みことば/2020,9,20(主日礼拝) № 285
◎礼拝説教 ルカ福音書 12:51-53 日本キリスト教会 上田教会
『平和ではなく分裂を』
12:51 あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。52 というのは、今から後は、一家の内で五人が相分れて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、53 また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう」。 (ルカ福音書 12:51-53)
2:13 ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。14
キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、15 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、16
十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。17 それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。18
というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。 (エペソ手紙2:13-18)
まず51節、「あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である」。もちろん、救い主イエスは平和をこの地上にもたらすために来られました。それは本当です。ただ、その平和はとても大きな素晴らしい平和です。神と、神によって造られたすべてのものたちが平和に、心を通わせ合って共に生きることであり、人間同士も、さまざまな違いを乗り越えて互いに相手を尊重し、労わり合い、それぞれが背負ってきた痛みや苦しみを思いやり合い、手を差し伸べ合って生きる平和です。自分中心の身勝手な思いを捨て去ってこそようやく少しずつ形造られ、だんだんと成し遂げられてゆく平和です。だからこそ、その大きな素晴らしい平和は、そう簡単には実現しません。その実現の前には、きびしい対立や争いや分裂も起こります。何度も何度も。その分裂や憎しみの中から、平和が芽生え、育てられてゆきます。きびしい対立や争いや分裂が何度も起こることは決して無意味なことではなく、その苦しみの中から、平和や和解のために立ち上がる人々が出てくるからです。「平和ではなく分裂である」と救い主イエスが仰ったのは、そういう意味です。分裂や憎しみや争いを通して、それを乗り越えて生み出されてゆくはずの平和を、この地上に、私田たちの間にもたらすために、救い主イエス・キリストは来られました。
最初に救い主イエスご自身が神の国の福音を宣べ伝えはじめたときにも、それを喜んで聞き、受け入れた人々がおり、同時に、そうではなく厳しくはねつけた多くの人々もいました。預言者たちの時代にもそうであり、主イエスの弟子たちとキリスト教会の長い歴史の中でもそうでした。「私は救い主イエス・キリストを信じます」と私たちが人々の前で信仰を告白するとき、多くの抵抗や反発が起こり、多くの人々の憎しみも湧き起ります。だからこそ救い主イエスご自身がその弟子である私たちに、争いや分裂に対して備えをしておくようにと警告しておられます。なぜなら、主イエスの弟子である私たちは神の国の福音のために、それが真実であることを証言するために闘い、その実現のために働き、踏みとどまって忍耐する必要もあるからです。支えや助けや励ましが無ければ、心の弱い者たちは押しつぶされ、心を挫けさせてしまいかねないからです。しかも、どの一人も例外なく、だれもが心の弱い者たちであるからです。もちろんそれぞれの伝道者も同じです。一人一人のクリスチャンもまったく同じです。このことを互いに覚えておきましょう。
救い主イエスのご支配のもとには、ほかのどことも違う格別な平和と、穏やかな静けさがあります。主イエスの弟子である私たちはその平和が与えられると約束され、それを受け取って生きるようになると保証されています(ヨハネ福音書14:27)。私たちはどこへと向かうのでしょう。その平和は、どのようにして贈り与えられるでしょうか。聖書は証言します、「ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである」(エペソ手紙2:13-18)。救い主イエスが与えてくださった平和は、神を知らず、信じることもしない人々と、神を信じて生きる者たちとの間の平和です。この私たち自身こそが神を知らず、神を信じて生きることを拒みつづけていた者たちでした。神から遠く離れていた私たちを、神がご自身のもとへと近づけてくださいました。『十字架のあがない。十字架のあがない』と、私たちは互いに語りつづけます。しかも、その中身は、キリストの血によって成し遂げられた神との平和であり、互いの平和です。私たちのうちに根深くありつづけた『敵意という隔ての中垣』をキリストご自身が取り除いてくださいました。神と和解させていただき、キリストは、ご自身が十字架にかけられて死んで復活なさったとき、私たちのその『敵意』をもご自身の十字架につけて滅ぼしてくださいました。ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄してくださいました。