2016年8月17日水曜日

8/14こども説教「自分の目の中の大きな柱を」ルカ6:37-42

8/14 こども説教 ルカ6:37-42
  『自分の目の中の大きな柱を』

42 自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることができるだろう。   (ルカ福音書 6:42)

 「人を裁いてはならない」と主イエスはおっしゃいます。国語辞典を開くと、裁くことは『良い悪いを区別して、決まりをつけること』と説明しています。言っていいことと悪いことがあり、して良いことと、してはいけないことがある。そのことを腹に収めて1日づつを生きること。すると、それは私たちが普段の生活の中で、ごく日常的にしていることです。5~6歳の小さな子供たちもしますし、父さん母さんたちは自分の子供に、なんとかして『良い悪いを区別して、決まりをつけること』を習い覚えさせたいと努力します。そういうことのできる大人になってもらいたいと願って。して良いこととしてはいけないこと。言って良いことといけないこと。大人でも子供でも年配の方々でも、それぞれ誠実に精一杯に善悪を判断し、区別し、弁え知りながら生きる私たちでありたいのです。心の奥底でこっそり弁えているだけではなく、「あなたはそんなことを言ってはいけない。してはいけない。それは悪いことだ」と口に出し、態度にも示すべき時もあります。さて聖書自身は、2種類の裁きについて語りつづけます。人間が人間を裁くこと。そして、神ご自身が、この私たち人間をお裁きになること。
  「人を裁いてはならない」と主はおっしゃいます。それはもちろん、「別にィ。どっちでもいいんじゃないの。私には関係のないことだし」と知らんぷりしていなさいと勧めているわけでありません。そうではなくて、ほんのちょっと聞きかじっただけのことで軽々しく人を判断し、決めつけて、うかつな間違ったやり方で善悪や物事を区別しては困ります。それでもなお私たちの人生は、朝も昼も晩も、家にいても道端を歩いていても、自分自身で良い悪いを判断し、区別し、裁かねばならない事柄の連続です。37節の「ゆるしてやれ」も同じ。何でもかんでもゆるしていいわけではありません。大目に見てゆるしてあげてもいいことはゆるしてあげましょう。けれど、ゆるしてはいけないこともあります。例えば、良い戦争や正しい戦争などどこにもないことを本当は誰でも分かっていながら、自分たちの損得や都合で力にものを言わせて相手を無理矢理にねじふせていこうとする戦争は悪いことです。この国の総理大臣は、そういう悪い国の仲間入りをぜひしたいと言い張り続けています。「戦争をしたい。したい。自衛隊員をどこにでも送り出して、家族がどんなに悲しんでも困っても彼らに戦場で無駄に誰かを殺したり殺されたりさせたい。いいじゃないか、いいじゃないか」と大勢の人々が言い出すとき、どうしましょう。ゆるしてあげたほうがいいでしょうか。例えば原子力発電所はどうですか(*)。民主党の最後の総理大臣、野田佳彦(のだ・よしひこ)さんは、福島第一原発事故から9ヶ月後の201112月に「今回の原発事故は収束(=困った事態や混乱や被害がおさまって、すっかり解決すること)しました。皆さん安心してください」とTVで喋りました。嘘っぱちでした。あの原発事故はいまだに収束していません。今後共、収束する見込みもメドもまったく立っていませんから、決して安心しないでください。とても危ないし、政府も電力会社も原子力規制委員会も誰一人も責任を負おうとしない無責任でいい加減で自分勝手な原子力発電所を、次々と再稼働させ、小さな子供や大勢の家族をそのまま危ない場所で暮らさせつづけることはどうですか。「いいよいいよ。どうでもいいよ」とゆるしてあげましょうか。神さまを信じて生きてゆくって、どういうことでしょうか。ただ心の中でだけ、こっそりと神さまを信じたり祈ったりし、けれど人様の前ではお利口さんに口をピタリと閉じて、目も耳も閉じて知らんぷりしていましょうか。そうすると人様や家族や隣近所や職場では波風立たずに都合がいいです。けれど、それははたして神さまの御心にかなっていて、神さまに喜んでいただけることでしょうか? ――いいえ、決してそうではありません。どうして? 人の心の片隅に住んでいるだけの小さな小さな神さまではなく、全世界をお造りになった、全世界の王として責任を負ってくださる神さまだからです。人の心の中だけの小っぽけな安っぽい平和ではなく、全世界のすべての生き物たちに祝福と平和を及ぼそうとなさる神だからです。だからです もし国民の大多数が賛成しても、政府も総理大臣も「ぜひそうしたい」と強く訴えても、してはいけない悪いことならば、それはしてはいけない悪いことです。決してゆるしてはいけません。裁かねばならない材料は、それぞれの口から出る何気ない言葉もそうです。1つ1つの行動や態度も、腹の思いもそうです。それらはまず、自分自身の目の中から始まります。曇りなくはっきりと見定めるために、目の中の大きな柱も小さなゴミも取り除きたい。目の中にどんなゴミが溜まっているのか、その点検はまず自分自身の目玉から始められていきます。38節、「あなたの量るその量りで、自分にも測りかえされる」。その通りだけど、それより千倍も万倍も大切なことは、当然きびしく裁かれているはずの悪者の私たちを、神さまが裁かないで、ゆるしてくださったこと。見るべきものが見えない、見ようともしなかった私たちを、神さまが、神さまの憐れみを分かって、感じ取って、受け取ることのできる私たちにしてくださったことです。「あなたがたはこの世と妥協してはならない。心を新たにすることによって造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善で、神に喜ばれることかをわきまえ知るべきである(ローマ手紙12:1-2を参照)」と書いてあります。神さまからの救いの約束です。主イエスを信じて生きる中で、誰でもそういう新しい人間に造りかえていただけます。神さまが、この私たちのためにも、きっと必ずそうしてくださいます。ね、とても素敵なことでしょ、本当のことです。


