2020年9月30日水曜日

われ、弱くとも ♪主はわが飼い主

われ、弱くとも  18、最終回     賛美歌21120番、讃美歌Ⅱ編の41

 ♪ 主はわが飼い主

 

  こんばんは。讃美歌をごいっしょに読み味わっていきましょう。賛美歌21120番、讃美歌Ⅱ編の41、『主はわが飼い主』です。詩編23編をなんとかしてそのまま歌おう、と努力しました。この歌ばかりではなく、多くの作り手たちが詩編23編を歌おう、心に深く刻み込もうと試みつづけ、詩23編から数多くの讃美歌が生み出されました(賛美歌21では、97981201212193674584594611954年版でも同じようです。213247270294303354472527。Ⅱ編では、6156197など)。この詩編23編こそが、クリスチャンの生涯をよくよく言い表し、その希望と慰めのありかをはっきりと指し示しつづける大切な聖書証言の1つだからです。まず歌の1節から4節までを読みましょう;「主はわが飼い主、私は羊。み恵みによって、すべて足りている。青草の原に私を伏させ、憩いの水辺に連れて行ってくださる。主は私の魂を生き返らせ、正しい道へと導いてくださる。死の陰の谷を行くときにも、私は災いを恐れない。なぜなら主が共にいてくださるのだから」。旧約聖書の時代。羊飼いは、ごく普通のありふれた職業でした。羊たちと羊飼いの毎日の暮らしを眺めつづけて、「あのウロウロチョロチョロしている羊、あれは私だ」「いつもまごまごして置いてきぼりにされそうな危なっかしい羊、俺そっくりだ」などと。そうした様子に重ね合わせて、人々は神さまを思い、自分たちの暮らしを思いめぐらせつづけました。ああ、羊飼いのような神様だし、その羊飼いに養われる1匹1匹の羊のような私たちだと。では、私たちはどこがどう羊のようなのか。例えば、恐ろしいキバもない。立派な角も、鋭いツメもない。太くて強い腕もなく、足が速いわけでもない。危険を聞き分ける良い耳もない。身を守るための硬い甲羅もない。だから羊のようなのだ。その弱さと無防備さ、危うさ、心細さが羊のようなのだ。近眼で、目がとても悪い。目の前の、いま食べている草しかよく見えない。うまい草をムシャムシャ食べているうちに簡単に道を逸れて迷子になってしまう。仲間の群れからも飼い主からもはぐれて、どこへ行ってしまうだろう。どこまでも行って、うっかり山のテッペンへも、戻ろうとして足を滑らせ深い谷底へ真っ逆さまに転げ落ちてしまいそうだ。腹も減り、ノドも渇き、寒さに凍えてメエメエ鳴く他ない。だから羊のようなのだ。もし、迷子になったその一匹の羊をどこまでも探し求めてくれる愛情深い良い羊飼いがいてくれなかったら、熊や狼に食べられてしまうだろう。羊ドロボウに盗まれてしまうかも知れない。だから羊のようなのだ。羊飼いのような主であり、この私は主に養われる羊だと噛みしめているのは、この羊がすでに何度も何度も、死の陰の谷をくぐり抜けて、その度毎に救い出されてきたからだ。自分自身の弱さや危うさを知り、貧しさを知り、その分だけ羊飼いである主の慈しみ深さをつくづくと知ったから。また聖書自身は、「やがて神さまご自身である良い羊飼いが現れる。そのお独りの方こそが救い主だ」と預言しました(エゼキエル書34:1-24参照)。長い長い歳月がすぎて、あるときナザレ村から来たイエスという方が不思議なことを語りだしました。「ある人が100匹の羊を飼っていてそのうちの1匹が迷子になったとする。そうしたら」、また「私が良い羊飼いだ。なぜなら羊たちのことをよく知っているし、羊も私を知り、私の声に聴き従う。私は羊のために自分の命を捨てる(ルカ15:1-7,ヨハネ10:7-18参照)。それを聞いて、聖書に親しんできた人々の中の中の何人かが気づきました。「あ、あのことか。じゃあ、このお方こそが救い主なのか」。

