2016年8月23日火曜日

8/21「主のもとから送り出されて」マタイ10:1-15

見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。
                       (イザヤ書 43:19)


 ◎とりなしの祈り
  主なる神。オリンピックの美しく眩しい光の陰に隠されながら、日本の多くの人々がその美しさと感動に魅せられ、自分たちの国の選手たちが勝ち取った金メダルと銀メダルと銅メダルの数を数えつづけている間にも、神によって造られた被造物全体が呻きつづけています。今日にいたるまで、共に産みの苦しみをつづけています。多くの人々が熱狂して素敵な感動を味わい、ただただ自分の国の選手たちの活躍にだけ目を凝らし、自分たちの国の選手を応援し、自分の国の代表者たちの栄光を自分のことのように喜び祝っている間にも、けれども同時に、片隅に押しのけられ、薄暗がりの中に取り残された人々の苦しみと心細さに、私たちの目を留めさせてください。熊本大震災と東日本震災の被災者たちの毎日の暮らしをお支えください。仮設住宅や駐車場の狭い車の中で寝泊りしつづける人々を。福島第一原発事故の汚染区域で暮らす人々を、原発施設の奥深くで許される限度をはるかに超えた放射線被曝にさらされつづけ、体を壊されながら危険な作業に当たる、下請けの下請けの下請けの作業員たちの生活と生命の安全を、どうぞ神さま、とても危険で有毒な水と空気からこの人々を守ってください。危険で有毒な場所から自分と家族が遠ざけられていることを喜ぶだけでなく、この人たち全員を、そこにいてはいけない危険で有毒な場所から遠ざけてください。とくに子供を育てている父親たち母親たちに、そこから離れて新しく生きる勇気を与えてください。自分たちの意思に反して力づくで米軍基地を押し付けられ、ないがしろにされつづける沖縄の人々を。貧しく暮らすおびただしい数の人々を。「農業研修生。職業訓練生」という名目で、けれどまるで人げはないもののようにただただ安く便利に働かされつづける、ないがしろにされつづける外国からの出稼ぎ労働者たちを。
  主なる神さま。どうか私たちを憐れんでください。その隣人たちを自分自身のように愛し、尊び、その人たちの心細さや痛みを自分自身の心細さや痛みとして知りつづける私たちとならせてください。神さまが憐れみ深くあってくださいましたように、この私たちも、あなたの憐れみと慈しみとを証して生きる者とならせてください。あなたの御心になかって生きることを、どうか今日こそ私たちにも願い求めさせてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン

                                          みことば/2016,8,21(主日礼拝)  73
◎礼拝説教 マタイ福音書 10:1-15                       日本キリスト教会 上田教会
『主のもとから送り出されて』~指図と心得.(1)

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  10:1 そこで、イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった。・・・・・・7 行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。8 病人をいやし、死人をよみがえらせ、重い皮膚病の人(*)をきよめ、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。9 財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。10 旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな。働き人がその食物を得るのは当然である。11 どの町、どの村にはいっても、その中でだれがふさわしい人か、たずね出して、立ち去るまではその人のところにとどまっておれ。12 その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。13 もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう。14 もしあなたがたを迎えもせず、またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば、その家や町を立ち去る時に、足のちりを払い落しなさい。 (マタイ福音書 10:1-14)


(*)1996年4月の「らい予防法」廃止に伴い、該当箇所の訳語変更要請が諸教会から寄せられ、それを受けて日本聖書教会は表記をすべて訳語変更し、「重い皮膚病」「皮膚病」「かび」その他に訳し分けています。新共同訳聖書、新改訳聖書などもほぼ同様です。
 
  


  主イエスによって選び出され、またその同じ主によって町々村々へとこの私たちも送り出されてゆきます。選び出された12人の中には、やがて主イエスを裏切るイスカリオテのユダが混じっていました。しかもユダだけではなく、弟子たち皆が主イエスを裏切って、主イエスを置き去りにして逃げ出してしまった。このことが大切です。「主イエスを裏切る者。まさか、それは私のことでは」と私たちも恐れなければなりません(マタイ26:20-22参照)。その恐れこそが、私たちにへりくだった心の低さと慎みとを与えつづけるからです。逆に、「いいや、この私こそが主に対して忠実であり、よく働いている」という思い上がりこそが、私たちを主に背かせようとする罪と邪悪さの根でありつづけるからです。5節「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町に入るな。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け」。これは、大きな謎を含む、かなり難しい発言です。まるでいかにもユダヤ人のためだけの救い主であり、他の外国人たちを排除しようとする神の祝福であるかのようにも聞こえるからです。けれどもちろん、全世界の、すべての諸民族のための、また人間様ばかりでなく神によって造られたすべての生き物たちのための救い主であり、祝福です。そもそもの初めからそうだったのですから。やがて主とその弟子たちは異邦人の道に行き、サマリヤ人の町に入り、それどころか やがて世の果てへまでも、やがてなんとアジアの端っこの端っこの端っこへまでも出かけていって主イエスの弟子たちを生み出してゆくことになるのですから(創世記9:1-17,12:1-3,マタイ28:18-
  8節で、「病人を癒し、死人をよみがえらせ、重い皮膚病にかかった人を清め、悪霊を追い出せ」と命じられました。他の福音書でも同様のことが命じられる場合もあります。神の国を宣べ伝えることと病人を癒し、死人をよみがえらせる奇跡と、その両方が命じられた場合があり、また、もっぱら神の国を宣べ伝えることだけが命じられた場合もありました。これについては、よく分かりません。今日でも、「病気が治る」と言い、そのとおりに治してあげるキリスト教会の働きもあるらしいです。申し訳ありませんが、この上田教会では病気を治したり死人をよみがえらせたりはできないように思えます。重い病人や死にそうな人の傍らでいっしょに時を過ごし、「主よ、もしあなたの御心でしたら、病いから回復させてください」と心を合わせて祈ることもします。辛く苦しい病いを抱えて、なお忍耐しなければならない場合もあるからです。そして共々に、私たちは主なる神さまにこそお委ねいたします。

