みことば/2022,7,10(主日礼拝) № 379
◎礼拝説教 ヘブル手紙 2:10-13 日本キリスト教会 上田教会
『苦難の救い主』
~御子イエスの道(2)~
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
2:10
なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである。11
実に、きよめるかたも、きよめられる者たちも、皆ひとりのかたから出ている。それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない。12 すなわち、「わたしは、御名をわたしの兄弟たちに告げ知らせ、教会の中で、あなたをほめ歌おう」と言い、13
また、「わたしは、彼により頼む」、また、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子らとは」と言われた。 (ヘブル手紙 2:10-13)
53:3
彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。5
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。6
われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。 (イザヤ書 53:3-6)
まず10節、「なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである」。万物の帰すべきかた、万物を造られたかた。これは、もちろん父なる神、子なる神である救い主イエス・キリスト、そして聖霊なる神です。この3つの神は思いを1つにして生きて働かれつづけます(=三位一体なる神。さんみ・いったい~)。思いを1つにして生きて働かれる3つの神によって、この世界は造られた。しかもなお、この手紙の冒頭で、「御子によって、もろもろの世界を造られた」(1:2)、また聖書の別の箇所で「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」(ヨハネ福音書1:1-3)と証言されるように、世界創造の働きは、子なる神である救い主イエス・キリストのお働きに集中します。だからこそ、その世界を回復させ、ふたたび祝福のもとに救い出す働きもまた、この同じ子なる神である救い主イエス・キリストのお働きに集中します。世界を創造された神ご自身が、神によって造られた世界と、神によって造られたすべての生き物を栄光と祝福に導くために、彼らの救いの君イエス・キリストを、苦難をとおして全うされました。それは、神の憐れみにふさわしく、また救い主イエスにふさわしいことだからです。
「彼らの救の君を、苦難をとおして全うされた」。救いの君イエス・キリストを、苦難をとおして全うされた。その「苦難」とは、神であられる救い主がへりくだって、ご自分を無になさり、自分自身を卑しくされたことです。肉体をもって生身の人間として地上に生まれ、私たち人間と同じ立場にご自分を置き、それどころか罪人として軽蔑され、あざけり笑われ、十字架上の死によって、すべての人間よりも、どこの誰よりもさらに低く下って卑しめられたことです。恵みにまったく価しない罪人である私たちを救うため、私たちを愛し憐れむ愛から、自分から進んで自分自身を虚しくしてくださった。それは御子イエスがぜひとも成し遂げたいと願ってくださった望みであり、栄光であり、喜びでさえありました。そうまでしなければすべての罪人と神によって造られたすべての生き物とを救いに招き入れることができなかったし、ぜひそのように救いたいと神が願ってくださった。それこそが、神の憐れみの御心にかなうことでした。
「苦難をとおして全うされた」。「まっとうされた。完全な者とされた」。(1)罪と悲惨の中に閉じ込められたものたちを救い出すためには、ご自身がその苦難を十分に味わう必要がありました。この同じ手紙の、同じ2章の末尾で、もう少し説明を加えています、つまり「そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである」(ヘブル手紙 2:17-18)。(2)しかも不思議なことに、これは神が、ご自身の民イスラエルを扱うときの、いつもの同じやり方でもありました。つまり神さまは、神の民とされた私たちをさまざまな苦しみや悩みの中で鍛え、忍耐することを習い覚えさせ、全生涯にわたって十字架のイエス・キリストのもとに希望と慰めを受け取りつづけて生きる者たちとしました。その私たちの長男とされた救い主イエスもまた、言わば実地訓練のように私たちが味わう同じ苦しみと悩みを十分に味わい、最後の最後まで、十字架の死に至るまで耐え抜いてくださり、それによって試練の中にある者たちを必ず助けることができる者とされました。
こう証言されます、「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである」(ロ―マ手紙 8:29-30)。十字架の恥と屈辱は一気に拭い去られ、救い主イエスの栄光がそこに輝きました。苦しみと悩み、はずかしめにあうとき、私たちもまた救い主イエスと同じく、やがて与えられる大きな祝福と喜びに向けて備える者たちとされます。それが、神さまからの約束です。
