われ、弱くとも (プレイズワールド7番、新聖歌481番)
♪ 祈ってごらん分かるから
こんばんは。讃美歌をごいっしょに読み味わっていきましょう。『祈ってごらん分かるから』という讃美歌です。これが収録されている讃美歌集は、いのちのことば社発行のプレイズワールド。リビングプレイズという讃美歌集の子供版です。歌詞を読んでみましょう;「君は神さまにネ話したことあるかい? 心にあるままを打ち明けて。天の神さまはネ、君のことなんでも分かっておられるんだ、なんでもね。だから空あおいで『神さま』と一言いのってごらんよ、分かるから。小川のほとりでも、人ごみの中でも、広い世界のどこにいても、本当の神さまは今も生きておられ、お祈りに応えてくださる」。心にあるままを打ち明けて、神さまに話す。それが祈りだ、とこの讃美歌は教えてくれます。何でも分かっておられる神さまが、けれども「ぜひ話しかけてほしい」と願ってくださり、耳を傾けていてくださる。だから、私たちも祈ってみよう、神さまに話しかけてみようじゃないか。例えば、この聖書の神さまを信じはじめたばかりの人たちに祈りの手ほどきをします。日曜学校の子供たちにも、「こうやって祈るんだよ。分かるかい」と。祈るのが苦手だという人もいるし、「得意だし、結構好きです。いつも祈っています」などという人もいます。どんな言葉遣いでどんな仕草や態度で祈るのか。何をどう祈るのか。だいたい何分間くらい祈るのか。いつ、どういう場所で祈るのか。多分、そういうことで困る人はあまりいないでしょう。けれど、どう祈っていいか分からない。主イエスの弟子たちもイエスに、「先生、私たちにも祈りを教えてください」と願い出ました(ルカ11:1)。それは作法や手順を問う問いではなくて、むしろ祈りの本質を問いかけています。祈りを向ける相手がどんなお方なのか。どんな相手が、あなたの祈りに耳を傾けているのかが分からず、それで戸惑っている。その証拠に、「いやいや、どんな言葉でもいいし、どんな仕草で祈ってもいい。目を開けていてもいいし、つぶっていてもいい。何でも自由に祈ってみなさい。1、2の3、ハイどうぞ」と言われても、それだけでは祈りはじめることなどできません。どんな神さまが、どんな心で、この私の祈りを聞いておられるのか。それこそが、祈りについての究極の問いかけです。どんな神さまを、あなたはどのように信じているのですか?
誰にでも、生涯で一番最初の祈りがありました。僕にもあったし、あなたにもあったでしょう。こうやって祈るんだよと、牧師や神父か、あるいは信仰を持つ友だちの誰かが手ほどきしてくれたかも知れません。それで、この人は生まれて初めてとうとう神さまに向かって祈ってみました。だって、本当は神さまに向かって話しかけたいことがいっぱいあったのです。私が味わってきた辛さと悲しみ。嬉しかったことも、とても恐ろしかったことも。激しく心を揺さぶられ、心を惑わされ、どうしていいか分からなずただただ溜息をついたことも、惨めで心細かったことも、その1つ1つを神さまに向かって話したかった。「ありがとうございます」と頭を下げたかったし、「助けてください。支えてください」とすがりつきたかった。けれど空を仰いで「神さま」と呼びかけて、その後の言葉がつづきませんでした。思いがあふれるばかりで頭の中も真っ白になって、何と言っていいか分からなくなった。あのお、ええとええと……。それでモジモジしながらその人は帰っていきました。もし、それを脇からこっそり眺めていた人があったなら、「なあんだ。祈るのを途中で止めてしまったのか」と思うかもしれませんね。祈りの訓練がまだまだ足りない、未熟だなあ、などと軽はずみにこの人を見下してしまうかも知れません。けれども兄弟姉妹たち、神さまは、「なあんだ」とガッカリしたりバカにしたりはなさいません。「よし。よく祈ってくれた。ありがとう、ありがとう、私は嬉しい」と大喜びに喜んでくださるに違いありません。空を仰いで「神さま……」、これでもう十二分に豊かな祈りだったのです。整っていない、ひどくぶっきらぼうで言葉足らずで幼い祈りも、それどころか私たちの言葉にならない呻き声も、溜息も涙も叫びも、その1つ1つは祈りとして神さまの耳に届きます。祈りがそういうものだという以前に、祈りに耳を傾けつづけてくださる神さまは、そういう神さまであるからです。だからこそ、例えば詩編130編は「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます」と神さまに向けて呼ばわっていました。まとえ深い水の底からでも、地の果てからでも、その祈りやつぶやき、叫びや涙は祈りとして神さまの耳に届き、聞き分けられます。例えば出エジプト3章、燃える柴の木の中から神さまはモーセに語りかけました。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し……、彼らを導き上る」(7-8節)と。彼らの苦しみ、叫び声や溜息、痛くて痛くて「ううう」と漏れる呻き声でさえ、祈りとして聞き届けてくださる神さまです。アダムとエヴァ夫婦の息子カインがアベルを殺したとき、神さまは兄さんのカインに語りかけました、「お前の弟アベルはどこにいるのか」「知りません。私は弟の番人でしょうか」「なんということをしたのか。お前の弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる」(創世記4:9以下)と。こういう神さまなのです。隠れたことを見て、聞いている神さまが、祈りはじめる前からあなたの祈りに耳を傾け、「ぜひ私に向かって祈ってほしい」と願い、待ち構えておられました。
