2020年9月1日火曜日

8/30「天に宝を蓄えなさい」ルカ12:33-34

 

                        みことば/2020,8,30(主日礼拝)  282

◎礼拝説教 ルカ福音書 12:33-34                     日本キリスト教会 上田教会

『天に宝を蓄えなさい』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

12:33 自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。34 あなたがたの宝のある所には、心もあるからである。  (ルカ福音書 12:33-34)

                                               

8:17 あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。18 あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである。19 もしあなたの神、主を忘れて他の神々に従い、これに仕え、これを拝むならば、――わたしは、きょう、あなたがたに警告する。――あなたがたはきっと滅びるであろう。20 主があなたがたの前から滅ぼし去られる国々の民のように、あなたがたも滅びるであろう。あなたがたの神、主の声に従わないからである。(申命記8:17-20)

 33-34節、「自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。あなたがたの宝のある所には、心もあるからである」。宝とは、その人にとって、かけがえのない大切なものです。生きてゆくための支えであり、頼みの綱であり、喜びと希望の源です。たとえば子供や孫たち家族、それぞれの連れ合いなどもまた、物質的な財産などに負けず劣らず、かけがえのない大切なものです。生きてゆくための支えであり、頼みの綱であり、喜びと希望の源です。とくに、それぞれにとって『宝である人々』、子供や孫たち家族、それぞれの連れ合いなどについては私たちは慎みながら、それらの大切な人々と付き合っていかねばなりません。なぜならその大切な方々は思い通りにしてよい自分の所有物なのではなく、むしろ神さまからほんのひと時おあずかりしているものであり、やがて神さまにお返ししなければならないからです。とくに子供たちにたいしては、やがて、それぞれの子供たちが自分の力で生きてゆくことが出来るようになるように相対し、時が来れば手放してあげなければなりません。私たちが幸いに生きるために、それらの家族が神さまから贈られていることに感謝し、よくよく慎みながら、互いに尊び合いながら、ゆるされているひと時を共に過ごします。

 そのほか、精神的なもの物質的なものと様々に大切なものがあります。「ほんのひと時、神さまから預かっている。やがて、神さまにお返しする」とわざわざ釘を刺しているのは、裸でこの世界に生まれ出てきた私たちは、生まれたときと同じように、それぞれ裸で、何一つも持たずに、この世界から去ってゆくように定められているからです。

 だからこそ、「あなたがたの宝のある所には、心もあるからである」と改めて念を押されます。やがて、手放さなければならないものに執着しすぎては困るからです。やがて神さまにお返しする約束で、ほんのひと時だけ貸し与えられている良いものです。富も名声も、人々からの良い評判も、社会的地位もなにもかも、それらは神さまからほんのひと時貸し与えられている良いものに過ぎないとよく弁えておきましょう。例えば一日分ずつの生命が、それです。「わたしたちの日毎の糧を今日も与えてください」と願い求め、感謝して一日分ずつ受け取っているものの中に、私たちの健康や一日分ずつの生命もまた入っていることをよくよく覚えておきましょう。神さまに感謝し、神さまの恵みを喜び味わいながら、一日ずつを生きるためにです。

 「あなたがたの宝のある所には、心もあるからである」。釘を刺され、念を押されねばならなかった理由は、ここにあります。格別な第一の宝は、神を信じて生きる私たちにとって、神ご自身でなければなりませんでした。古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、蓄えるべき尽きることのない宝とは、神ご自身であり、神に信頼を寄せ、神に聴き従い、神にこそ仕え、神を信じて生きることです。けれども他の様々な宝や富や財宝に目を奪われ、心を奪われ、神をないがしろにしてしまう誘惑に負けて、この私たちは心をさまよわせやすいからです。不信仰に陥り、道を逸れていってしまいやすいからです。そのことを申命記7章、8章、9章と、箴言30:7-9が、ていねいに説き明かしました。(1)申命記8章で、やがて私たちが豊かになるとき、心が高ぶって主を忘れてしまうかもしれないと警告されました。その豊かさの中で神に感謝し、聞き従い、主の掟を守って忠実に生きるようになるはずだったのに、かえって傲慢になって主を忘れ、主に背くことにならないようにと。大きな美しい町を得て住むときにも、その町は自分で建てた町ではない。もろもろの良いもので満ちた素敵な家で暮らすときにも、それらはすべて自分で満たしたのではない。あなたが使っている掘り井戸も、自分で掘ったのではない井戸である。あなたが得たブドウ畑とオリブ畑もまたあなた自身が植えて育てたものではない。たとえ、その町や家や井戸や畑のために私たちはとても労苦したとしても、汗水流してそれらを整えたとしても、神ご自身がそれらすべてを得させてくださったではないかと。すべて一切は、ただただ主なる神さまからの恵みの贈り物だったじゃないかと(申命記6:10-15参照)。だからこそ、こう語りかけられます、「あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである。もしあなたの神、主を忘れて他の神々に従い、これに仕え、これを拝むならば、――わたしは、きょう、あなたがたに警告する。――あなたがたはきっと滅びるであろう」(申命記8:17-20。そのとおりです。自分の力と手の働きで得たと誤解するなら、なぜ私たちは滅びるほかないのか。困難に襲われるとき、神に助けと支えを求めることができないからです。その肝心要のとき、神に信頼を寄せることも、一途に聞き従うことも、神から助けと幸いを受け取ることもできないからです。私たち自身の力と手の働きは決して私たちを救うことなどできないからです。