11節、「実に、きよめるかたも、きよめられる者たちも、皆ひとりのかたから出ている。それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない」。少し分かりにくくなってきました。ここで、「きよめるかた」と「主」は救い主イエスのことです。他方で「きよめられる者たち」とは、救い主イエスを信じて生きる者たちであり、主イエスから兄弟と呼ばれる「彼ら」であり、この私たちです。「皆ひとりのかたから出ている」という「ひとりのかた」は最初の人アダムです。アダムから出たすべての人間を罪から清め、回復させ、救い出すために、救い主イエスは神でありながら、同時にまったく人間となられました。日本キリスト教会信仰の告白はこのことを言い表して、「私たちが主とあがめる神の独り子イエス・キリストは真実に神であり、同時に、真実に人間であり、永遠の神の救いの計画に従い、人間となって人類の罪のため十字架にかかり、完全な犠牲をささげて贖い(あがない。相応の代償を支払って、人間の罪を償い、本来の望ましい状態を獲得すること)を成し遂げ、復活して永遠の生命の保証を与え、救いが完全に成し遂げられる日まで私たちのために執成していてくださる」と告白しています。これが、キリスト教信仰の希望と幸いの中身です。
「それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない」。主であられる救い主イエスは、ご自身を信じる者たちを、この私たちを自分の兄弟と呼ぶことを恥となさらない。「神の御心を行なう者は誰でも、わたしの兄弟、また姉妹、母なのである」(マルコ3:35)と。私たちを恥とされず、私たちの兄弟となってくださったことを恥となされなかった。たとえ私たちと主イエスとの違いは大きくても、私たちをご自分の兄弟姉妹と呼んでくださる恩恵を贈り与えてくださったとき、救い主イエスは御自身をとても低くされ、有りえないほどにもへりくだってくださった。もし、そうでなければ、私たちは救い主イエスのしもべに仕えるにも価しない者たちです。
さらに12-13節、「すなわち、『わたしは、御名をわたしの兄弟たちに告げ知らせ、教会の中で、あなたをほめ歌おう』と言い、また、『わたしは、彼により頼む』、また、『見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子らとは』と言われた」。救い主イエスは神の国の福音を告げ知らせ、ご自分の弟子たちにも、同じくその務めを委ねられました。神の国の福音は、神を知る知識へと私たちを導き、神の憐れみと善意が私たちの間でほめたたえられ、讃美されるようになさいました。1人の伝道者はこう打ち明けます、「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた」(1コリント手紙 15:3-6)と。自分が伝えられたことをこの自分も同じく他の人々に伝えている、というのです。今日でもこのように、福音は生身の人間たちによって伝えられつづけます。同時に、その生身の人間たちを用いて、神が御業をなさっていることをよくよく覚えつづけねばなりません。救い主イエスに仕えて働くその人々は救い主イエス・キリストの使者であり、彼らの教えや勧めはキリストの名によってなされます。たとえその人間が貧しく粗末な者であるとしてもなお、生身の人間がそこで語っているだけではなく、その人間の口を通して、キリストご自身が語りかけておられます。
「また、『わたしは、彼により頼む』、また、『見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子らとは』と言われた」。『わたしは、彼により頼む』とは、第一に、救い主イエスが父なる神に依り頼み、信頼し、聴き従うということです。第二に、救い主イエスを信じる私たちクリスチャンが救い主イエスに依り頼み、信頼し、聴き従うということです。また、イエスを通して、イエスに結びつけられて、私たちもまた父なる神に依り頼み、信頼し、聴き従うということです。私自身もこの自分を信仰に導いてくれた牧師から教えられたことをそのまま伝えます、『タテ並びになっている三つの神さまを心に思い浮かべましょう。まず先頭に、父なる神。その後ろに子なる神イエス・キリスト。そのまた後ろに聖霊なる神。子なる神である救い主イエスは、「父は。父の御心は~」(マタイ福音書11:27)と天の御父の御心を私たちに教える。父なる神は、「救い主イエスにこそ聴き従いなさい」(マタイ福音書3:17,同17:5)と子なる神イエスを指し示す。聖霊なる神は、「イエスは。イエスのなさったことと、その教えは~」と私たちにイエスを教え、イエスを信じさせてくださる。このように三つの神は一つ思いになって働かれます。例えばもし、誰かが「わたしは主イエスを信じます」と言い、心でも信じるとすると、それは聖霊なる神さまが教えてくださり、そのように信じさせてくださったのです(コリント手紙(1)12:3)』。ぼくを導いてくれた牧師がそう教えてくれました。聖書に、そう証言されているからです。ぼくも同じく教えます。皆さんも、それを大切な家族や友だちに伝えてあげられるならとても幸いです。なにしろ、聖書自身がそう教えているのですから。
『見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子らとは』。別の箇所で救い主イエスはこうはっきりとおっしゃいます、「父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」(ヨハネ福音書 6:37-40)。これが、私たちの希望です。
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金田聖治(かねだ・せいじ)
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