すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(マタイ福音書11:28-30)
◎とりなしの祈り
ただしくあり、しかも憐れみ深くあってくださいます主なる神さま。
先祖とわたしたちはとても貧しかったのです。恐れと心配と心細さの只中にあって、困り果て、弱り果てていました。見知らぬ遠い国に出稼ぎに来た労働者とその貧しい家族のようでした。夫と死に別れた未亡人のような私たちでした。親と離れ離れに暮らす、寂しくて心細くて惨めな小さな子供のようでした。あなたが、その私共をかわいそうに思って、助け出してくださいました(出エジプト記22:21-27を参照)。ありがとうございます。ありがとうございます、ありがとうございます。あわれみ深く、心優しく取り扱っていただいてきた私共ですから、その同じ憐れみと親切と暖かい思いやりを、他の人たちにも分けてあげることができるようにさせてください。そのように、あなたからの憐れみの光をこの世界に輝かせて生きることができますように、この幸いな私たちを、世のための光とならせてください。
神さま。自分自身と、自分の家族や気の合う親しい仲間や身内と、自分と同じ習慣や文化の同じ民族を愛するだけでは全然足りません。自分たちのためだけの幸せや安心や満足なら、その幸せや満足はとても貧しく小さすぎます。もし、よく働けて役に立つ、自分たちに都合の良い人たちばかりを大切にし、そうでもない小さな弱い人々を軽蔑して、押しのけようとするなら、その幸せはよこしまで、間違った、とても悪い考え方です。ですから、どうか自分と少し違う生活習慣、違う伝統や文化の、違う言葉を話す、肌の色の違う、自分とは違う他の民族の人々をも同じく愛し尊ぶ私たちとならせてください。小さな弱い人々を大切にし、温かく迎え入れる私たちであらせてください。沖縄で暮らす人々も、日本に来た外国人も、危ない原子力発電所のすぐ傍らで暮らす家族も、発電所で安く働かされる下請け労働者たちも、老人たちの生活も若い親たちと子供の生活も、まるでそこにいないかのように見て見ぬふりをされ、置き去りにされつづけます。おかげで、毎日食べるご飯にも本当に困って、学校の給食費も支払えない家がたくさんあります。ひと握りのごくわずかな人々が豊かさを独り占めし、ますます強く豊かになっていきます。その傍らで、多くの貧しい人々が貧しいままに取り残されつづけ、その格差がどんどん広がっていく一方です。そういう社会のしくみを、私たち大人が選び取ってきたからです。この私たち大人の責任です。思いやり深く心やさしい社会を築いてゆくことを、この私たち一人一人にも、どうか心底から本気で願い求めさせてください。この一つの願いをかなえてください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン
みことば/2016,7,31(主日礼拝) № 70
◎礼拝説教 マタイ福音書 9:20-22
日本キリスト教会 上田教会
『出血の病いに長く苦しんできた女を』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
9:20 するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。21
み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。22 イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。 (マタイ福音書 9:20-22)
|
20-21節。この1人の女性には、長い長い苦しみの日々がありました。さまざまな治療を試み、たくさんの医者にかかり、けれどもその結果はむなしいものでした。12年間も。気の遠くなるような、うんざりして、すっかり心が挫けてしまっても不思議ではないほどの、長い長い時間です。そうした悩みの日々に、あの彼女は、主イエスのことを耳にしました。群衆の中に紛れ込み、後ろからそっとイエスの服に触れました。「この方の服の房にでも触れれば癒していただける」と思ったからです。そして癒されました。けれどもどうして、群衆に紛れて、なぜ後ろからそっと触れ、そのまま立ち去ろうとしたのでしょうか。出血を伴う病気は、当時のこの社会の中では『汚れたもの』とされ、その人自身も、その人の寝床も、衣服も手にもつ小物や袋もなにもかも皆、『汚れたもの』と見なされました(レビ記15:25-参照)。