(2)また箴言307節以下は、神の恵みのもとに慎ましく留まることができるようにと主なる神に願い求めています、「わたしは二つのことをあなたに求めます、わたしの死なないうちに、これをかなえてください。うそ、偽りをわたしから遠ざけ、貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。飽き足りて、あなたを知らないといい、「主とはだれか」と言うことのないため、また貧しくて盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないためです」。貧しくもせず、それだけでなく豊かに富むようにもさせないでくださいと不思議なことを願っています。貧しさと共に、豊かさもまた。主なる神に背く誘惑の種をその内部に隠し持っているからです。貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。飽き足りて、あなたを知らないといい、「主とはだれか」と言うことのないため、また貧しくて盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないためです。飽き足りるとき、なぜ主を知らないと言うようになるのか。なぜ、主とは誰かなどと言うようになるのか。さきほどの申命記8章とまったく同じです。豊かさの中でついつい心が高ぶってしまい、自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得たと勘違いしてしまうからです。富を得る力を神が贈り与えてくださり、だからこそ豊かにされました。そのことを忘れてしまうからです。なんと恐ろしいことでしょう。貧しく乏しいときにも同じです。盗みを働いたり、奪い取ったりするのでなく、すべての良いものがただ神から来ることを思い出して、神に助けと幸いとを願い求めることができたはずなのに、けれど、貧しさの中でその大切なことを忘れていました。「貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください」。と箴言の祈りの人は願い求めていました。ただ、無くてならぬ食物で私を養ってください。無くてならない食物がなんなのか、どこにあるのかを、主なる神が知っていてくださり、私のためにもそれを備え、贈り与え、私を日毎に養い通してくださる。これが、主の祈りの中の「私たちの日毎の糧を今日も与えてください」という祈りの心です。神に願い求め、神から受け取り、神に信頼して感謝することが、貧しさの中でも豊かさの中でも私たちが信仰をもって日々を生き抜いてゆくためにどうしても必要な心得でありつづけます。それを忘れてしまうとき、私たちは神を忘れ、神に背く者たちとなってしまいます。

(3)申命記7章で「あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった。ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、あがない出されたのである。それゆえあなたは知らなければならない。あなたの神、主は神にましまし、真実の神にましまして、彼を愛し、その命令を守る者には、契約を守り、恵みを施して千代に及び、また彼を憎む者には、めいめいに報いて滅ぼされることを。主は自分を憎む者には猶予することなく、めいめいに報いられる」申命記7章6-10節)。私たちは主の聖なる民とされ、祝福と救いへと選び入れられてご自分の宝の民としていただいたと告げられます。しかも、それは「他のどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった」と。さらに同じ9章で、「あなたは心のなかで『わたしが正しいから主はわたしをこの地に導き入れてこれを獲させられた』と言ってはならない。この国々の民が悪いから、主はこれをあなたの前から追い払われるのである。あなたが行ってその地を獲るのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない」(申命記94-5節)と付け加えて念を押します。念を押す目的ははっきりしています。正しい、自分の心がまっすぐだ、あるいは「数が多くすぐれているから。だから」などとうっかり思いあがって傲慢になってしまうならば、その途端に主を忘れ、主に背く自分に成り下がってしまうからです。そうではなく、「神がただ愛してくださり、ただ憐みと恵みによって祝福のうちへと選び入れ、神の宝の民としてくださった」。神が私たちをご自分の宝としてくださった、ほかの何にも代えがたい、とても大切な存在だと慈しんでくださる。

そのことを覚えておくならば、私たち自身もまた、神ご自身とその恵みの御心を自分自身の格別な宝とし、神を喜び感謝し、神に信頼して生きることができるでしょう。そのとき、ついにとうとう私たちは、主なる神にこそ十分に信頼を寄せて生きることをしはじめています。「すべての信頼を神におき、その御意志に服従し、神に仕えて一日ずつを生きること。どんな困難や窮乏の中にあっても神に呼ばわって、救いとすべての幸いを主なる神の中に求めること。そして、すべての幸いはただ神から出ることを心でも口でも認めつつ生きること」(「ジュネーブ信仰問答」問7)。それこそが、自分のための古びることのない財布とその中身になります。そこには盗人も近寄ることができず、虫も決して食い破ることができません。天におられます父なる神の御もとに、尽きることのない宝をたくわえることになります。私たちの宝のある所には、私たちの心もあるからです。なんという幸いでしょうか。

 

 

       《祈り》

出来ないことは何一つもない全能の、父なる神さま。神がわたしたちの味方 であってくださいますことを知らされています。自身の御子をさえ私たちすべての者のために死に渡されたかたが、御子だけではなく、必要なすべて一切のものを必ず贈り与えてくださいます。

       それなのにどうしたわけか、心細く貧しく暮らすものたちが世界にあふれています。私たちもそうです。さまざまな差別や、他の人々を憎む自分中心の思いが多くの人々の心を曇らせ、狭くさせています。とても自分勝手で思いやりのない世界に私たちは暮らしています。そして私たち自身が自分勝手で思いやりのないものたちです。ですから神さま、互いに受け入れ合い、助け合う優しい心を私たちに持たせてください。私たちの永遠の王、ただ独りの大祭司であられます御子イエス・キリストにすべての信頼と希望を寄せて、そこですっかり満ち足りていることができるようにさせてください。御子の忠実さと、御子の守りに信頼させつづけてください。

       主イエスのお名前によって祈ります。     アーメン