  8節後半-10節。「ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな。働き人がその食物を得るのは当然である」。マタイ、マルコ、ルカ、三つの福音書でほぼ同じ指図がなされています。ここを読むと、なんだかとても晴れ晴れ清々した気持ちになります。しかも今日でも、これこそが、キリスト教会と働き人たちの営みを正しく規定しています。財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな。その通り。なぜならば、主なる神さまからただで受けたのだし、受けつづけるのだから、その良いものを、私たちもただで贈り与えつづけるのです。「私たちの日毎の糧を今日も贈り与えてください」と願い求め、そのようにしてくださると期待し、確信し、「そのようにしていただいている」と喜び感謝しつづけながら。人はパンのみで生きるのではない。その通り。しかも主の口から出る一つ一つの言葉とともに、天からのパンもまた神さまから日毎に贈り与えられて、その両方の支えと養いを神さまの憐れみによって差し出されながら、晴れ晴れと私共は生きるのです。
 主イエスの弟子、主からの使者としてなすべき私たちの本務がいよいよ告げられます。7節と12-13節。「天国が近づいたと宣べ伝えよ」。そしてどの町、どの村にはいっても、その中でふさわしい人と場所をたずね出して、そこに留まり、その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい」。例えば山奥の小さな農村地帯に主のもとから送り出され、そこに留まったなら、その小さな村に住む農家の人々のためにも平安を祈り求め、それだけではなく『農業研修生。職業訓練生』という名目で馬車馬のようにこき使われ、「本当は神さまを礼拝したいんだけど」と溜息をつき、半ば諦めかけているアジアからの労働者たちのためにも、「ただただ便利で重宝する家畜ではなく、自分たちと同じ生身の人間なんだと気づいてもらえて、やがてとうとう自分たちと同じ一人の人間として取り扱われますように。神を拝む休みが彼らのためにも与えられますように」と平安を祈り求めます。やがて、祈り求めるその私たち自身が平和の使者とされて、精一杯に具体的に働きはじめるために。これこそが、キリストの教会とわたしたちすべてのクリスチャンがなすべき努めです。生涯それを精一杯に心を尽くしてしつづけ、やがて立ち去るべきときが来たら、去っていきます。天国、あるいは神の国とは、神さまが生きて働いてくださり、その所に確かに力を発揮し、神ご自身こそが力と支配を及ぼしてくださるということです。救い主イエス・キリストがこの地上に降りてこられ、その方ご自身によって福音が告げ知らされ、主イエスの福音を信じて生きるものが一人また一人と起こされました。しかも、主イエスの福音の使者である私たちがこの町に来たのは、またそのそれぞれの家族の只中へと送り出されてきたのは、そのパートタイムのいつもの職場へと主のもとから送り出されてきたのは、やがて主イエスご自身がその町へ、その一軒の家へ、そのいつもの職場へも来てくださるというしるしであり、先触れです。救い主がやがてご自分で行こうとしている所へ、ご自身に先立って、私たちは送り出されたのです。『天国は近づいた』という告知と『この家に平安があるように』という祈りとは一組です。主イエスの弟子である私たちは、その一軒の家に、その一つの職場に、その町やその土地に平和があるためにこそ、主のもとから送り出されました。神さまからの平和の使者として。しかも、その家にもその町にも誰一人も平和を受け取ろうとする人が見当たらない場合もありえます。それでもほんの少しも困らない、というのです。神からの平和に誰もふさわしくなく、誰一人も受け取ろうとしない場合、そのとき祈り求めた平和はあなた自身のところに戻ってくる。戻ってきて、あなた自身の魂の内に一つ、また一つと蓄えられ、積み重ねられてゆくと。
 しばらく前に付属幼稚園の子供たちに語り聞かせてきたことも、このことです。「友だちと、どうやって仲良しでいられるだろう。何でも言うことを聞いて、顔色やご機嫌をうかがってハイハイと言いなりになっても、それは仲良しじゃありません。自分の思い通りに従わせても、それは仲良しじゃありません。大きくて強そうに見える友達にもビビってはいけません。小さく弱々しそうに見える友だちも、軽んじてはいけません。付き合いにくいお友だちを、でも仲間外れにしちゃいけません。この人はこういう人だからと、簡単に決めつけてはいけません。苦しいときも、あきらめないで。あなたを助けてくれる人がきっといるから」と。これで十分かも知れませんが、大人の人たちにはもう少し語りましょう。あるとき、そこに、軽々しく他者を裁いてしまっているあなたがいます。あるとき、そこに、自分の思い通りに相手を従わせようとして、「どうしてそうなのか」と責め立てているあなたがいます。あるとき、そこに、惨めに身をかがめて言いなりにされてゆくあなたがいます。