  さて昔々あるところに、1人の淋しがり屋のおばあさんが住んでいました。その人はクリスチャンでした。「乏しい。乏しい。乏しい。あれも足りない、これもこれも足りない」「心細い。心配だ。恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい」と、朝も昼も晩も口癖のようにつぶやきつづけました。心配事が山ほどあり、心細くて、それでいつも小さな声でグチをこぼしていたのです。あるとき、そのおばあさんが転んで足を挫きました。毎週毎週の礼拝を楽しみにしていた人でしたけれど、教会に来ることが出来なくなりました。お見舞いにいったとき、その人の牧師は彼女にこう言いました;「さあ、困りましたね。……そうだ、いいことがある。詩編23編を暗記してもらいましょうか。どうです?」。おばあさんは、いつものように顔をしかめて、渋~い返事をしました。「えー、そんなこと嫌だわ。無理だわ。どうして私が? 誰か他の人にさせてくださいよ。面倒くさいし、だいいち私はもうすっかり年をとって、もの忘れがひどくなったんですよ。詩編23編の暗記だなんて、絶対に無理です。できません、できません、できませ~ん」。そのおばあさんは、暗記しました。もちろん、いつものように「あーでもない。こーでもない」と不平不満や文句を山ほど並べたてながら、嫌々渋々でしたけれど。だってその牧師が「できなきゃ地獄に落とす。天の国は立ち入り禁止」などと言って脅かして、無理矢理に覚えさせたんですから。そのおばあさんの家に、牧師は訪ねていきます。おばあさんは何しろ足を挫いていますし、ずっと横になっていたものですから、腰も背中も首も痛くなって、アイタタイタタイタタタタと、布団の中でうめき声をあげます。「ああ、こんな体になっちゃって。どうせ私なんかは。情けない。恥ずかしい。情けない、恥ずかしい」と、おばあさんはいつものようにグチをつぶやきます。「乏しい。乏しい。乏しい。あれも足りない、これもこれも足りない」「心細い。心配だ。恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい」と、朝も昼も晩も口癖のようにつぶやきました。本当はずいぶん欲張りだったので「乏しい。乏しい。乏しい」と不満を募らせました。臆病でしたし、とても見栄っ張りだったので、「情けない。恥ずかしい。情けない。恥ずかしい」と。しばらくそのうめき声や愚痴を聞いた後で、「じゃあ、聞かせていただきましょうか」と牧師は催促します。「ええっ、やっぱり覚えきれませんよ。無理です。私は頭が弱くなってしまって。暗記しようとしたら、頭の中でゴチャマゼになってしまって。壊れたレコードみたいに、同じ所に何度も何度も戻ってしまって。できません。ああ情けない、恥ずかしい。情けない、恥ずかしい」。「それじゃあ、どうぞ。忘れたら、ときどきカンニングしてもいいですよ」「だって、でも。だって、でも、やっぱり。「……主はわが牧者なり、われ乏しきことあらじ。主は我をみどりの野にふさせ、いこいの汀にともないたまふ」。つっかかり、つっかかりしながら、ときどき文語訳と口語訳と新共同訳をゴチャマゼにしながら、ときどきは、チラッと聖書のページを確かめながら、壊れたレコードのように同じ所へ何度も何度も戻ってしまって、その度に赤くなったり青くなったりし、目を白黒させながら、それでも、おばあさんは覚えた言葉を一生懸命に読み上げます。それが、おばあさんと牧師の日課になりました。体の具合も少しずつ良くなって、起き上がることができるようになり、台所をかたづけ、また近所をソロリソロリと出歩けるくらいにまで回復しました。それでも牧師がやってくると、おばあさんはドキドキします。「あ、また来た。困ったわあ、どうしましょう」。お茶を飲み、世間話を少しして、「じゃあ、聞かせていただきましょうか」と、いつものように牧師が催促します。「エヘン。ン、ン。……主はわが牧者なり、われ乏しきことあらじ。主は我をみどりの野にふさせ」。やがておばあさんの足は治り、また日曜日の礼拝に来ることができるようになりました。それからまた何年かが過ぎました。おばあさんの口癖は、今でもやっぱり、「乏しい。乏しい。乏しい。あれも足りない、これもこれも足りない」「心細い。心配だ。恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい」。そうですね。ほんの少し、それを言う回数が減ったかも知れません。1日に10回くらい繰り返していたのが7、8回くらいに。遠い所に離れて暮らすそのおばあさんの息子から、あるとき牧師に、1枚のハガキが届きました;「ありがとうございます。母は礼拝を守っています。いいえ、礼拝が母を守ってくれているのです。心から感謝をいたします」。ときどき、おばあさんは思い出して、独りの部屋で、あの聖書の言葉を言ってみます。「エヘン。ン、ン、……主はわが牧者なり、われ乏しきことあらじ。主は我を」。