隠れたことを見ておられ、人の心を見抜く神さまだと告げられて、あなたはどう感じますか? いろいろな思いが私たちの心の中に沸き起こります。良い思いも、ねじくれた悪い思いも。心優しく暖かで立派な思いも、あるいは恥じるべきよこしまな思いも。それらすべてをすっかり見抜いておられる方がいる、と聖書は告げます。どうしましょうか。逃げ出したくなるか、穴があったら入りたいか。穴に隠れても逃げても、あなたの行いも心の思いも、神さまの目にすっかりさらされて、隠しようもない。けれど恐れはじめる前に、私たちは立ち返りましょう。思い起こしましょう。どんな神さまだったかと。愛してくださる神さまであり、ゆるしてくださる神さまではなかったでしょうか。あなたのその弱さと貧しさを、あなたの傲慢さ、ズルさ、意固地でかたくなであることを、卑屈なくせにいつも自己中心であることを、そのことごとくをよくよく分かった上で、なお愛し、なおゆるし、迎え入れてくださった神さまではなかったか。だからこそ、天に主人がおられ、その主人が見ておられる(コロサイ手紙4:1,マタイ6:6)。それこそが私たちクリスチャンのための祝福であり、戒めでありつづけます。
神さまが見ていてくださるし、知っていてくださる。そして、私たちも知っている。何を。神さまが生きて働いておられ、その神さまは慈しみ深い神さまであり、私たちをとても大事に思っていてくださり、その私たちのためにも最善をはかり、最善を備えていてくださるということを。私たちの悩みや葛藤も、私たちそれぞれの生涯も、この世界も、生きて働いておられます神さまの恵みの御手の内にこそある。「万事が益となる」と断言されています。あなたのためにも、万事を益としてくださる主なる神さまがいてくださると断言されています(ローマ手紙8:28参照)。それはもちろん、神さまを信じる者がどんな禍や困難からも無縁だということではありません。神さまを信じていてもいなくても、人は重い病気にかかり、交通事故にも遭い、勤めていた会社が倒産したり、クビにされたり、借金を抱え、人から容赦なく責め立てられたり、陰口をきかれることもある。年老いて、目も耳も足腰も衰え、病院のベッドに長く横たわり、やがて死んでいきます。もちろんです。あるいは、子育てや大切な務めの道半ばで倒れることもありえます。後ろ髪を引かれるようにして立ち去って行かねばならないこともあるでしょう。病気が治ることもあり、治らないままそれを抱えて苦しみながら生きることもあります。孤立無援で、助けも支えもなかなか見出せない日々もあります。それが、生きるという私たちの現実です。その同じ現実を、クリスチャンも同じく生きていきます。ただ、それだけが現実なのかといえば、そうではありません。私たちのための神さまの現実が確かにあり、この私たち1人1人は、生きて働いておられます真実な神さまの慈しみの内に据え置かれている。「天におられる私の父の御心によらなければ、髪の毛一本も私の頭から虚しく地に落ちることはない」(ハイデルベルグ信仰問答の問1,マタイ10:29-31参照)と教えられ、そのように信じています。もちろん、いつまでも黒髪フサフサというわけではなく、白髪頭になるしハゲ頭になるし、爺さん婆さんになる。けれどそれは天の父の慈しみの御手のうちに取り扱われつづける。そのことに、私たちは信頼を寄せています。そうでしたね。だから白髪頭になっても、ハゲ親父になっても足腰衰えてヨボヨボになってもなお晴れ晴れとしています。
さて、この讚美歌で「神さまと一言、祈ってごらんよ。分かるから」と歌う。逆に、祈るのでなければ決して分からない。じゃあ何が、どう分かるというのか。私たちの神さまが今も生きて働いておられ、その神さまはあなたの祈りに応えてくださる方であるということが。私たちの神さまは、この私のためにもあなたのためにも恵み深い真実な神であってくださり、主であってくださり、あなたの祈りやつぶやきに耳を傾け、あなたと共にいて支え、どこからでも助け出し、心強くあなたとあなたの家族とその生涯を持ち運んでくださる。語りかけながら、祈りの中で神さまと出会った人々のことを僕も思い出しました。ペトロやパウロなど、主の弟子たちもそうでした。マリアとマルタもそうでした。中風の人を戸板に乗せて運んできた4人の人々もそうでした。12年間も出血の病気に苦しめられてきたあの女性もそうでした。墓場に鎖でつながれていたあの彼もそうでした。神殿の入口で座って物乞いをしていた男もそうでした。息子や娘の命をなんとかして助けていただきたいと主イエスのもとにやってきた父さんや母さんたちもそうでした。僕もそうだったし、あなたもそうですか。主イエスとの格別な出会いが積み重ねられていきました。そうそう、兄さんに殺されるかもしれないと夜逃げをしていった、あの双子の弟ヤコブもそうでした。創世記28:10以下です。野宿をし、石を枕にして眠り、神さまと出会いました。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも神さまの御使いたちがそれを上ったり下ったりしていました。あの時から、彼も神さまを信じて生きる者とされました。主は仰いました。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」。ヤコブは眠りから覚めて言いました。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」。そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」。主なる神さまがここにいる、と彼は気づきました。人里離れた誰もいないこんな荒地さえ、神の家、天の門とされている。それじゃあ、神の家じゃない場所などもう世界のどこにもないじゃないか。どこもかしこもとっくの昔から神の家、天の門とされつづけていたのか。ああ、私は知らなかった。小川のほとりに独りで立つときにも、見ず知らずの多くの人々に囲まれていても、広い世界のどこにいても、この神さまこそが、あなたの支え、あなたの助け、あなたの頼みの綱でありつづけてくださる。それは、立派な大先生にいくらしつこく丁寧に説明されても、難しい本をたくさん読んでも分からない。滝に打たれても、断食しても分からない。そうではなく、ただ「神さま」という、あの祈りの格闘を積み重ねてゆく中で分かってくる。きっと分かるから。だから、あなたも祈ってごらん。