        【割愛した部分の補足説明】
(*)201112月に当時の内閣総理大臣、野田佳彦が「今回の原発事故は収束した」と公けに宣言し、その1年半後の20133月に安倍晋三総理大臣は「やっぱり収束していない」と収束宣言を撤回した。その通り。溶け出た危ない燃料棒がどこに落ちているかのか捜すことも拾い集めることもできず、収束する見込みもメドもまったく何も立っていない現状です。水をジャブジャブジャブジャブかけて冷やしつづけるしかできません。お手上げです。その結果、大量に生み出される高濃度の放射能汚染水を太平洋の海に垂れ流しつづけています。太平洋の海に してはいけない、申し訳わけないことを、私たちはしつづけています。「除染、除染」と言っていました。あの汚染された膨大な量の土も同じ扱いを受けています。町外れの大きな空き地のあちこちに、黒っぽいシートを被せて積み上げています。それで除染したことになるのかどうか。多分、除染ではなくて偽善です。高濃度の放射性汚染水を海にジャブジャブ垂れ流すことも、除染ではなくただの「垂れ流し」です。目をつぶり耳を塞ぎ口も塞いで知らんぷりすることも、除染ではなく収束でもなく安全でもありません。先日の熊本大地震のとき、大規模な地震がずっと続いて、震源地のすぐ傍らにあった川内原発(せんだい・げんぱつ。鹿児島県薩摩川内市)を「危ないから地震が収まるまででいいから止めてくれ」と大勢で頼んでも、知らんぷりされました。四国の伊方原発(いかた・げんぱつ。愛媛県西宇和郡伊方町)は細~い半島の付け根に設置されていて、その先に住んでいるたくさんの住民は、もし事故が起きたら避難することも逃げ隠れることもできません。「やめてくれ。心配だ、恐ろしい」と住民は必死に抗議をしましたが、涼しい顔で、その伊方原発も再稼働させられました。もちろん事故が起きても、「想定外。想定外」と口ずさみながら、その人々を見殺しにするほかないのに。小さな子供も赤ちゃんも、中学生、高校生も大人も年寄りもたくさん暮らしていますが、彼らの安全も生命もどうでもいいと思っているのです。国家も原子力規制委員会も電力会社も、私たち国民も。しかも政府は東南アジアやアフリカ諸国に原子力発電所をたくさん売りさばいて儲けようとしています。『もし事故が起こったらすべてを保証し、全責任を負いますから』というサービス特典付きで。自国の原発設置地方の住民に責任をまったく負おうとしない政府が、どうやって他国の事故被害に責任を負えましょうか。その腹づもりも責任感も、力量もないくせに。そのとき、政府と私たちはどう言い逃れができるでしょうか。2015810日,「第一義的には稼働の責任は事業者」と菅義偉(すが・よしひで)内閣官房長官の記者会見。 同日、安倍晋三首相、参議委員予算委員会での発言をも参照。
         ()インターネット[You Tube]『小出裕章ジャーナル・シリーズ』;問題は悪化している。「汚染水」「地下水流入を防ぐ手段」「膨大な被爆作業労働者の確保」「高まる再稼働の気運」「核のゴミをどうするか」「使用済み核燃料の取出し」「事故から4年」「石棺で封じ込めるしかない(2015,4,25)」「避難指示解除は妥当か(2015,7,11)」「廃炉工程表見直しについて(2015,7,25)」「川内原発再稼働(2015,8,8)」、参照。

      「礼拝説教では、政治や社会状況のことはいっさい語らない」という牧師にときどき出会います。そのような伝道者や信徒はますます増えてゆくかも知れません。けれど、たしか聖書が唯一の判断基準だったはずですね。聖書の何ページに、それが指図されていましたっけ? どんな神さまをどういうふうに、この私たちは信じているんでしょうか。モルデカイはエステルを諭して語りきかせました、「あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」。主イエスご自身も、主を信じる人々を叱って黙らせろと文句を言われて、こう答えました。「あなたがたに言うが、もし、この人たちが黙れば、道端の石が叫ぶであろう」(エステル記4:14,ルカ福音書19:40。もちろん、ぼくも道端の石っころになって 大声で叫びつづけます。