぶことのできる肝心の中身はいったい何だっただろうか。それを、ちゃんと、よくよく分かっているはずの私たちじゃないか。喜ぶことのできる肝心の中身。その、無くてはならない只一つの土台。神が生きて働いておられ、その神さまが私たちをも大切に思っていて下さり、私たちを支え、養い、守りっつづけていてくださることです。その、喜びと感謝と希望の根本の土台へと、大急ぎで立ち戻ろうじゃないか。手遅れになる前に、間に合ううちに、神の憐れみのもとへとなんとしても立ち帰ろうじゃないかと呼びかけています。
【大人のための留意点】
ある人が「自分が死に臨むとき、自分の生涯を振り返ってみて、それが永遠に向かっているなら、その人の人生は幸いである。人は一度しかこの世に生まれてこないのだから」と言いました。本当にそうです。わたしたちの青春の中にも、大喜びではしゃぎ回り、人生の生きがいを感じるような時もありますが、また時々、深く沈みこんで自分のことを考え、何のために生きているんだろう、この人生には意味があるのだろうかと、ゆううつになってふさぎ込んでしまうこともないでしょうか。しかし、イエスさまが買い取ってくださり、あがなってくださった人生は、むだになることはありません。
……パウロの人生が「むだではない」と誇ることができたのは、それが「キリスト・イエス」に向かっており、永遠なる神さまの愛に根ざしていたからなのです。たとい冷たい水一杯を与えるという、ほんのちょっとしたことでも、「イエスさまの弟子」という名のゆえにしたことは、永遠の報いから漏れることはありません(マタイ10:42)。反対に、どんなに大きな事業でも、いやしい心から始めたなら、砂の上に建てた家がどんなにすばらしくても崩れ落ちるのと同じになるでしょう(『喜びの手紙 ~ピリピ人への手紙による信仰入門~』蓮見和男、新教出版社 1979年,該当箇所)。