その人は行動をきびしく制限され、「人前に出ることを極力慎むように、自宅周辺で、ただ独りで安静にしているように」と命じられました。そうでなければ、うっかり触れてしまった相手に迷惑をかけてしまうからと。神さまに対しても周囲の世間様や人様に対してもふさわしくない私、癒されるに値しない私だからと、この人は身を慎んで、陰に隠れて暮らしてきました。ですから、禁じられている集団の中にひそかに紛れ込んだとき、この人は、恐ろしさと申し訳なさと心細さで、身の縮む思いがしたでしょう。「見つかったら、なんと責められるだろうか。いったいどれほどきびしく非難されるだろう」と気が気ではなかった。けれどその一方で、この一人の女性は信じたのです。このお独りの方こそが、私を癒してくださる。ここに私の救いがある。このお独りの方からの救いを、誰に叱られても何を言われても、私はぜひ受け取りたい。ぜひ、何としてでも受け取ろう。掴み取ろう。
たとえ主イエスの衣の房にでも、後ろからでも、触れさえすれば癒される、と彼女は思いました。恐る恐る、そお~っと手を伸ばしました。「素朴な、単純すぎる信仰だ」などと侮って、見下してはなりません。「主イエスとこの信仰のことを、どの程度に知っていたのか。十分に分かったうえで、それをしたのか」などと、品定めしてはなりません。あなたも私も、他の誰も、審査委員でも試験官でもありません。22節をご覧ください。主イエスご自身こそが、はっきりと太鼓判を押しておられます。「あなたの信仰があなたを救った。だから、しっかりしなさい」と。主イエスの言葉を、そのまま文字通りに、額面通りに受け取りましょう。たじろぎ、何をされるかと恐れながら、けれどもこの一人の人は主イエスへと手を伸ばしました。彼女の信仰は、主へと手を伸ばし、主へと向かう信仰です。悩みがあり、とても抱えきれない困難があり、重すぎる課題があります。それらを抱えて、あの一人の人は、そこで、そのようにして主イエスへと向かいました。ただ信じて。主イエスは、この人の在り方をつくづくと見て、こう仰います。「よし。それだ。それでいい」と。私の抱えたこの問題、この困難は、主イエスの御前に持ち出すにはふさわしくない。主にふさわしくない私、値しない私だ。帰ろう。いつかそのうち都合がついて準備がだいたくい整ったら出直そう、諦めよう。けれども主イエスは、その人を迎え入れるためにすでに準備万端だったのです。いつでも来なさい。とにかく来なさい。まずあのことこのことと後回しにし、二の次三の次にしつづけるのではなくて、いっそ今すぐに来たらどうなんだと。恐れや不安や、一見慎ましそうに見える遠慮に惑わされてはなりません。あのことこのこと、あの人たちこの人たちに目を奪われすぎて、あなたは主を見失ってはなりません。私たちは、主イエスに近づいてゆくことを断念してはならないのです。あなたに触れようとして、ぜひあなたと出会おうとして、あなたのためにも、すでに主イエスは準備万端でありつづけます。
私たち人間への神さまからの招きは、あなどられ、軽んじられ、誤解されつづけます。「さあ渇いている者は皆、水に来たれ」「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい(イザヤ書55:1,マタイ福音書11:28-)。そこで、いったい何が語りかけられていたでしょう。神さまはどんな神さまで、この私たちのために、何を願ってくださっているでしょう。格別なおいしい水を、どの旅人にも飲ませてあげたいのです。ただで。担いきれない重荷を下ろさせ、休ませてあげたいのです。何の交換条件もなしに。それだけです。けれど無理矢理にはできませんし、無理矢理にはしたくはない。しかもそれは、仕事でも義務でも責任でもありません。ただただ恵みの贈り物であったので、双方合意のうえでのやりとりだからです。「あげますよ。はいどうぞ」「ありがとう」と。ですから、せっかく格別な井戸の水の傍らまで連れてこられても、「チャンスがあればいずれそのうちに」などと言いつつ飲もうとしない者たちが大勢おり、つまらなそうにうさんくさそうに通り過ぎてゆく者たちがたくさんいます。「重荷を降ろしたらどうです」と誘われても、「いいえ、間に合っています」などと。もちろん分け隔てをなさらない神さまです。線引きをし、分け隔てをしつづけているのは、もっぱら私たち人間たちではありませんか。招かれる者は多い。けれど、「それじゃあ」と実際に水を飲む者は少ない。重荷を下ろす者たちははとても少ない。