神を信じない、神の御心を侮り、軽んじて憎みつづける私たちの敵意を十字架にかけて滅ぼしてくださり、その私たちを、信じて生きる者たちへと造り替えてくださいました。これが、私たちのために成し遂げられた十字架のあがないです。そのあがないの上に立って平和の福音に私たちは耳を傾け、受け入れつづけています。一つの御霊の中にあって、御父のみもとに近づくことができる私たちとされています。これが、私たちのために成し遂げられた十字架のあがないです。しかも、だからこそ、『十字架のあがない』はなお、この私たちのために続いています。神の御心に背く心を日毎に滅ぼされ、そのように神と和解させられ、御心にかなった歩みを願うように励まされつづけ、自分自身が深く抱えてしまったさまざまな敵意と、分け隔てと、排除や憎しみの心を、十字架にかけて日毎に滅ぼされているからです。救い主イエスの十字架の血と、そこで引き裂かれた肉こそが、私たちのためにキリストの平和を成し遂げました。
例えば、主イエスの復活の朝に弟子たちは周りにいる人間たちへの恐れに取りつかれ、臆病になって小さく縮こまっていました。隔ての中垣を自分の中でどんどんどんどん高く大きくんしてゆくとき、そこに救い主イエスが来てくださって、「安かれ」とあの弟子たちに仰いました。安かれ。平和があるように、という意味です。弟子たちの中に立ち、てのひらと脇腹の傷跡を見せてくださいました。そこでようやく、弟子たちに喜びが溢れました。イエスはまた弟子たちに言われました、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす。聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」(ヨハネ福音書20:19-23)。私たちの内にキリストの平和があり、キリストのあがないが確かに成し遂げられてあることの中身は、これです。主イエスから遣わされてこの世界を生きる私たちが主イエスからの指図とご命令通りに、神からの罪のゆるしを告げ知らせ、その人々も私たち自身をも罪から解き放ち、神との平和に生きる者たちへと招き入れていただくことです。『十字架の平和と、十字架のあがない』がこのように、私たちの生活の只中で生きて働きつづけます。自分の大切な家族や隣人や、職場の同僚たちを、罪から解放しながら、また私たち自身も敵意や妬みや、分け隔てと、排除や憎しみの心を、十字架にかけて日毎に滅ぼされつづけます。臆病な心がいつの間にか、穏やかで安らかな心へと造り替えられてゆきます。
52-53節、「というのは、今から後は、一家の内で五人が相分れて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう」。家族の中でも、あるいは職場や地域やそれぞれの共同体の中でも、互いに分かれて対立したり、争ったり、いがみあったりする日々がつづくかもしれません。キリスト教信仰のせいで、そうした争いや対立が起こる場合もあり、あるいはまったく違う原因で起こる場合もあるでしょう。遠い昔、預言者が告げました、「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」(マラキ書4:5-6)。直接には洗礼者ヨハネの働きについて語られたものですが、これはヨハネにつづくすべての伝道者、またすべてのクリスチャンの役割と成し遂げるべき使命について語りかけています。「父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる」。正しくは、「父たちの心をその子供たちに。子供たちの心をその父たちに向けさせ」です。父さん、母さんたちは、神を信じる信仰を子供たちや孫たちに伝え、神を信じて生きる幸いを知らせ、神の御心を子供たちへと告げ知らせるとても大切な務めを神から託されていました。父たち母たちのそれぞれの心ばかりではなく、むしろ父なる神の御心へと、自分自身と子供たちの心を向けさせ、子供たちの心へと父なる神の御心を向けさせること。
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だからこそ、かつて神から遠く離れていた私たちがここにいます。神を知らず、神を思うこともなく、自分たち自身とこの世界のことばかり思い煩って、心をさまよわせつづけていた私たちが。『敵意という隔ての中垣』をあちこちに、いくつもいくつも築き上げていた私たちがいます。罪とは、神への反抗です。「私が私が」と自分中心になって強情を張り、神から遠く離れていた私たちは、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって神の側近くに引き寄せられ、お互い同士に対しても近いものとされました。私たちにとって何が平和でしょう。平和はどこにあるでしょう。それは互いに顔色を窺い合うことではなく、話を合わせてただ同調し合うだけではなく、恐れてうわべを取り繕うことでもなく、互いに波風立たないように静かにしていることでもありません。なぜなら第一に、何にもまして、神ご自身との平和であり、神の御心にこそ従って生きていきたいと願う平和だからです。天におられる主人にこそ従って生きることを選び取っているからです(コロサイ手紙4:1)。わたしたちは、一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからです。
罪のあがないを成し遂げてくださった救い主イエスが仰います、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ福音書1:15)。