「許せない」と怒りつづけるあなたがいます。「どうして分かってくれないのか」と、すっかり失望してしまっているあなたがいます。「わたしは。わたしは」と我を張って私を主とすることを止め、「だって、あの人がこう言う。この人がこうしろと言うから」と言いなりにされつづけて周りの人やモノを主とすることを止めにしたいのです。主をこそ主とし、右にも左にもそれることなく心強く生き抜いてゆく私たちとなりたい。兄弟たち。あなたの家にあるべき平和は、主イエスによる平和であり、主が勝ち取ってくださった平和です。レタス畑のあるあなたの小さな村や、あなたの職場にあるべき平和は、主による平和であり、主が勝ち取ってくださった平和です。その一人の人とあなたとの間にぜひとも回復されるべき平和は、建て上げられてゆくべき平和は、もちろん主による平和であり、主イエスご自身が勝ち取ってくださった平和です。この私たちが『平和と和解の使者』とされるとして、どういうふうにそれを成し遂げてゆけるでしょう。そのやり方は、コリント手紙(2)5:18-21。これは、よくよく覚えて身につけなければなりません。「神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである」。神さまがキリストを通して私たちをご自分と和解させてくださった。罪の責任を私たちに負わせることなく、それを確かに成し遂げてくださった。これが、平和と和解の流儀です。していただいたとおりに、私たちもその同じやり方と流儀で働きます。
 町や村へとそれぞれに遣わされながら、あの弟子たちは、いったい何をしているのでしょう。主イエスの福音を伝え、イエスの弟子とする。神の国を宣べ伝える。あるいは、いつも私たちが言っているように、『伝道している』と言い換えてもよいでしょう。初めに、救い主イエスご自身が仰っていました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と。また、「1人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない99人の、自分は正しいと思い込んでいる人たちに対してよりも、はるかに大きな喜びが天にある」と。罪深い、あまりに自己中心の身勝手な者であっても、なおその1人の人が神へと立ち返って生きるなら、それを大喜びに喜んでくださる神さまであったのです(マルコ1:15,ルカ15:7,10,24,32,エゼキエル18:23,31-32。悔い改め。それは向きを変えることです。目の前の楽しいことや嫌なこと、嬉しいことや辛いこと、自分がしてほしいこと、ほしくないことなど心を奪われ、一喜一憂して生きてきた者たちが、自分自身の腹の思いばかりに目を奪われていた者たちが、180度グルリと向きを変え、神さまへと思いを向け返して生きること。そのために、この私たちも主イエスの弟子とされました。
  14節にも目を向けましょう。「もしあなたがたを迎えもせず、またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば、その家や町を立ち去る時に、足のちりを払い落しなさい」。私たちの祈り願った平和が私たち自身のところへと戻ってくる13節)ことと同様に、私たちはまったく迎え入れられず、見向きもされず、語りかける言葉に耳を傾けてももらえない場合もありうる。それでも、ちっとも構わないし、何の不都合もない。そのとき、足のちりを払い落として、晴れ晴れとしてその家や町を出てきなさいと。しかも、約束された言葉を私たちははっきりと覚えています。「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らに洗礼を施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:18-。主イエスの弟子たちは町や村へと遣わされつづけていきます。神の御前で、神さまに向かって生きる者たちが、その活動の中で一人また一人と生み出されていきます。悔い改めて、福音を信じる。神さまに背を向けて生きていた者たちがグルリと180度向きを変えて、神さまに向かって、神さまの御前に据え置かれて、そこで精一杯に生きはじめる。その、まったく新しい『方向転換』は、いつどこで、誰から始まるでしょう。私たちのための救いの時は、いつ満たされるでしょう。あなたの夫や息子たち娘たち、孫たち、大切な友人たちは、あなた自身は、いつ、どこで、どんなふうに180度グルリと向きを変え始め、神さまからの祝福と幸いを受け取りはじめるでしょうか。――主なる神さまへと思いを向け返すあなたを、まざまざと目の前に見たときに。悩みや辛さの只中で、「けれど私の願い通りではなく、私や他の誰彼の気分や好き嫌いや腹の虫に従ってではなく、そんなことにはお構いなしに、ただただ、あなたの御心のままになさってください」と願い求める1人のクリスチャンの生き様にふれたときに。そこで、そのようにして、神さまへと向かうあなた自身やこの私を見たときに。