22節。なぜ主は、わざわざ振り向いて、この人を見て、この人にわざわざ声をかけるのでしょう。この一人の女性にも、私たち一人一人にもやはり主イエスは「しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃいます。それは、むしろ「信じるあなたとしてあげよう」という主の約束です。「きっと信じるあなたとする。私が、する。そうすれば、あなたはしっかりすることもできる」という主の決断であり、主イエスを信じて生きることへの招きであり、断固たる宣言です。ですから信仰は、『信じるあなたとしてあげよう』という主イエスへの屈服であり、「参りました。よろしくお願いします」という同意です。疑いながら、迷いながら、けれど私たちは信じました。ここに私たちの救いがあります。この方からの救いを、私はぜひ受け取りたい。ぜひ何としても受け取ろう。掴み取ろう。喜びの日に、その喜びをもって主へと向かう信仰です。それだけでなく悩みと苦しみの日にも、その崖っぷちの日々にこそ、その悩みと苦しみをもって主イエスへと向かう信仰です。主イエスを信じたあなたであり、私です。信じたことは積み重なり、深まっていきます。主と出会いつづけ、主を知りつづける中で、ますます色濃く、ますます深くはっきりと魂に刻み込まれていきます。さまざまなものを恐れていた私です。震えて身をすくませていた私です。不思議なことに、今、主の御前に据え置かれている私たちには恐れはありません。しかも兄弟たち、主の御前ではないどこか他の別の場所などどこにもなかったのです。主の力が及ばない他の別の場所など、どこにもなかったのです。出血の病いに長く苦しみつづけて、主イエスと出会い、とうとう助けていただいた一人の女性。「これは私のことだと、つくづく思いました。本当に嬉しかった」と、ずいぶん前に一人の人が語っていました。「ああ、本当にそうだねえ」と喜び合いました。苦しんでいた長い時間があり、私の失望と落胆があり、願い求めた素朴な期待があり、ついに、とうとう主イエスと出会いました。ですから渋々でも恐れながらでも、他の誰が言っても言わなくても、なにしろ私は言いましょう。「はい、私です。私こそが主の衣のすそに触れました」と。「主イエスと出会いました。その出会いを一つまた一つと積み重ねてきました。主によって支えられ、主によって慰められ、心強く励まされてきた私です。ですから貧しく身を屈めさせらるとき、そこで、そのようにして主へと向かう私です。恐れと心細さに飲み込まれそうになるとき、ガッカリし、疲れ果てて、心がすっかり挫けそうになるとき、そこで、そのようにして主へと向かう私です。「一体どうしたらいいんだろう。誰が私を助けてくれるんだろうか」と途方に暮れるとき、そこで、そのようにして主へと向かう私です。恨みや憎しみに身を焦がすとき、苛立つとき、踏みにじられ傷つけられるとき、人を傷つけてしまったとき、激しく怒るとき、そこで、そのようにして主へと向かう私です。もちろん、恐れることは度々ありました。心を曇らせ、すっかり嫌気がさし、とても心細いときがありました。今も度々そうです。けれど主へと向き直る度毎に、それは取り払われました。そこで、主と出会いました。主との出会いを、この私たちもまた大切に積み重ね、つくづくと噛みしめてきました。
◇ ◇
だからこそ、私たちはここにいます。それは、まったく恵みであり、自由な贈り物でした。まったくの恵み。だからこそそれは、この私が何者であるのかをもはや問いません。この恵みとゆるしのもとに据え置かれて、私たちはもう互いに、大きいだの小さいだの、貧しいだの豊かだの強いだの弱いだの、見苦しいだの見劣りがするだのと見比べ合うことをしなくてよいのです。それら一切は、取るに足りない、あまりにささいなこととされました。それよりも千倍も万倍も大切なことがあるからです。私たちの主なる神さまは生きて働いておられます。私たちの主は、私たちを愛してくださり、私たちのためにも十分に、十二分に、強く豊かであってくださいます。
だからこそ、たとえ私が弱くても、私には恐れはありません。
私が貧しくても、小さくても愚かであるとしても、ひどく不確かであっても、何の不足もありません(讃美歌461番,詩23:1-4,27:1-6参照)。
私が若く未熟であっても、世間の道理をわきまえずあまりにモノを知らなくても、私が年老いていても、弱り果て、今はまだ心を挫けさせているとしても、それでもなお、私たちには一つの確信があります。
主イエスに対する確信です。この主に私たち自身の一切をゆだねることができる、という確信です。ゆだねるに足るお独りの方と出会った、という確信です。