2020年9月13日日曜日

9/13「主人に忠実なしもべ」ルカ12:41-50

              みことば/2020,9,13(主日礼拝)  284

◎礼拝説教 ルカ福音書 12:41-50                      日本キリスト教会 上田教会

『主人に忠実なしもべ』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

12:41 するとペテロが言った、「主よ、この譬を話しておられるのはわたしたちのためなのですか。それとも、みんなの者のためなのですか」。42 そこで主が言われた、「主人が、召使たちの上に立てて、時に応じて定めの食事をそなえさせる忠実な思慮深い家令は、いったいだれであろう。43 主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。44 よく言っておくが、主人はその僕を立てて自分の全財産を管理させるであろう。45 しかし、もしその僕が、主人の帰りがおそいと心の中で思い、男女の召使たちを打ちたたき、そして食べたり、飲んだりして酔いはじめるならば、46 その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰って来るであろう。そして、彼を厳罰に処して、不忠実なものたちと同じ目にあわせるであろう。47 主人のこころを知っていながら、それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、多くむち打たれるであろう。48 しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。

49 わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。50 しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある。そして、それを受けてしまうまでは、わたしはどんなにか苦しい思いをすることであろう。                                    (ルカ福音書 12:41-50)

 終わりの日に備えて、救い主イエスは、私たちがどのように生きることができるのかを教えようとしておられます。主人の帰りを待つしもべのようにして待っていなさいと。なぜなら、やがて終わりの日に私たちは救い主イエスによる審判をへて、神の永遠の御国に迎え入れられることになっているからです。

 41節で、救い主イエスの弟子の一人が大切なことを質問しています。「主よ、この譬を話しておられるのはわたしたちのためなのですか。それとも、みんなの者のためなのですか」。神によって造られたすべてのものたちに大いに関係がありますし、皆のためでもあります。それでも特に、神がどんな神なのかを知らされ、その神さまを信じて生きているすべてのクリスチャンのためにこの譬え話が語られています。質問に答えるために、「召使たちを残して主人が家を留守にし、家と他の召使たちのために配慮をする責任を委ねられたしもべ」の譬えが語られます。家を留守にした主人は神さまです。また、その家と他の召使たちのために責任と役割を委ねられたしもべはすべてのクリスチャンです。つまりそのたとえ話の中で、どういう神さまなのか、この世界はどういうものであり、クリスチャンはどういうものなのかと、私たち自身のことを含めて語られています。

 

  (1)主人の心を知っている

 

 47-48節を読むと、とくに誰のために語られているのかがはっきりとします、「主人のこころを知っていながら、それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、多くむち打たれるであろう。しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである」。主人の心を知っている。この世界と、神によって造られたすべての生き物たちと私たちのために、神さまがどんな心をもっているのか。どういう願いをもって私たちを見守っておられるのか。それを知らされているのは、私たちクリスチャンです。その分だけ重く大きな責任があり、果たすべき役割が託されています。けれど主人である神さまの御心を知らされていながら、責任と役割を託された私たちクリスチャンは、その役割を十分には果たしてきませんでした。多くの恵みを与えられ、多く任された私たちは多く求められ、更に多く要求されながら、主人の要求と願いによく応えることができませんでした。むしろかえって、主人の御心に背き、主人を悲しませる行いを多く積み重ねてきました。キリスト教会としても、一人一人のクリスチャンとしてもです。心が痛みます。

 たとえ話の中身を味わいましょう。42-46節、「そこで主が言われた、『主人が、召使たちの上に立てて、時に応じて定めの食事をそなえさせる忠実な思慮深い家令は、いったいだれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人はその僕を立てて自分の全財産を管理させるであろう。しかし、もしその僕が、主人の帰りがおそいと心の中で思い、男女の召使たちを打ちたたき、そして食べたり、飲んだりして酔いはじめるならば、その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰って来るであろう。そして、彼を厳罰に処して、不忠実なものたちと同じ目にあわせるであろう』」。他の召使たちの上に立てられ、多くの良いものを贈り与えられ、責任と役割を与えられているしもべに託された第一の任務は、「時に応じて主人がそれぞれのしもべのために定めてくださった食事を用意させ、公平に過不足なく分け与えさせる」ことです。主の祈りの中の4つ目の願いは、「私たちの日毎の糧を今日も与えてください」です。私たちが喜び感謝して生きるために必要な糧を用意して、与えてくださっている。その神さまに願い求めながら、感謝しながら生きる私たちです。とくに、「私の日毎の糧を」ではなく、「私たちの~」と祈るように命じられているのは、自分だけでなく他のしもべたち皆が神さまから受け取るはずの日毎の糧に対しても、『主人の心』を知らされている私たちには責任があるからです。他のすべてのしもべたちの幸いと平和をも心から願っておられる主人だからです。ですから、主人から定められている食事を他のしもべたちに公平に十分に配給せず、自分たちだけで好き勝手に食べたり、飲んだりして酔いはじめ、ほかの召使たちを打ちたたくとき、踏みつけにするとき、憐み深い主人はとても怒り、悲しみ嘆きます。無償の愛とまったくの善意から、『憐み深い主人』はご自身のものであるすべてのしもべたちを区別なく、分け隔てなく尊び、慈しんでくださいます。だからこそ、命の尊さを悟る私たちでありたい。人間も他のすべての生き物も、白人だけでなく他のすべての有色人種もどの民族も、自国民も他国民も、男も女も子供もお年寄りも、さまざまな障害を負った者も健常者も、排除されつづける少数者も皆、分け隔ても区別もなくとても尊い。つまりは、どの一つの小さな命もとても尊い。奴隷制度が廃止され、公民権運動の活動がつづき、その後もなお黒人へのきびしい差別と排除がつづいています。「黒人のいのちも大切だ」Black Lives Matterなどとわざわざ声高に何百年も叫びつづけねばならないのは、なぜか。それでもなお様々な差別と迫害が止まないのは、いったいどうしたわけなのか。アメリカ合衆国でもこの日本でも、世界中いたるところで。様々な人権侵害と迫害が横行する悲惨な現実に対して、キリスト教会にこそ重大な罪責があります。その悪いしもべたちの多くが日曜日ごとに神の国の福音を聴いているはずのクリスチャンたちだからです。主人の心をよくよく知らされている分だけ、それだけ激しく私たちの心が痛みます。