  羊飼いに導かれて旅をしつづける羊たちの群れがあり、私たちはその1匹1匹の羊だと聖書は語りかけます。羊たちの格別な幸いが歌われます。けれどその羊たちも、ほんの少し前まではとても淋しがり屋でした。心配事が山ほどあり、心細くて、それでいつも不平不満や文句やグチをこぼしつづけていました。「あれも足りない、これも足りない。乏しい。乏しい。乏しい」と「心細い。心配だ。恐ろしくて恐ろしくて仕方がない」と。何日も満足な食料にありつけず、水場も見当たらず、飢え渇いてさまよう暮らしがつづきます。羊飼いは羊たちに草と水を与えるために、羊たちと一緒に野宿をしながら山々を越え、薄暗い谷間の奥深くにまで分け行って進みます。野の獣が羊たちの命を狙いに来ます。夜の闇に紛れて、羊ドロボウも忍び寄ります。死の陰の谷をようやくくぐり抜けたかと思うと、次の死の陰の谷。また、死の陰の谷。その連続です。それなのに今、あの羊たちは「すべて足りている。何も欠けることがないし、もう十分だ」。いつ、そう言っているのでしょう。青々とした草原で、お腹一杯に草を食べているときに? あるいは冷たくて美味しい水のほとりでゆったりと休んでいるときに、そこで「満足満足」と言っているのでしょうか。「わたしは災いを恐れない。なんの心配も不安もない」。羊たちは、いつそう言っているのでしょう。死の陰の谷を歩いているその真っ只中で、そこで、そう言っているのです。草一本も生えていない、もう何日もつづけて水の一滴も口に出来ない荒れ野を旅しながら、この羊は歌うのです。「乏しきことあらじ、なんの不足もない。これで十分」と。やせ我慢でもなく、体裁を取り繕って見栄を張ってでもなく、腹の底から安心しており、豊かであり、満ち足りることができました。なぜなら、ついにとうとう理解したからです。「主はわが牧者なり」と。「あなたが私と一緒にいてくださる。だから」と。

  233節に「御名のゆえをもて」とあります。いったいどうして羊たちをその羊飼いは導き通し、やがてきっと必ず憩いの緑の野と水のほとりに連れていってくださるのか。真面目な羊だからとか、よく働く役に立つ羊だからなどということとは何の関係もなく。痩せっぽちの小さな羊も、へそ曲がりの不平不満をブツブツつぶやいてばかりいる羊も、ひがみっぽいイジケた羊も。いつも気もそぞろで、たびたび迷子になってしまう迂闊な羊も、なんの区別も分け隔てもなく。その理由は、ただただ良い羊飼いである神さまご自身の中にこそある。御名のゆえをもて。名前は、そのまま中身です。神さまの名、それは神さまご自身の実態であり、お働きであり、こういう神様だからということです。これこれこういう私たちなのでということではなく、何しろ、神さまがそういう神さまなので、だから、そうなさる。ご自分の羊を見放さず見捨てず、必ず導き通す。神さまは何しろそういう性分なので、と。

 歌詞の5節6節を読みましょう;「恵みにあふれる宴会を開いて、主は私の頭に良い香りの油を注いでくださる。命のある限り、幸いは尽きることがない。主の家に私は帰り、そこに永遠に住まわせていただこう」。詩23編の末尾(6)です。「命のある限り、恵みと憐れみはいつも私を追いかけてくる」。恵みと憐れみとを与えてくださる羊飼いご自身こそが私をどこまでも追いかけ、ピタリと寄り添って来てくださる。それは、私たちがしばしば羊飼いの恵みと慈しみから迷い出てしまったからであり、羊飼いの恵みと慈しみから時には逃げ出そうとしたからです。これまでいつもそうだった、と彼らは実感しています。では最後の質問。「命のある限り」とは何でしょうか? この地上に生きている限りは、でしょうか。それなら死んだ後では、羊飼いご自身も、羊飼いの恵みと慈しみも消えうせるというのでしょうか。「決してそうではない」と彼らも私たちも知っています(イザヤ46:3-4,139:7-12)。これまで、ずっとそうだった。今もそうだ。ならば、これからも必ずきっと主なる神さまの恵みと憐れみの只中を、私たちは生きることになる。祈りましょう。