 

 (2)聖霊の火が燃え上がる

 

 49-50節、「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある。そして、それを受けてしまうまでは、わたしはどんなにか苦しい思いをすることであろう」。やや分かりにくい言葉使いです。バプテスマ(洗礼)は、私たちを、神を信じて生きるものたちとする入門の儀式です。神ご自身である救い主イエス・キリストは、その洗礼が真実なものとされるために、ヨルダン川で、その洗礼を受けてくださいました。洗礼者ヨハネが洗礼を授けました。その直前にヨハネは、あらかじめこう告げ知らせていました、「わたしは水でおまえたちにバプテスマを授けるが、わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう」(ルカ福音書3:16。この49節で、「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか」と救い主イエスが仰った「火」とは、主人である神の御心を知らせる聖霊の火です。神の御心を愛し、その御心にかなって歩んでいきたいと願い求めさせる聖霊の火です。私たちが洗礼を受けてクリスチャンとされたとき、ただ水によって人間による儀式がなされただけでなく、主なる神こそがそこで働いてくださり、神ご自身の力と権威によってこそ洗礼が授けられました。聖霊の火と聖霊なる神さまのお働きによって私たちは清くされました。そして、清くされつづけます。ですから洗礼は、どの洗礼も、「父と子と聖霊の御名によって」授けられました。それが、その時以来、私たちの魂の中で燃え続けている、御心にかなって歩んでいきたいと願い求めさせる聖霊の火です。では、さらにもう一度、救い主イエスが受けねばならないバプテスマとは何なのか。人々の手に渡され、「他人は救ったのに自分を救うことはできないのか。神の子なら、そこから降りて自分を救ってみろ」とあざけり笑われながら、惨めな罪人として生命を奪いとられる十字架の死と復活です。その死と復活を、「私に残されている、私のための、受けねばならないバプテスマである。それを受けてしまうまでは、わたしはどんなにか苦しい思いをすることであろう」と救い主イエスは仰いました。その死と復活とはなはだしく苦しい思いには目的があります。神を思う聖霊の火を地上に、そして私たち一人一人の魂に投じるための十字架のあがないです。主人である神の御心を知らせる聖霊の火です。神の御心を愛し、その御心にかなって歩んでいきたいと願い求めさせる聖霊の火が神を信じて生きる罪人の心に投じられ、燃え上がり、ますます燃え盛りつづけるためです。

 私たちの魂に宿る聖霊の火が、こうして私たちを神の子供たちであらせつづけます。時に応じて、他のしもべたちに定めの食事を備えようとするとき、うっかりその大切な務めを忘れていたり、おろそかにしてしまうとき、救い主イエスがともしてくださった聖霊の火が燃えて、私たちを駆り立てます。主人の帰りがおそいと心の中で思い、あるいは主人がおられることをすっかり忘れてしまい、心を鈍くしてしまい、他の召使たちを打ちたたき、さげすみ、踏みつけにするとき、自分たちだけで好きなように食べたり、飲んだりして酔いはじめるとき、そのくすぶって消えかけていた聖霊の火が私たちの中で燃え上がります。1人の貧しく小さなしもべ仲間に食べ物を分けてあげて、その人の喜ぶ顔を見たとき、神さまからの憐みの火が暖かく燃え上がりました。あるいは意地悪で薄情な扱いをしてしまったとき、「なんてことをしてしまったのか」とその同じ憐みの火がこの私たちの胸を刺し貫きました。誰かが思いがけず助けの手を差し出してくれて、それがとても心強く嬉しかったことを不意に思い出して、薄暗がりの夜道にポツンと小さな灯火を見つけたように勇気が湧き起ってきました。そのように今では、とてもたくさんの明るく輝く灯火が贈り与えられ、その灯火に取り囲まれており、この自分はなんと幸いな日々を生きてきたことかと不意に気づきます。

 主人のこころを知らされているしもべたちよ。なぜなら救い主イエスによって、確かに、この私たちのためにさえ、十字架のあがないが成し遂げられているからです。私たちのために受けなければならないバプテスマを、その十字架の死と復活と苦しみとを、救い主イエスが、たしかに受けてくださったからです。だからこそ心が鈍くされる度毎に、私たちに語りかける声があります。「十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、描き出されつづけているのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか」(ガラテヤ手紙3:1-5参照)。そのとき、燃え盛る火が私たちの心に投げ込まれます。消えかけて燻っていた聖霊の火が燃え上がります。何度でも、何度でも。